初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第12話

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 もう、ずっと昔のことのはずなのに、簡単に思い出せてしまう。
 彼との初めての夜も、別れを告げられたあの夜も。

 ばしゃり、と顔を水で洗って、ハンカチで拭く。目線をあげると、目の前の鏡に黒髪で色白の僕が映っている。ベータの男の、僕。
 幼い彼が何度も愛おしそうにキスをしてくれた泣き黒子にそっと触れる。もう、ここに触れてくれている人は、いない。





 あれから、僕は、生きる意味を失って、またベッドの上での生活に戻ってしまった。
 心配した両親が、何冊か本をプレゼントしてくれた。読む気にもならなくて、ずっとベッドの中にいるが、そのベッドにも、彼との思い出が強く浸み込んでいて、苦しくてたまらなかった。
 ある日、ひどい大雨の日の夜中に眠れなくなってしまい、時間を持て余していた時に、ふと本を読んでみた。久しぶりの読書に、あっという間に僕は物語の世界に引き込まれて行き、簡単に読破してしまった。読み終えると、一瞬の高揚感の後に、強い虚無感が生まれ、それが嫌で何度もページを捲った。
 そうしている内に、本の中のある言葉が強く心に残る。
 「生きる意味なんて、誰にもわからない。だから一生懸命、今を生きるんだ。そうすれば、意味がわかるかもしれない」
 その言葉を読んで、なくした大事なピースがぱちり、とはまるような感覚があった。
 それから、周りが心配するほど、僕は机にかじりついて、勉強を始めた。勉強をするか本を読むか。時間が惜しいほど、とにかく知識を取り入れたかった。頭も、心も、いっぱいにしたかった。空いた穴は大きすぎる。身体が空っぽになったのがわかる。だからこそ、それを埋めるようなものが欲しかった。
 家庭教師を毎日いれてもらって、一気に今の学校の進度を追い越した頃、学校での様子をなんとなく察していた両親は、僕に転校を提案してきた。もう季節は二月で、まだ間に合うのか不思議で問うと、どうやら、両親のつながりのある学園らしい。ただし、全寮制になってしまうのがネックだと話した。
 両親とも、僕の意見を尊重すると言って、じっと僕の答えを待ってくれた。
 今通っている場所に、もう僕の居場所はない。未練もない。むしろ、離れたいものがあった。
 彼の姿が、脳裏に浮かんだ瞬間に、僕は、行きたい、と答えた。

 それからは、怒涛に入試対策が始まった。睡眠時間を削って、一日の内のほとんどを勉学に当てた。大変だったけれど、僕はそれが楽しかった。ふと気を抜くと、また泣いて暮らす日々に戻ってしまうような気がしたから。
 そんな僕は周りの大人たちは、全力でサポートしてくれた。綿貫は毎日夜食を届けてくれたし、家庭教師の先生もいつでも質問を聞けるように連絡先を渡してくれた。両親も、心配しながらも毎日声をかけてくれた。そうした人たちの優しさで、僕は頑張れたんだと思う。
 変な時期もあり、編入という形をとるらしく、試験は、まさかの卒業式の日とかぶっていた。両親はとても残念がっていて、学園にかけ合おうとしていたが、僕は丁度良いことだと思って、それを断った。
 温かな春の日。僕は、幼稚舎からの九年間通った学園の卒業式ではなく、桐峰学園の入試へと足を向けた。結果は、余裕の合格だったらしい。満点も多くあって、奨学金を得られる成績を収められた。両親への負担を減らせるなら越したことはない。入学後も苦労するかもしれないと両親は反対したが、僕にとって勉強は苦ではなかった。

 新しい場所で、新しい道を進もう。

 そう意を決して、入寮し、満開の、あの桜並木を、どきどきしながら歩いたあの日も覚えている。
 緊張と期待と、不安が混ざりながら、慣れない制服で入学式の座席へとついた時に、僕は目を疑った。
 新入生代表として、言葉を述べる青年が壇上へと上がる。

「桜咲き誇る、歴史ある桐峰の門をくぐり…」

 よく響く低音が、マイクから僕の鼓膜へと届く。
 なんで…
 頭の中は大混乱で、思わず叫び出しそうだった。指先が真っ白になるまで強く握りしめ、背筋を冷たい汗が走る。
 周囲の子がこそこそと話を始める。おそらく内部進学の子たちなのだろう。全く緊張感がなく、あくびをしている子もいた。

「あの子、編入組だって」

 編入組、というのは、内部進学ではなく、外部から入試を経てここにやってきたことを意味する。

「知ってる。つい、先週、入学が決まったらしいよ」
「うちより上の超名門校に合格してたけど、それを蹴って、うちに来たらしい」
「へ~、そこまでして、何しにきたんだろうね」

 噂とは、どこまで本当かわからない。
 色々な人の羨望や憧れ、妬みをつけて、大きく膨れ上がっている可能性もある。しかし、そうした横暴とも思えてしまうことを、平気でやってのけるのが、彼なのだ。

