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第11話
しおりを挟むそれから、僕は高熱を出して、しばらくの間寝込んでしまった。
同時にお腹も壊してしまって、何かの病気になってしまったのではないかと不安になったのを覚えている。今となっては、それが、彼が性行為中に中に出したことによって、ベータの僕が処理をすみやかに行わなかったために起きたものだとわかる。改めて、自分がベータだったのだと強く、認識させられる記憶でもある。
朧げな意識の中で、綿貫だけが僕の傍で看病してくれていたのを覚えていた。
彼に会いたかった。
勘違いなんかじゃない。
ベータなんか関係ない。
聖だから好きなんだ。
そう囁いて、力強く、いつものように抱きしめてほしかった。
それなのに、冷たいシーツしか身の回りにはなくて、冷や汗と共に、涙が、またひとつ枕に染み入っていった。
身体よりも、心が疲れていたようで、僕の体調を戻すのに、結局数週間かかってしまった。別に、このままでもいい、という投げやりな気持ちと、早く彼に会わなければという気持ちとが相混ぜになっていた。
毎日をベッドの上で過ごし、体調が良ければ、少し庭に出てみたり、本を読んだりした。何のさざ波も立たない穏やかな毎日は、その分色もなく、味もしなかった。
それでもいつまでもこうしていられない。
両親は時たま僕の様子を見に来た。
色々なことがあったのを察して、優しく生暖かい言葉をかけてくれる。その実は、彼とどうなったのか気になってしょうがない色が見え隠れしていて、その期待に応えたい気持ちと、もういい加減はっきりさせて以前同様に過ごさせてほしいという気持ちがあって、僕は意を決して、重い腰を持ち上げた。
久しぶりに袖を通して制服は、ずいぶん重く感じられ、大きくなっていた。ただでさえ薄い身体は、骨が浮き出ているようで気持ちが悪かった。それを隠すように、急いで制服を着て、時間をかけて準備をする。何を丁寧にしているわけではなくて、とにかく早くしようという気がわかなかった。
それでも、今日、頑張らないといけない。
今日を逃してしまうと、永遠に学校に行けない、彼に会えなくなってしまうのではないかと思ってしまうほど、僕は長い時間ベッドの上で過ごしていたからだ。
憂鬱な僕を、いつものように、無表情で綿貫が車を停めて待っていた。
今日は、児童会の解散日だった。
授業が終わった放課後に、今まで学園のために尽力してきてくれた児童会へ慰労会が行われる。ジュースや軽食があって、ほとんどの児童たちはそれが目当てだが、カードゲームや簡単な屋台なんかも学園内に出て、みんなが楽しみとする日でもあった。
僕は、二年間、児童会長を務めあげた彼を、讃えないといけないと思っていた。なぜなら、僕が彼の背中を押して、あの役職に就かせてしまったからだ。周りからは、散々、僕の存在なんかなかったかのように話をされている。あの夢木美久の手柄だと、全児童が思っている。夢木美久も、そうだと思っている。それでも、本当は、僕なんだと、僕だけが信じている。
学校が見えてくる。
それと共に、動悸が乱れているのもわかる。
今日も、何かされていたら、どうしよう。
誰かの悪意を、今、ぶつけられたら、僕は僕でいられる自信がなかった。
今までは、彼がいてくれるという絶対の安心感があったが、ベータと診断されてしまった僕では彼の隣に一生いることはできない。その事実が、幼い僕にはあまりにも大きくのしかかっていた。
「坊ちゃま、ご無理なさらず」
気づけば校門の前に到着していた、綿貫がドアを開けて待っていた。なんだか心配そうに、僕を覗き込んでいた。つ、とこめかみを垂れた汗を手の甲で拭って、大丈夫、と綿貫に笑いかける。少し眉根を寄せた綿貫が、お待ちしておきましょうか、と聞いてきたが、また笑顔で、大丈夫と答えた。そして、いってきます、と小さくつぶやいて、校門をくぐる。
ばくばくと暴れる心臓を、服の上から軽く叩く。
