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第3話
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生まれてはじめて自分の足で踏みしめた大地は、敵国の小さな島だった。
水平線に、夕陽が沈む。
夕映えの光が島の椰子林を金色に染め、押し寄せる波頭がまばゆくきらめく。神秘的なまでに美しい海。昼間は深く深い紺碧をたたえているが、時間が変わればこんなにも表情が違う。
潮風の吹き抜ける砂浜で、ジーナはひとり佇んでいた。
高くざらつく波の音が、何度も耳に響いてくる。見渡すかぎり広がる大自然に、体ごと吸い込まれてしまいそうだ。
あれから数週間。しばらく療養に専念していたが、最近では外へ出る機会も増えてきた。といっても、行動範囲はマリスの家の周りだけ。とくに制限されているわけではないが、体力的な問題もあり、今はまだ遠出を控えている。
体調を崩しているあいだは、そのほとんどをマリスとともに過ごした。意外にも料理上手で甲斐甲斐しい彼は、付ききりで看病をしてくれた。
もちろん、留守にするときもあるけれど。
「こらこら! そんな薄着じゃ風邪引くよ! これから気温下がるんだから!」
「ルテアさん」
「ほらこれ。さっき畑で採ったアヌム芋。これ持って早く家に帰りな」
「え、こんなにたくさん……」
「いいよ、遠慮しないで。マリスに言って、食べたいものなんでも作ってもらいな。スープにしてもおいしいよ。……あっ、ガレットもいいかも! まだあるから、なくなったらいつでも言って」
こんなふうに、島民たちが、交代で世話を焼いてくれるのだ。
中でも、このルテアという中年女性は、島一番の世話焼き。食堂を営んでいるという彼女は、新鮮な青果や魚肉、それから日用品に至るまで、こうしてわざわざ届けてくれる。おかげで、ジーナは歩けるまでに回復した。
頭を下げて申し訳ない旨を伝えれば、彼女は、「なに言ってるんだい、家族じゃないか」と、豪快に笑った。
風が冷たい。
もうすぐ、島に夜が訪れる。
じゃあね、と手を振り帰路につくルテアに、ジーナも手を振り見送った。島民性なのだろうか。サクラの人々は、とにかく明朗快活だ。そして、距離が近い。
最初は戸惑ってばかりだったが、できるかぎり彼らと同じように振る舞うことで、なんとかコミュニケーションがとれるようになってきた。笑いかけてくれれば笑い返せばいいし、手を振ってくれれば振り返せばいい。そんな当たり前のことさえも、塔の中では気づけなかったけれど。
……ふと思う。今まで自分が置かれていた境遇は、いったいなんだったのだろうかと。
マリスは言った。ここには〝自由〟があるのだと。ここでは〝自由〟にしていいのだと。
言われたときは意味がわからなかったが、島での暮らしを経験した今なら、はっきりとわかる。
血の繋がった父に奪われたもの。
「いつまでそこにいるんだ?」
敵だと思っていた彼が、与えてくれたもの。
「あ……おかえり、なさい」
マリスの姿を視認し、はにかみながらジーナが言った。ともに暮らすようになり、何度も口にしてきた言葉なのに、まだまだ慣れない。
彼がこちらに歩いてくる。彼のほうへと歩いていく。手には、赤いストールが握られていた。
「家にいなかったから探した」
「すみません。今、戻ろうとしていたところです」
ジーナの小さな肩に、大きなストールが掛けられる。この夕空にも劣らない、鮮やかな真紅。珊瑚で染め上げたというこれも、サクラの伝統工芸らしい。
「その芋……ルテアか」
「はい。さっき、わざわざ届けてくださって」
ジーナの腕から、芋の入った篭を無言でひょいと取り上げ、マリスはくるりと踵を返した。その後ろを、ジーナがついて歩く。
波打ち際に伸びる、ふたりの影。
砂の上に残る、ふたりの足跡。
態度や物言いにぶっきらぼうなところはあるが、マリスから悪意を感じたことは一度もない。同様に、島民たちからも。
ずっと悪意にさらされつづけてきたゆえ、ジーナは悪意に対して敏感だった。唯一信頼できたのは、亡き母ひとりだけ。立場上、怪我を負わされるようなことはなかったけれど、恭しく振る舞って見せる臣下たちのその心裡に、幼心に傷ついたりもした。
