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最終話

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 ——俺には、『偽物』なんかにゃ見えなかったぞ。

 イーサンのこの言葉は、イザベラの胸に強く焼きついた。まだなお、彼女の胸の奥には、彼の瞳と同じ色をした熱が残っている。
 彼の前で涙を流したあの瞬間から、彼女の心の在り方は大きな変化を見せた。角ばっていた部分は削ぎ落とされ、分厚い殻は次々と剥がれ落ちていった。
 悲しさ、苦しさ、切なさ、それから——喜び。
 長い年月をかけて閉じ込めてきた感情と、ようやく向き合うことができたのだ。
 彼のおかげで。
 泣き叫んでいた数分間。彼は何も言わず、ただただ彼女を抱き締めていた。
 大きくて逞しい胸元——重厚な包容力のあるその姿に、彼女はたとえようのない安心感をおぼえた。
 そして、再認識した。
 自分は、心の底から彼のことを信頼しているのだと。心の底から彼のことを慕っているのだと。
 彼のことを——

 ——愛しているのだと。




 ◆ ◆ ◆




 フォースの容体が急変してから二日が経過した。
 イザベラとイーサンが訪れたあの日の夜から、ずっと昏睡状態が続いている。呼びかけにはまったく応じず、息も弱い。
 刻一刻と、最後のときが迫っていた。
 この日、病室では、朝からイザベラとアルドが付き添っていた。シルビアは、どうしても抜けられない会合があるとのことで、終わり次第すぐに駆けつけると話していた。
 本当は一分一秒でも夫の側にいたいというのが本音のはず。だが、愛する夫が愛した会社を、妻はその小さな体でもって営々と守り続けているのだ。
 眠ったままの父。その傍らで二人、一言も会話を交わすことなく時間を過ごす。抗うことのできない時の流れに、ただ身を任せることしかできない。
 いくらもどかしく思っても。
 いくら、悔しく思っても。
 窓の外には、濃い青空が広がっている。丸二日間降り続いた雨は、つい一時間ほど前、糸が切れたようにぷつりと止んだ。今の姉弟の心中とは、まるきり正反対の空模様である。
 昨日の午後より休暇を取っているイザベラは、家には戻らず、ずっと父と過ごしていた。父の病状が回復することはない。自分に何ができるわけではないが、とにかく片時も離れたくなかった。
 ただ、同じ時間を過ごしていたかったのだ。
 父の蒼顔を見つめていると、言うに言われぬ寂しさにひしひしと襲われる。揺らめく灯火が消えるように、煌めく星が消えるように、父の命もまた、消えてしまうのだろうか。
「……」
 きっともう、父の声を聞くことはできない。このまま静かにを迎えるしかない。
 父の手を握り締めたままのアルドも、そう覚悟を決めているようだった。険しい表情を解くことなく、握り締める両手の力を徐々に和らげてゆく。
 しかし。
 次の瞬間。
「っ!!」
 ほんの少し——ほんの少しだけ、アルドの手の中で父が指を動かしたのだ。ハッとし、すぐさま姉弟で顔を見合わせる。

 そして——

「……イ……ザ、ベ……ア……ド……」
 父の口から洩れた儚い言の葉。
 それは、まぎれもなく、子供たちの名前だった。
 かすれた声で、うわ言のように、途切れ途切れの音を並べる。そんな父に対し、アルドは懸命に語りかけた。
「っ……父さん、ここにいるよ! オレも姉ちゃんもここにいるっ!」
 弟の隣に膝をついたイザベラも、必死で父の口元に耳を凝らした。
「……あ、り……が……——」
 おぼろげな意識のもとではっきりと口にしたのは感謝の言葉。温もりも優しさもすべて包含した、実に父らしい言葉だった。
 おそらくこれが、最期の言葉だ。
 直後、父の呼吸は弱まり、急激に血圧が低下した。心電図の波形が、しだいに高低差をなくしてゆく。
「父さん!!」
 モニターを横目に、アルドが大声で呼びかけた。その両目には、大粒の涙が浮かんでいる。
 嗚咽混じりの声。叫びにも似た悲痛な声が、病室に響き渡った。
「父さん!!」
 何度も。 
「父さん!!」
 何度も——。
「父さ——」
「アルドっ!!」
 だが、その呼び声は、姉の一喝によって制された。思わず言葉を呑み込んだアルドの肩が、びくっと飛び跳ねる。
 姉に怒鳴られたこと自体初めてではない。昔はしょっちゅう怒鳴られていた。けれど、これほどまでに凄絶な一声を浴びせられたのは初めてだった。
 おもむろに立ち上がった姉。その表情は、今にも泣き出しそうなほどに歪んでいた。
「……だめよ」
 ぽたり。
「呼んじゃだめ」
 ぽたり。
「もう」
 ぽたり。