大丈夫。
何度もそう唱えて、僕は昇降口をくぐった。
結果、その日の授業は、まったく滞りなく、過ぎていった。
何かがなくなるわけでもないし、誰かが僕を見て笑うこともなかった。誰かに傷つけられることもなく、最後の鐘がなると、ようやく息をつけた。身体が異常なほど固まっていたことに気づく。指先が痺れているようにも感じた。
勉強は、ブランクがあって、全然わからなかった。でも、家庭教師と一緒に頑張れば、大丈夫だろうとその心配はしていない。幸運なことに、僕は勉強が好きだった。ちゃんと積み重ねていけば、わからないものがわかる快感は他に代えがたいものだったし、きちんと結果がでることが何より嬉しかった。
「今日、咲弥くんに告白しちゃおっかな~」
ふと、周囲からそんな声が聞こえて、思わず振り返ってしまう。そこには、数人のクラスメイトが固まって、帰りの準備をしていた。オメガらしい、小柄で愛らしい顔立ちの少年だった。
「いいじゃん」
「振られたらどこ行く~?」
周りの子たちは友達がうっとりと手を組んでいる様子を茶化すように笑う。その子も、なんでそんなこというの、と可愛らしく頬を膨らましていた。その中の一人が、声を潜めて囁いた。
「でもさ、美久が告るらしいよ」
僕の鼓膜に届いたその音に、目を見張る。周りの子たちは、ええ!と大きな声を出した。その話をした少年が急いで、しーっ!と指を立てる。
「ていうか、美久ってまだ咲弥くんと付き合ってなかったの?」
「いつも一緒にいるじゃん」
「僕、この前手つないで帰ってるの見たよ」
「もうご両家で公認済だって聞いた」
初めて知る事実に、視界がゆさぶられるほど、衝撃を受けた。今でも鮮明に思い出せる、保健室での彼の自信の笑みを嫌でも想起させられた。
「でも、ぶっちゃけ、美久って…」
声を落して顔を寄せあう彼らの続きの言葉は聞こえなかったが、確かに~とうなずきあう大きな声は聞こえた。
「まあ、美久には敵わないのはわかってるけど、思いだけは伝えたくて」
少年は頬を染めながら、そうつぶやく。周りの子たちは、変わらず茶化しているが、その子の思いは、僕もわかるような気がする。
体育館横にある中ホールで会は開かれた。
児童会のメンバーの話が次々と終わると、歓談の時間となる。その瞬間、多くの人たちが児童会メンバーのもとに集う。中でも、彼は一番多くの人を集めていた。どんなに多くの人たちが集まっても、頭一つ飛び出すスタイルの良さは健在だった。久しぶりに彼を見て、心臓が早鐘を打つ。会いたかった。ぼう、と彼を見つめてしまうが、その視線がぶつかることはない。今までなら、一番に見つけてくれていたのに。そんな些細な変化にすら、嫌な予感がして、不安が拭えない。
体調が戻ってきたとはいえ、多くのものを食べることも飲むこともできなくなっている身体は、ずっと独りぼっちで立っていられるほど元気ではなかった。ざわつきの中をかいくぐり、誰もいない静かなバルコニーへと出る。奥にある泉の音が聞こえて、中の騒々しさが遠くに感じる。
話したい。
でも、いつ、どこで話しかければいいのかわからなかった。
気づけば、深い溜め息が出て、暗闇に白い靄となって吸い込まれていった。
バルコニーでは、足元にヒーターが設置されていて、温かさを持っているが、それを持ってしてもやはり冬場のバルコニーでつらいものがある。いつまでもここにはいられないな、と手を摺り寄せて、息を吹きかける。
「ねえ」
急に声をかけられて、すぐさま振り返る。そこには、背の高いモデルような青年が立っていた。制服やカーラ―から、彼も児童会の一員だということがわかり、そういえば、彼の隣にこんな人がいたような気がする。とぼんやり考えていると、軽薄な笑顔でこの人が僕の横に並ぶ。
「ずっと話してみたかったんだ、咲弥のお気に入りくん」
垂れ目で甘い顔立ちをしている彼は、確か日下部、と言われていた気がする。彼と並んでの人気者だと周りの話で聞いたことがある。
「ふーん…」