存在を隠されていた。意図的に。
マリスの〝嫁〟宣言があったとはいえ、帝国の皇女である自分など、本来ならば死罪でもおかしくはないはずだ。にもかかわらず、島民たちは、そんな自分の存在を認め、あまつさえ長であるこの人の嫁として迎えてくれた。
どうして優しくしてくれるのだろう。どうして受けいれてくれたのだろう。どうして——。
「……あ、の」
「ん?」
「どうして、わたしなのですか? 島にとって、連邦にとって、重要な立場にあるあなたが、どうして、わたしのような人間を……?」
本当に自分でいいのか。そう、ジーナは訊きたかった。
敵国の人間であることに加えて、まだ17歳。おまけに特異な環境で育ったために、〝嫁〟どころか、結婚のなんたるかさえわかっていない。読み物だけは潤沢に与えられていたので、知識としては備わっているけれど、それだけでは不十分なこともまた知っている。
ざりっと、少し先を歩いていたマリスが足を止めた。つられて、ジーナも足を止める。
普段のあどけなさから一転。振り向いたマリスは、雄壮な、されど落ち着いた表情でこう言った。
「オレはただ、自分の気持ちに正直に動いただけだ」
夕焼けに染まった銀髪が、潮風になびく。
穏やかな笑みをたたえた両の目には、驚き息を呑むジーナが映っていた。
「オマエのことを嫁にしたいと思った。それ以外に理由はない」
マリスの言葉が、ジーナの琴線に触れる。飾り気のない、混じり気のない、真っ直ぐな言葉。
ずっとずっと孤独だった。母が亡くなって以来ずっと。
それでも、悲しいと思ったことはない。何もかも諦めていたから。
こんな自分が、居場所を求めてもいいのだろうか。この世界にとって〝災い〟となりうる自分が。
「わたしは、ここにいても、いいのでしょうか。……ここで——」
生きても、いいのだろうか。
芽吹いた感情に惑い、口をつぐむ。なんだか怖くて、無性に悲しくて、最後まで言い切ることができなかった。
そんなジーナのもとに、マリスが近寄る。震える小さな手を取り、ふたたび家路を辿る。
「あのとき、オマエは食べることを選んだ。……それが、オマエが自分で出した答えだろ」
彼方には、強くまたたく一番星。
滲んだマリスの背中は、大きくて、しなやかで、とても眩しかった。
水平線に、夕陽が沈む。
夕映えの光が島の椰子林を金色に染め、押し寄せる波頭がまばゆくきらめく。神秘的なまでに美しい海。昼間は深く深い紺碧をたたえているが、時間が変わればこんなにも表情が違う。
潮風の吹き抜ける砂浜で、ジーナはひとり佇んでいた。
高くざらつく波の音が、何度も耳に響いてくる。見渡すかぎり広がる大自然に、体ごと吸い込まれてしまいそうだ。
あれから数週間。しばらく療養に専念していたが、最近では外へ出る機会も増えてきた。といっても、行動範囲はマリスの家の周りだけ。とくに制限されているわけではないが、体力的な問題もあり、今はまだ遠出を控えている。
体調を崩しているあいだは、そのほとんどをマリスとともに過ごした。意外にも料理上手で甲斐甲斐しい彼は、付ききりで看病をしてくれた。
もちろん、留守にするときもあるけれど。
「こらこら! そんな薄着じゃ風邪引くよ! これから気温下がるんだから!」
「ルテアさん」
「ほらこれ。さっき畑で採ったアヌム芋。これ持って早く家に帰りな」
「え、こんなにたくさん……」
「いいよ、遠慮しないで。マリスに言って、食べたいものなんでも作ってもらいな。スープにしてもおいしいよ。……あっ、ガレットもいいかも! まだあるから、なくなったらいつでも言って」
こんなふうに、島民たちが、交代で世話を焼いてくれるのだ。
中でも、このルテアという中年女性は、島一番の世話焼き。食堂を営んでいるという彼女は、新鮮な青果や魚肉、それから日用品に至るまで、こうしてわざわざ届けてくれる。おかげで、ジーナは歩けるまでに回復した。
頭を下げて申し訳ない旨を伝えれば、彼女は、「なに言ってるんだい、家族じゃないか」と、豪快に笑った。
風が冷たい。
もうすぐ、島に夜が訪れる。
じゃあね、と手を振り帰路につくルテアに、ジーナも手を振り見送った。島民性なのだろうか。サクラの人々は、とにかく明朗快活だ。そして、距離が近い。
