初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第22話

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 優しい朝日に包まれて、僕は瞬きをする。起き上がると、また肌触りの良いシルクの色違いで、今日は紺色のパジャマが着せられていた。身体も清潔で、さっぱりとしている。
 ぼう、と冴えない頭で、身体を起して立ち上がる。こけそうになるのを、なんとか踏ん張って堪える。そういえば、昨日は立ち上がることすらできなかったんだ、とだんだんと頭が回ってくる。部屋を出ると、広いリビングに出た。大きなソファと、キッチンがある。窓際は、寝室同様に、大きなガラス窓がはめこまれていて、明るく居心地が良い。観葉植物もすくすくと楽しんでいる。足を踏み入れるが、ソファに座るのはなんだかためらわれて、立ったまま、木洩れ日に目を細めた。きらきらと輝く光をまぶしいと思う自分に、生きているんだ、と実感がわいてくる。ここ数日、嵐のような日々に、本当は夢なんじゃないかと何度も疑った。
 この部屋なら好きにしていいと言われたが、冷蔵庫を開けるのもためらわれて、シンク脇にあったグラスを借りて、水を飲む。じわ、と身体に浸み込んでいく水に、現実なんだなとまた実感させられる。
 カップを握ったまま、近くのダイニングチェアに腰掛ける。ふう、と一息つくと、テーブル上に、サンドイッチのオードブルが置かれていた。食べていいのだろうか。ためらったけれど、腹の虫が無神経に、ぐう、と鳴ったので、あんな仕打ちをされたのだから、これくらい食べても怒らないだろう、と開き直って、ラップを開ける。三角にきれいにカットされたサンドイッチは色々な味があった。ベーコンにポテトサラダ、カツにフルーツに、そして卵。
 僕は、彼の家で食べる卵サンドが大好きだった。一瞬、指先が固まったが、気づいたら、卵のサンドイッチを手に取っていた。おずおずと口に含む。
 ああ、やっぱりそうだ。
 卵の甘みと、レモンのような爽やかな味がする。そして、アボカドが入っていて、さらに味に深みが出ている。パンはふわふわでいい香りがする。僕の大好きな、彼の家のサンドイッチだ。

「懐かしい…」

 こぼれたつぶやきと共に、ほろり、と頬を雫が滑った。小さなその四角をゆっくりと味わう。視線をあげると、初夏の日差しを緑が喜んで、風と共に踊っている。なんて穏やかな日なのだろう。いつの間にか、梅雨は開けてしまったらしい。
 おいしい、と素直に思った。
 初めて食べた時に、おいしくてさくの分もちょうだいって強請ったんだっけ。さく、嬉しそうに全部くれたな。お腹いっぱいで夕飯食べられなくて、怒られたな。サンドイッチを頬張る僕の頬っぺたを、さくは笑いながらつついてた。
 そんな愛おしい記憶がふと蘇って、サンドイッチひとつで、いっぱいになってしまった。
 彼も、そんなことを覚えていてくれたのだろうか。
 たまたまだろう。きっと、そうだ。流れた涙を、心地よい袖で拭う。よくよく見ると、このパジャマも小さい頃から、気に入って着ているものと同じだった。サイズもぴったりで驚く。彼の身体はアルファらしく大きい。このサイズでは絶対に入らない。なぜだろう。このサイズのパジャマを着る彼を想像して、少し笑ってしまった。袖も丈も足りない、ボタンもはち切れそうになっているのを思うと、笑えた。そうやって、頬がほぐれたのに気づいて、安心した。まだ、笑える。
 大丈夫。
 そう自分の腕を撫でた。
 立ち上がり、トイレに行く。いくつかあるドアを開けて、洗面所や何も入っていない押し入れなどを見てから、ようやくトイレを見つける。高校生の寮とは思えない広く、良い物件であり、会長が使う部屋にはふさわしいと感じた。
 廊下からのドアを開けて、リビングに戻ると今度はソファに腰掛けてみた。黒の革張りのソファは触ると硬いが、座ると沈み込むように柔らかかった。あまり生活感のない部屋だなあ、と部屋を観察してから、視線を窓に移す。そよそよと揺れる景色を見ていると、心に温度が戻ってきて、気怠い身体は、自然と眠りに入っていった。




 ドアの開く音がする。耳から情報は入ってくるのに、瞼は上がらない。足音がして、すぐそこで止まる。しばらくしてから、そっと何か、大きくて温かいものが僕の頭をこめかみ、耳にかけて撫でる。その優しい動きに、身体がさらに緩んでソファに沈み込む。少しして、それが離れていくと、遠くで、くすりと笑ったような気配がした。