ぬ、と手が伸びてきて、思わずびくりと身体が反応して、後ずさるが、彼がそれよりも早く僕の頬を捕らえる。温かい手のひらが頬を包む。思ったより、自分の身体が冷えていたことに気づき、久しぶりの人肌に、身体が勝手に弛緩してしまう。する、と黒子の位置を撫でられると、くすぐったくて身じろぐ。それを見てか、目の前の彼は、ふふ、と柔らかく笑った。目線を上げると、垂れ目の長い睫毛に縁どられた瞳が僕を映していた。
「やっぱり噂通り、すっごくかわいい」
何を言っているのかわからず、首をかしげる。それにも、機嫌が良さそうに日下部はくすくすと笑った。
「君と関わろうとすると、あの王子が怒るから、みんな君と話したいのに、話せないんだよ」
つ、と頬をなぞって、手が消えてしまう。少し名残惜しくて、つい、指先を目で追ってしまった。
「怒る?」
日下部の話の内容がつかめずに聞き返す。それには答えずに日下部が、ずい、と顔を寄せてくる。驚いて後退るが、既に柵が後ろにあってこれ以上避けることは出来なかった。彼の長い腕が、僕の両脇に伸ばされて、柵を握り、僕は彼の身体に閉じ込められてしまう。
「君、ベータなんだって?」
小声で、僕にしか聞こえない音量で囁く。ど、と心臓が鈍い音を立てて、目を見開く。
「そうなんだ…でも、」
す、と首筋で息を吸われて、くすぐったくて肩をすくめる。いい匂い、とうっとり彼がつぶやいて、その吐息が襟足をくすぐり、息が漏れそうになるのを急いで手で押さえて堪える。
その反応を見て、さらにまなじりを甘く垂れさせて、くすくすと笑う。
「じゃあ咲弥とは番えないんだね」
甘い笑顔で、土足で人の心を踏み荒らす。一番、僕が気にしていることだった。
「僕、バース性とか気にしないよ?」
僕と遊ばない?
そう言って、彼は僕の乾いた唇を、長い指で丁寧になぞった。ぞく、と悪寒が走る。この人は、アルファだ。本能がそう察知して、身体の奥が恐怖で冷えていく。膝が震え、動けない。どうしよう。どんどん血の気が引いていくのがわかる。でも、体格差は明らかで、怖くて何も言えない。動けない。
助けて…!
「おい」
その瞬間だった。大きな身体で遮られていた光が、ぱ、と僕の目をひるませた。なんとか瞼をあげると、彼が、日下部の肩を押しのけて、僕の前に背中を見せて立っていた。
「夢木が呼んでるぞ」
低い声で唸るように彼は話す。久しぶりに感じる、彼の存在に、一気に身体中に血が巡っていくような高揚感があった。
「お~こわっ!いつもの王子スマイルはどうしたの~?」
日下部がそうお茶らけると、さらに彼の纏う空気が鋭さを持った。でも、その顔は僕には見えなかった。
「じゃあね、姫。またね」
彼の脇からひょっこりと覗いた日下部は、笑いながら手を振ってきた。どうしていいかわからず固まっていると、彼が日下部の肩を押して、室内へと急がせた。
日下部が室内に戻ってしまうと、急に静けさに包まれて、どうしていいかわからなくなってしまう。彼は何も言わず、こちらを振り向きもしない。声をかけようと、口を開くが、なんと言っていいのかわからずに、うつむいてしまう。
あんなに会いたかったのに。やっと会えたのに。
せっかく会えたのに、なんと声をかけていいものかわからなかった。
そっとうなじを触った。数週間前に彼に噛まれた場所。
毎日、鏡でそこを確認したけど、今は、うっすらと跡がある程度で、もうすぐ、この傷は消えてしまうだろう。今も、他の肌とは遜色ない触り心地だ。
「もう、大丈夫なのか」
声がして、顔をあげると、彼がこちらを見下ろしていた。瞳は静かで、どんな感情なのか全く読み取れなかった。
「あ、うん、もう、大丈夫…」
気の利いた事が言えなくて、また無音になってしまう。そうした自分の要領の悪さが憎かった。次に彼が声を発して顔をあげるまで、無意識に下唇を噛み締めていることに気づかなかった。
「俺、夢木に告白された」
彼が放った言葉の意味がわからなくて、顔を見上げる。
どういうこと…?