「それにしても…」
「超かっこいいじゃん」

 数人が、ぴったりと息を合わせてつぶやいた。うっとりと、壇上ですらすらと言葉を述べる一人の男を見つめる。何千人と集まるこの会場で、余裕たっぷりに淡々とスピーチをする姿は、呆れてしまうほど立派だった。

「絶対アルファじゃん」
「え~僕、番に立候補しちゃおっかな~」
「僕も…」

 そう各々つぶやく彼らは、どうやらオメガらしい。
 この学園には、アルファやオメガが多くいる。寮もそれぞれのバース性で棟が分かれている。何百人といる同級生をざっと見ても、明らかなアルファやオメガがほとんどだった。ベータの人口の方が少ないだろう。

「新入生代表、西園寺咲弥」

 壇上の彼が、最後、ゆったりと堂々と、自分の名前を名乗ると、大きな拍手が会場を揺らした。
 西園寺って、あの西園寺グループ?!と拍手に紛れて、周囲がざわついていた。西園寺グループとは、国内屈指の老舗メーカーだ。

「ますます好きになっちゃう」

 口々に周りの生徒たちは、そうつぶやいていた。
 しかし、僕の頭の中は、色々な感情でせめぎ合い、ぶつかり合い、処理が追いついていなかった。

 どうして、ここにいるの。
 彼と離れたくて、ここに入学したのに。
 僕と、離れたかったんじゃないの。

 壇上にいる彼に視線を疑問を投げかけるが、一瞬こちらを見た気がしたが、あっという間に、式は次の事柄へと移っていった。

 僕は、膝が震えていて、そのあとの起立の掛け声にずっと遅れてしまった。






 同学年に十以上学級がある桐峰学園では、同じクラスになることはなかった。
 それでも、廊下ですれ違うことくらいはあって、一番最初の頃だけ、彼と目があった。何か声をかけようと口を開けたが声にはならず、彼は心底嫌そうな顔をして、僕の隣を過ぎていった。あの時、身体が真っ二つにされたような痛みを感じたのを覚えている。
 それから、彼の目は僕を映さなかった。
 その変わり、彼の横には、いつも、可憐な少年や、美人な青年が立ち並び、学年イチのモテ男として名を馳せていた。しかし、彼と恋人になったいう噂は聞かず、ただ、黒髪で細身であれば一夜は遊んでもらえる、ということだけは、ちらっと聞いたことがあった。
 色々な人を、抱いているんだ。そう知った時は、涙が止まらなかった。
 終わったはずの恋なのに、僕はまだ、彼のことが好きでたまらないらしい事実をまざまざと見せつけられて、苦しかった。

 新しい学校で、友達をようやく作れると思ったのに、クラスメイトたちは、僕を遠巻きにちらちら見ては、話しかけてはくれなかった。しかし、悪意がないだけ、幾分も良くて、学園生活は悪いものではなかった。
 しかし、授業が思ったよりも難易度が低くて、少しがっかりした。毎回のテストでは、苦労することもなく、奨学金制度利用の基準の成績を余裕で突破できていた。
 一月もすると、やけに纏わりついてくる同級生がいた。見た目の派手な生徒で、名前はよく覚えていないが、隣の席を陣取っては授業中にしつこくちょっかいをかけてきた。何度も、連絡先を教えろだの、休日にでかけようだの、声をかけられて、僕は辟易して、教室にいる時間を減らしていった。そうしていくうちに、今のこの図書室を見つける。なぜか、学年の主任の先生が特別に許可をくれて、僕は授業にでなくても良いことになった。その分、勉強は自力でなんとかしなくてはならないため、労を要したが、苦になるほどでもなく、僕は充実した学園生活を手にしていた。
 時折、友達や恋人と仲睦まじいクラスメイトたちを見て、憧れたり寂しくなったりすることはあった。それでも、あの面倒くさかったクラスメイトを思い出すと、まあ、一人でも良いのかもしれないと気を取り直して、教科書を開く。
 そして、たまに聞こえる彼の噂や生徒会長として壇上に立つ姿を見て、ひどく恋焦がれてしまう自分に嫌悪してしまうこともあった。今では、この傷も、時が解決してくれるのだろう、とぼんやり、胸を撫でるしかないと割り切れるようにはなってきた。


 図書室に入ると、いつもと様子が違った。
 様子が違う、といっても、司書の先生がいない、ということだけだった。
 午前中勤務だから、この時間なら、確実にいるのに。と小首をかしげて、いつもの座席へと向かう。すると、そこには、大きな背中があった。
 もう、この学園に六年目となるが、こんな経験初めてで、思わず身体がその場に固まってしまう。教科書と本がめいっぱいつまったカバンは非常に重く、ずるりと肩から床へと落ちてしまった。

「わわあっ」

 ばあん、と大きな音を立てて、床に着地した僕のカバンに驚いて、その大きな身体は立ち上がった。百七十ある僕でも見上げる大きさだった。二メートルは、さすがにないよな…。とぼんやり余計なことを考えていると、もさもさの赤毛がきょろきょろと辺りを見回して、僕と目があった。
 ビン底のような、分厚い眼鏡の隙間から、ヘーゼル色の輝きが見えたが、すぐに眼鏡が戻されてしまう。

「は、へ…女神…?」

 それが、柊との出会いだった。


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