「変わらないな」

 ぴり、とラップを開ける音がした。視界がぼんやりと見えてくると、長い脚がダイニングテーブル前にあった。それが振り向いて、目の前にやってくる。身体を起そうとするが、重い。パンの香りがした指先が、頬を柔く撫でる。くすぐったくて、頬が緩んでしまう。すると、指先は離れていってしまって、少し残念に思ってしまう。

「んぅ…、さ、く…?」

 行かないで、と指先をぼやける目で追うと、人影が見えた。表情までは見えないが、それが近づいてくると、熱い身体に抱き寄せられた。腕が背中と膝裏に差し込まれ、ふわり、と浮遊感に襲われる。ゆっくりと身体が歩幅に合わせて揺れながら、部屋をまたいでいく。柔らかいベッドに降ろされると、甘い花のような匂いがした。いい匂い。もっと、嗅ぎたい。そう思って、瞼をかすかにあげると、彼が僕を見下ろしていた。
 何か言わなきゃ、とかすかに口を開くと、彼は優しく掛布団を僕にかけてから、そっと唇にキスをした。
 さく…。
 心の中で、つぶやいたが、彼は僕が寝入るのを見届けて、頭を撫でてから部屋を出て行ってしまった。




 そんなことがあった気がする。
 意識がはっきりとしてくると、ベッドの上で夕暮れだった。
 朝ごろ、サンドイッチを一つ食べて、うたた寝をしてしまった。彼が、ここに運んでくれた。そんな気がする。絶対、と言い切れるほど、意識が明確ではなかった。でも、重かった身体も頭も、軽くなっていた。なんだか、心も温かくなった気がする。起き上がって、腕を真上に伸ばすと、血流が蘇ってきたような感覚がする。
 控え目にドアを開けるが、そこには誰もいなかった。ほ、と胸を撫でおろして、とりあえず歯を磨きたい、と先ほど見つけた洗面所へ向かう。ブラシが二本あった。一本は、緑色の柄で、もう一本はピンクと紫を混ぜたような色味のものだった。
 彼と何か同じものを使う時、こうやって色を分けたのを思い出す。昼食やおやつの食べ終わりに一緒に歯磨きをした時には、ブラシの色を同じように分けて、並べて彼の家に保管してもらっていた。えんぴつなどの文房具も、このような色味のものをもらった。御返しは、緑のものを返した。それが、自然と、僕たちのカラーになっていった。
 僕は、赤みのある歯ブラシを手に取り、歯を磨く。新品の感触だった。僕のために、用意をしてくれたのだろうか。このぴったりのパジャマも、歯ブラシも、サンドイッチも。ずく、と心の奥で、熱い何かが湧き上がるような感覚があった。しかし、いや、たまたま。気のせいだ。と首を振って、胸元をぐしゃりと握りしめた。
 ふと視線を上げると、首元に気づく。シャツから除くそこは、以前見つけた虫刺されのような赤い斑点がついていた。まさか、と気づいて、少しシャツのボタンを外して、肩まで開けてみる。すると、目を疑うような事態となっていた。

「これ、って…」

 例の虫刺されのような斑点が無数に散らばっていた。振り返って項を鏡に映すと、そこには、もっと色味が濃く、歯型も見受けられた。おそらく、肩や背中にも広がっている。
 何か自分が、とんでもない病気なのではないかと、一気に頭が冷えたが、冷静に考えてみる。そういえば、彼が執拗にこの辺りに吸い付いていたかもしれない。すると、これは、いわゆる、キスマークという鬱血痕ではないか、と考えついた。
 彼との情事の強さを思い出させるような身体に、か、と一気に血が顔に集まってくるのがわかった。恥ずかしくて、すぐさまシャツのボタンを閉めて、胸元で握りしめ、急いで顔を洗った。
 洗顔を終えると、すっきりして熱も引いたように思えた。柔らかい羽毛のようなタオルで顔の水気を拭っていて、そういえばこの痕、この前からあったよな…と思い出す。あれは、誰かにつけられたものだったのか…。いや、でもその可能性はない。なぜなら、僕にそういうことをする人はいるはずがないから。寮だって一人部屋で誰かがやってくることはない。日中、誰かに吸われたりすれば気が付くはずだ。強いて考えるなら、日中、唯一僕が意識を失っている時間がある。でも、それは、図書室での時間で、隣に柊がいるのだから、ありえない。
 一抹の気がかりを残しながらも、洗面所を出ると、近くのドアが開いて、彼が現れた。僕は、なんと声をかけてよいのかわからなくて、目を見張って彼を見詰めた。彼は、僕に気づくと、長い脚であっという間に目の前に来て、じっと見つめていた。何を考えているのか見えない瞳に、小首をかしげていると、肩を抱かれる。急なことで、びくり、と大げさに身体が跳ねてしまったのを、彼を眉根を寄せていた。彼が出てきた部屋の隣の部屋のドアに手をかける。がちゃりとそこを開けると、壁一面に本がぎっしりと埋まっている書斎だった。