「眠らせてあげて——」

 ぽた——

 静かな声とともに落とされた透明の雫が、シーツに小さな染みを作った。とめどなく流れるその雫は光の筋となり、イザベラの頬を伝ってゆく。
 アルドは、姉弟となって以来初めて、姉の泣き顔を目の当たりにした。同時に、姉の言葉の真意を理解し、シーツに顔をうずめて涙にむせんだ。
 イザベラは、けっして父から目を逸らさなかった。これまでの思い出が瞳の奥にまざまざと蘇る。あまりに鮮明なその一つ一つをなぞりながら、父の最期の姿を脳裏に焼きつけた。
 父の娘となって二十一年。
 血の繋がりに固執するあまり、自分は大切なことを見失っていた。
 助けてあげられなくてごめんね——病に倒れた父に対し、ずっと自分を責めてきた。実の娘ではないことを。竜人ではないことを。
 でも、それは間違いだったと気づいた。彼が気づかせてくれた。
 父にかけるべきは、謝罪の言葉じゃない。自分の想いを伝えるためにも、父に応えるためにも、必要なのは償いなんかじゃない。
 顰めた眉。震える唇。滲む視界に必死で父を映しながら、イザベラは空気に乗せるようにそっと呟いた。

「ありがとう——お父さん」

 貴方の娘でいられたこと。
 貴方の娘でいられること。


 私は、心の底から——誇りに思います。




 ◆ ◆ ◆




 フォースが亡くなってから三日後。
 初夏のうららかな陽光のもとで、彼の葬儀はしめやかに執り行われた。
 五十八歳という若さでこの世を去ってしまった彼に対し、各界からは彼を偲ぶ声が多数寄せられた。経済界、産業界、財界、政界——生前、彼と親交のあった多くの人々が彼の死を悼んだ。
 元帥ゼクス・フレイムはじめ、大将セオドア・シュトラスら軍の関係者も、何名か弔問に訪れていた。
 その中には、少将イーサン・オランドの姿もあった。彼もまた、公人として、葬儀に参列していたのである。
 彼らが着用しているのは、濡羽色ぬればいろのロングコート。軍人が——とりわけ少将以上の将軍が、喪に服する際に纏う礼服だ。
 イーサンは、不謹慎と承知しつつ、式の最中ずっとイザベラのことを気にかけていた。
 漆黒の正喪服に漆黒のヴェールハットを身につけた彼女は、まるでアンティークドールのように美しかった。おそらく、その美しさの中に内在している形容しがたいほどの切なさが、彼女の麗しさをより際立たせていたのだろう。
 彼女は、一滴も涙を零さなかった。
 父が納められたひつぎをじっと見つめたまま、いささかも表情を崩さなかった。
 彼女が我慢をしていることはイーサンにもすぐにわかったが、同時に、けっして感情を押し殺しているわけではないということも観取できた。
 彼女は、娘としてすべてを受け容れたそのうえで、愛する父に別れを告げていたのだ。
 そして、葬儀終了後。
「オランド将軍」
 イーサンは、ある人物に呼び止められた。
「本日は、父の葬儀にご会葬くださり、本当にありがとうございました」
 参列者の少なくなった式場。その隅に佇んでいたイーサンのもとまで歩み寄り、頭を下げたのは、弟のアルドだった。
 着慣れていないのだろう礼服も、わりとしっくり馴染んでいる。……否、この数時間で、そう見えるようになったのかもしれない。
 彼は、喪主として、実に立派に務めを果たしていた。
「……大変、だったな」