最初は戸惑ってばかりだったが、できるかぎり彼らと同じように振る舞うことで、なんとかコミュニケーションがとれるようになってきた。笑いかけてくれれば笑い返せばいいし、手を振ってくれれば振り返せばいい。そんな当たり前のことさえも、塔の中では気づけなかったけれど。
……ふと思う。今まで自分が置かれていた境遇は、いったいなんだったのだろうかと。
マリスは言った。ここには〝自由〟があるのだと。ここでは〝自由〟にしていいのだと。
言われたときは意味がわからなかったが、島での暮らしを経験した今なら、はっきりとわかる。
血の繋がった父に奪われたもの。
「いつまでそこにいるんだ?」
敵だと思っていた彼が、与えてくれたもの。
「あ……おかえり、なさい」
マリスの姿を視認し、はにかみながらジーナが言った。ともに暮らすようになり、何度も口にしてきた言葉なのに、まだまだ慣れない。
彼がこちらに歩いてくる。彼のほうへと歩いていく。手には、赤いストールが握られていた。
「家にいなかったから探した」
「すみません。今、戻ろうとしていたところです」
ジーナの小さな肩に、大きなストールが掛けられる。この夕空にも劣らない、鮮やかな真紅。珊瑚で染め上げたというこれも、サクラの伝統工芸らしい。
「その芋……ルテアか」
「はい。さっき、わざわざ届けてくださって」
ジーナの腕から、芋の入った篭を無言でひょいと取り上げ、マリスはくるりと踵を返した。その後ろを、ジーナがついて歩く。
波打ち際に伸びる、ふたりの影。
砂の上に残る、ふたりの足跡。
態度や物言いにぶっきらぼうなところはあるが、マリスから悪意を感じたことは一度もない。同様に、島民たちからも。
ずっと悪意にさらされつづけてきたゆえ、ジーナは悪意に対して敏感だった。唯一信頼できたのは、亡き母ひとりだけ。立場上、怪我を負わされるようなことはなかったけれど、恭しく振る舞って見せる臣下たちのその心裡に、幼心に傷ついたりもした。
存在を隠されていた。意図的に。
マリスの〝嫁〟宣言があったとはいえ、帝国の皇女である自分など、本来ならば死罪でもおかしくはないはずだ。にもかかわらず、島民たちは、そんな自分の存在を認め、あまつさえ長であるこの人の嫁として迎えてくれた。
どうして優しくしてくれるのだろう。どうして受けいれてくれたのだろう。どうして——。
「……あ、の」
「ん?」
「どうして、わたしなのですか? 島にとって、連邦にとって、重要な立場にあるあなたが、どうして、わたしのような人間を……?」
本当に自分でいいのか。そう、ジーナは訊きたかった。
敵国の人間であることに加えて、まだ17歳。おまけに特異な環境で育ったために、〝嫁〟どころか、結婚のなんたるかさえわかっていない。読み物だけは潤沢に与えられていたので、知識としては備わっているけれど、それだけでは不十分なこともまた知っている。
ざりっと、少し先を歩いていたマリスが足を止めた。つられて、ジーナも足を止める。
普段のあどけなさから一転。振り向いたマリスは、雄壮な、されど落ち着いた表情でこう言った。
「オレはただ、自分の気持ちに正直に動いただけだ」
夕焼けに染まった銀髪が、潮風になびく。
穏やかな笑みをたたえた両の目には、驚き息を呑むジーナが映っていた。
「オマエのことを嫁にしたいと思った。それ以外に理由はない」
マリスの言葉が、ジーナの琴線に触れる。飾り気のない、混じり気のない、真っ直ぐな言葉。
ずっとずっと孤独だった。母が亡くなって以来ずっと。
それでも、悲しいと思ったことはない。何もかも諦めていたから。
こんな自分が、居場所を求めてもいいのだろうか。この世界にとって〝災い〟となりうる自分が。
「わたしは、ここにいても、いいのでしょうか。……ここで——」
生きても、いいのだろうか。
芽吹いた感情に惑い、口をつぐむ。なんだか怖くて、無性に悲しくて、最後まで言い切ることができなかった。
そんなジーナのもとに、マリスが近寄る。震える小さな手を取り、ふたたび家路を辿る。
「あのとき、オマエは食べることを選んだ。……それが、オマエが自分で出した答えだろ」
彼方には、強くまたたく一番星。
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