「日中はここを使うといい」

 軽く背中を叩かれて、不安げに見上げると彼は顎で前へとさらに促した。言われた通りに、部屋に入り、本棚を眺めると、僕は驚いた。一冊、手に取り、ぱらぱらとページをめくる。閉じてしまって、もう一冊。何度か繰り返してから、彼に振り返る。何も表情を変えない彼は、腕組みをして壁に寄りかかりながら、僕を見ていた。

「これ…」

 覚えていてくれたのだろうか。
 壁一面の本は、すべて、僕の大好きな作家たちのものだった。
 それは、幼少期から、最近知った作家まである。後ろの本棚にももちろん好きな作家が多く、中には気になっていたが手には取っていなかったものや、知らない作家もいた。
 思わず胸が高鳴っていて、目を輝かせてしまう。最近、テスト勉強と、睡魔によってゆっくり読書が出来ていなかった。自分が監禁されている現状も忘れて、嬉しさに胸がいっぱいになってしまった。

「ありがとう」

 気づいたら、頬が緩んで、そう言葉がこぼれていた。あの時からずっと大好きな作家のデビュー作を胸元に、ぎゅう、と握りしめる。
 いつも、さくは僕の好きなものを当てるのがうまかった。きっと、最近好きになった作家も、たまたまここにあったのだろう。それでも、そのたまたまの奇跡を嬉しく思ってしまった。
 元に戻り、明日はどれを読もうと本棚を吟味していると、後ろから、ぬ、と腕が伸びてきた。左右どちらも、本棚に手がつかれていて、動けなくなってしまう。その腕を辿って視線をあげると随分高い位置に彼の深い青色の瞳があった。久しぶりに見るその瞳は、昔よりも深い色になっていた。切れ長な目元が、大人っぽくて、知らない間にこんなに歳を重ねていたんだ、と他人事のようにぼんやりと思ってしまう。
 彼の、甘い匂いがして、身体の芯がゆるんでいく。名前を呼びたい、と思ったが、呼ぶなと彼に叫ばれた、あの夜を思い出して、口を引き結んだ。あの悲しさを思い出して、視線が勝手に落ちてしまうと、するり、と長い指が僕の頬を撫でた。そして、顎を柔くつかむと、その指の促すままに顔をあげる。なんだか後ろめたくて、視線がなかなかあげられなかったが、視界に、彼のとがった顎が見えて、ゆったり睫毛をあげる。すぐそこに、青がきらめて、唇に吐息がかすめる。

「あ…」

 思わず小さく声と吐息がこぼれて、瞼をさげると、しっとりと唇に柔らかいそれが合わさった。
 それだけなのに、身体がぶるり、と震えて、ぞわぞわと熱が駆け巡る。胸元で、強く本を握りしめると、彼の胸板が押し当てられる。もう一度、ちゅう、と音を小さくたてて、唇を吸われる。唇と耳から、甘い痺れが全身へと送られる。
 口の端を吸われたり、下唇を甘く噛まれたり、何度も角度を変えながら、本棚に押し付けられる。歯茎を滑った舌でなぞられると、膝ががくがくと震え、腰がどんどん重くなる。舌裏に硬くした舌を入れられて、弾力を楽しむように押されたり、溝を丹念に舐められたりすると、彼のシャツに縋ることしか出来なくなる。

「ん、ぅ、あ…っ、んん…っ」

 ふるり、と睫毛を揺らして、そっと目をあけると、まっすぐと僕を見つめる強い瞳があった。ぞくり、と背中を強い電流が走り、舌を吸われる。かく、と膝が落ちそうになって、思わず両手で彼にしがみつくと、どさ、と抱えていた本が床に落ちた。その音で、はっと我に返り、顔を背ける。
 乱れた息を肩で整えていると、つ、と顎を雫が伝い落ちる。か、と顔が熱くなり、急いで手の甲でそれを拭う。溢れた二人の唾液が顎を伝うのも気づかずに、彼の唇に夢中になっていた。乱暴にこすると、じん、と甘い余韻が身体に残響する。その動作を止めるように、大きな手のひらが僕の手を包んだ。視線をあげると、また唇を吸われる。

「あぅ…」

 それだけで、身体はぴくん、ぴくん、と甘く痺れて揺れる。
 これ以上は、だめ…。
 そう意思を込めて、首を横に振ると、彼は僕をそっと抱きしめた。大きな身体に包まれて、甘い匂いが漂う。少し早い心音が伝わってくる。彼の呼吸に合わせて、そこは膨らんだり萎んだりする。うっとりと、その胸板に身体を預ける。
 呼吸が整うまで、こうしていよう。
 もっと早い自分の心音や、熱い身体を見ないように、瞼を降ろした。



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