 哀しみを拭うには、まだ時間が浅すぎる。覚悟していたとはいえ、父を喪うことの痛苦たるや、きっとたとえようなどないだろう。ゆえにイーサンは、こう伝えるだけで精一杯だった。
 これに対し、アルドは目を細めると、小さく黙礼した。
「先日は、姉を病院まで送り届けてくださったそうで。……本当に、なんとお礼を申せばいいか」
 次に彼は、あの日の出来事について謝辞を述べた。
 どうやら、話はイザベラ本人から直接聞いているらしい。
「え? いや。俺は何も……」
 一瞬まごつきながらも、イーサンはふるふると首を横に振った。謙遜でもなんでもなく、純粋にそう思ったからだ。
 けれど、それを否定するように、今度はアルドがかぶりを振った。
「姉が誰かを頼ることってほとんどないんです。家族でさえも。……だから、姉にとって将軍は、本当に特別な存在なんだと思います」
 柔和な口調で伏し目がちに話す。
 基本的にイザベラは他人を頼らない。絶対と言っていいほど甘えないし、弱さを見せることもない。そのスタンスは、家族を前にしても変わることはなかった。
 そしてそれは、年を重ねるにつれ、顕著なものとなっていった。
 しだいに心は角ばり、分厚い殻で覆われた。必要以上に周囲と関わることを避け、家族と仕事のためだけに生きるようになった。
 いつか姉が壊れてしまうのでは——アルドはそう懸念していた。父が倒れてからはとくに。
 姉を支えてくれる誰かが現れてくれればいいのに——アルドはそう願っていた。この半年間ずっと。
 姉にとってイーサンが特別な存在であることは、もうわかっている。彼のことを話す姉の顔が、想いのすべてを物語っていたから。
 姉を病院に送り届けてくれたこと以上に、姉の特別な存在として側にいてくれるその事実に、アルドは今、感謝の気持ちを捧げているのだ。
「姉が虫と遭遇したところ、ご覧になったことありますか?」
「え? ああ。一回だけ」
「すごかったでしょう?」
「……すごかったな」
「ちなみに何の虫だったんです?」
「あー、と……蛾」
「ああ、それならまだ可愛いものですね。あの人、足の数が増えるほどリアクション増しますからね」
「……マジか。肝に銘じとく」
 六本足で腕を鷲掴みにされるのなら、ムカデと遭遇したあかつきにはいったいどうなってしまうというのか。天変地異でも起こすのではないか。いや、わりと本気で。
 あれほどまでに虫を毛嫌いする理由を、今ここで弟に訊いてみようかと思った。が、なんとなくその疑問は呑み込んだ。
 疑問を解消したところで、否が応でも付き合っていかなければならないのだ。惚れた弱みというやつなので、仕方がない。
「……姉は強いです。今までずっと、家族のために頑張ってくれました。弱音一つ吐かず、愚痴一つ零さず。だけど、もう十分です。姉には、自分の人生を歩んでいってもらいたい。幸せになってもらいたいんです。……姉のこと、どうかよろしくお願いします」
 長い長い道程の途中。誰しも皆、寄りかかる場所が必要になる。姉とて、例外ではない。
 目の前の彼なら——姉が心を許した彼なら、きっと姉の支えになってくれる。よすがとなってくれる。
 煌く淡褐色ヘーゼルが、揺らめく紅蓮に映り込む。心に直接語りかけてくるかのような眼差しだった。
 弟の想いを真摯に受け止めたイーサンは、頬を緩め、一度だけ大きく頷いた。
 家族の絆。その強さを、感じながら。