まっすぐに僕を見る彼の表情はやっぱり何も読み取れなくて、耳鳴りがする。それでも、彼は僕の言葉を待っているようで、形のいい唇を横に引き結んでいた。
なんて答えればいいんだろう。
嫌だ。
嫌だ。嫌だ。
なんでよりによって、あいつなの。
僕を、こんなに傷つけたあいつなの。
それに、言ったじゃないか。
俺には聖だけだった。かわいいって。好きだ、って。
あれは、嘘だったの。勘違い、だったの。
嫌だよ。
僕をそばにいさせて。
たくさんの感情が、小さな身体の中で渦巻き、淀んでいく。握った拳は、ぶるぶると震えていた。
でも、と、気づいてしまう。
それを言える権利が僕にはなかった。
彼は勘違いで僕を運命の番だと思っていた。そして、僕は、ベータだった。彼の、番にはなれない。結婚しても、子どもを作れないし、彼の隣にずっといられる資格がない。
泣きわめいて彼にすがりたかった。でも、それは、彼にとって、迷惑、でしかないのだ。彼の未来に、僕は、必要ない。
「そう、なんだ…」
絞り出した答えは、それだった。かすれた声は小さかったが、彼には充分届いていたようだった。その答えに、彼は、みるみる顔を歪ませていった。
どんなに人間として、僕から見たら最低でも、夢木美久は人気がある。人望がある。能力も高い。だから、児童会として、彼の隣に立っていられた。そして、何より、彼はオメガである。能力も美貌も、彼と並んでいて、ふさわしく、とてもお似合いだった。それは、みんなが言っていたことだった。
彼は、美久と結ばれた方が、きっとしあわせになれるのだ。
「どう思う」
前よりも低くなった声で、問われる。もう一度、聖はどう思う、としっかりと言った。まっすぐに見つめられる。それ以上見ていると、本当のことを言ってしまいそうだった。
違う。それじゃない。
僕が望むのは、彼が幸せである未来だ。
へら、と笑顔を作る。
「夢木、くん、素敵だもんね。いいと思う」
それに、オメガだもの。
そうは言えなかった。これ以上話すと、嗚咽がこぼれそうだったからだ。
あの瞳にすべてを見透かされそうで、急いで視線を下げる。
「それ、だけか…」
苦々しい呻くような声が聞こえる。けど、それに反応できるほど、今の僕は平然とできなかった。視界にある、彼の爪先が室内へと向かった。
「嘘つき」
は、と顔を上げると彼は背中越しに項垂れていた。思わず手が伸びて、指先が触れると、勢いよくその手を弾かれる。ばし、と乾いた音がして、僕の手は行方を失って宙に浮いた。
「裏切者」
鼻に皺を寄せ、息をつめて苦し気に彼はそう呻いて、室内には消えていった。
その瞬間、ばらばらと堰を切ったように涙が溢れて、手がびりびりと痛んだ。
終わった。
全部、終わったんだ。
だって、どうしようもないじゃないか。
僕は、君と番になれるオメガでもなくて。
君の家族に認められるようなアルファでもなくて。
ただの、ベータだったんだもの。
どうすれば、君の隣に一生いられたの。
僕が隣にいたら、君はしあわせになれない。
だったら、違うオメガかアルファがいた方が良いじゃないか。
ふと、数時間前に聞こえたオメガの子のセリフが頭をよぎった。
許されるなら、僕も、僕の思いを届けたかった。
でも、それは許されない。
なぜなら、僕は、ベータだから。
うなじに触れる。彼の噛んだ痕は、もう感じられない。
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