 丘の上を風が吹き渡る。瑞々しい香りが翠緑の中へと流れ込んでゆく。
 辺り一面を覆う純白は、群生した鈴蘭の花だ。
「こんなとこにいたのか」
 ようやく見つけたイザベラに向かい、イーサンが背後から声をかけた。この間から自分は彼女のことを探してばかりだなと、心の中で苦笑を漏らす。
「風が、気持ちよくて」
 街を見下ろしながら、小さくこう返事をすると、イザベラはイーサンのほうに振り返った。
 澄んだ萌葱色の瞳。薄桃色の頬。薄紅色の唇。
 葬儀のときとは打って変わって、彼女の表情には、彼女らしい温かな情感が戻っていた。
 ゆっくりと、彼女のもとへと歩みを進める。眼下には、自分たちが日々を過ごす街並が広がっていた。
「弟が、少将と話したいって」
「ん? ああ。今話してきた。……若いのに、あんだけしっかりしてりゃあ大したもんだ。親父さんの後継いでも、上手くやっていけるよ」
「そういう話をしたんですか?」
「いや。最初は、わざわざ礼を言いに来てくれたんだが……一番言いたかったことは、お前さんのことだったんだと思う」
「え?」
「『姉のこと、どうかよろしくお願いします』って」
「……えぇっ!? わ、私、少将のこと好きとか、弟に言ってないのにっ!!」
「言わなくてもわかることだってあるんだよ。家族なんだし。……つか。好きとか俺も言われてねーわ」
 拗ねたようなイーサンの目つきに、イザベラは思わずたじろいだ。彼は軽い冗談のつもりだったのだろうが、彼女の胸には、目に見えない何かがグサッと突き刺さったようだ。
 たしかに、彼女は告白していない。気持ちは通じ合っているけれど、言葉にして伝えたわけではなかった。
 彼はちゃんと、何度も伝えてくれているのに。
 言わなくてもわかること。それでも、言わなければならないこと。
 イザベラは、決意を固めた。
「……っ……少将……!」
 視線を他——周囲の風景——へと移していたイーサンだったが、イザベラのこの必死の呼びかけに、再度向き直ってくれた。少しキョトンとしているようにも見える。
 あまりの緊張に、昔患った心臓は爆発寸前だった。耳がじんじんと痛むほどの鼓動。体じゅうが、熱くて熱くてたまらない。
 それでも後に引くことなんてできなかった。
 だって自分は、
「私っ、少将のことがっ」
 彼と一緒に、
「好きで——」

 生きていきたい。

「——」
 風が、凪いだ。
 イザベラは、最後まで言い切ることができなかった。何が起こったのか一瞬理解できなかったが、今の状況はなんとか把握できた。
 背中に回された太い右腕。後頭部に当てられた大きな左手。鼻孔をくすぐる素朴で甘い香り。
 イザベラの細い体は、イーサンによって強く抱き締められていた。
「——!! し、少将……!?」
 彼の腕の中で身じろいでみるも、まったくといっていいほど動けなかった。……当然だ。
 なんたって、体格差は『美女と野獣』なのだから。
 彼の胸に顔を押し当てられているため、身動きも取れなければ、彼の表情さえ窺い知ることができない。
 気持ちだけジタバタしていたイザベラだったが、ややあって、彼に頭上から声を注がれた。
「……約束する」
「……え?」
「必ず幸せにするって、約束する。だから、俺と一緒に、生きてくれないか」
 ここへきて、ようやく緩められた腕。イザベラが天を仰ぐように見上げると、自身の眼差しがイーサンのそれとぶつかった。
 これほどまでに真剣な彼の面持ちを、彼女は見たことがない。
 取りようによっては、求婚プロポーズとも受け取れるこの発言。現段階での彼の真意はわからないが、今まさに自分が思っていたことを彼の口から告げられ、断る理由などあるはずがない。
「……っ、はい……!」
 イザベラは、大きく頷いた。最大級の笑顔を咲かせ、今度は自分から彼の胸へと身体を預ける。彼はまた、温かく包み込んでくれた。
 このわずか半年後。
 二人は結婚することとなるのだが、もちろん、このときはまだ知る由もない。けれど、なんとなく、予感めいたものは感じられた。
 二人の足元でさざめき波打つ翠緑の絨毯。鈴蘭の花弁は光を集め、輝きを放ちながら揺れている。
 謳っている。
 青空に高く響き渡る鐘の音が、長い余韻を残し、清涼な空気の中へと溶け込んでいった。
 悼むように。
 祝福するように。

 未来を、告げるように——。
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