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【城下逃亡編】
228 満の着付け
しおりを挟む……呆れただろうか。
外が煩いから静寂ではないが、なんとも気まずい。
『……ああ……そうでしたか……。でしたら、その……、私は出来ますけど……』
「……はい……、あの。大変申し訳ないんですけど……着付けをお願いしてもいいですか……?」
……暫しの沈黙の後で満の声がする。
何か察したであろうその返答――、家光はおずおずと着付けを願い出た。
「ええ、――で」
「へ?(ええで? 関西弁……?)」
――今、何て言ったの……?
枕屏風の裏からの返事が打ち付ける雨風でよく聞き取れず、だが、肯定してくれたように思う。
どっちなのだろう……満さんは曖昧な態度を取る人だから……、などと思案した家光であったが、杞憂だった。
『あっ、いや、はい。で、ではそちらに参りますね』
少し焦ったように慌ててはっきりと肯定する。“かた”と枕屏風が揺れて、満が裏側から姿を見せた。
「はい、お願いします……」
――よかった、引き受けてくれた……!
暗い部屋の畳の上を満が歩けば、僅かに足元から振動を感じる。
狭い部屋では距離もそうないから、あっという間に二人は向かい合った。
「ぁ」
「……、その……暗いので目を凝らして見ますが、お許しください」
「っ、は、はい……」
真正面に立たれ家光は息を呑む。
天気の悪いこんな真夜中に、誰も訪ねてくることはない。満は鬘を外した姿で、家光の前に立っていた。
ぼんやりした灯りの中でも、これだけ近ければプラチナブロンドとネオンブルーの瞳がはっきりわかる。
目覚めた時からそうだった。
間近で目が合うと囚われたようにぼぅっとしてしまう。
満の手が静かに衿に伸び、左右の衿を掴む家光の指をそっと解く。
解かれた手は力なく勝手に落ちて、強く掴み過ぎていたのだろう、少し皺になった衿を今度は満が掴んで前をゆるりとした動作で開けさせた。
「っ……!」
――き、着付けをしてもらうだけ……! 着付けなんだよ、これはっっ……!
好きな男の前に素肌が晒され、ひんやりとした部屋の空気が肌に触れる。
長火鉢で火を焚いているとはいえ、部屋の冷たい空気で僅かに肌が泡立つ。
……それにしても恥ずかしいではないか。
今は満が衿を掴んでいるからあれだが、自ら開けさせでもしたら完全に痴女である。
(これじゃ、ちよじゃなくちじょじゃん……!)
自らを振った男にこんな痴態を見せて嫌われやしないだろうか……。
満に見られていると思うと家光の身体は勝手に強張った。
その満は開けさせた衿を持ったまま、ゆっくりした手付きで左右を眺めている。
自らと同じようにど忘れしてしまったのだろうか……、いや、着付けることが出来ると言ったのだからそれはないはず――。
……こんな時、正勝なら既に着付け終えていたことだろう。
ささっと着付けて欲しいものだが、満は他人に対して着付けをするのが初めてなのかもしれない。
慣れない作業であろうから、素肌を見られても仕方ない。
これは不可抗力――。
どっどっどっ……。心臓が強く脈を打ち、家光は満を見ないように部屋の隅に目を移した。
「……っ(すごい……見られてる……?)」
「……すみません、暗くてよく見えなくて……」
目を逸らしたからはっきりしないが、満の視線が家光、自らの肢体に注がれている気がする。
そう思うと羞恥心で脳が満たされ、身震いしそうになった。
「はい……」
暗くて見えないなら仕方ない……灯りもぼんやりしてるから――。満の言葉に家光は素直に納得する。
だが、冷静に考えると右と左くらいすぐにわかりそうなものである。なれど満に見つめられた家光は、あまりの緊張感に気付かなかった。
「……ぃだ……」
「へ? 今、なんて……?」
ぽつりと何かを呟かれ、家光は逸らしていた視線を満に向ける。
……今度は満が家光の視線から目を逸らした。
「……いえ、何でもありません。まだ夜ですから帯を緩めにしておきますね」
「はい、ありがとうございます」
漸く衿を合わせて着付けを始めた満は視線を戻し、家光に微笑み掛ける。
いつもの穏やかな優しい顔だった。
そんな彼に家光も心弛びして目を細める。やっと浴衣を着せてもらえてほっとする。
――城に帰ったら着付けを勉強しないとな……。
政にかまけて自分のことを疎かにし過ぎていたかもしれない。
なにせ、つい先頃まで病床に伏す秀忠の分の仕事も請け負っていたから、いつも行っている午前中の剣術の鍛錬と、座学の時間を削って仕事に割り当てていたくらいだ。
一時は昼餉の時間も下から上がって来た書類に目を通しながらで、手は使えず正勝に食べさせてもらっていた。
正勝は「美味しいですか? 次は何を召し上がりますか?」と己の昼餉はそっちのけ、笑顔で甲斐甲斐しく食べさせてくれたが、あれは甘やかし過ぎだろう。
正勝がいると何でもしてくれるから楽でいいのだが、何でも人任せでは駄目人間になってしまいかねない。
……城に戻ったら着付けを習おう。
そして正勝に甘えるのを減らしていこう――。
家光は将軍としてよりも、先ずは成人した一人の人間として身の回りのことくらいは出来るようになりたい。
……そうでなければ、今後満と顔を合わせる資格がないと思ったのだ。
「……千代さん」
「はい」
「……褥が一組しかないので、今夜は千代さんがお使いください」
「満さんが風邪をひいてしまいますよ? 私はこの褞袍を借りれたら畳の上で構わないので……」
浴衣を着付けてもらい、時刻ははっきりしないがまだ夜中――。
もうひと眠りしようということで、夜明けまで眠ることにした。
ところが褥は一組しかない。独り暮らしだから当然といえば当然なのだが、同じ屋根の下、一緒に夜を明かすと思うと家光の鼓動が逸る。
……満は褥を譲ってくれるという。
部屋の中は肌寒く、畳の上でごろ寝するには厳しいだろう。部屋の主を差し置いて褥を占領するなど出来ようものか。
家光は満に風邪をひかせるわけにいかないと、さっきまで借りていた褞袍を手に申し出る。
褞袍に包まれば寝心地はともかく、寒さは凌げる。
「私は褞袍で大丈夫ですよ。千代さんが褥をお使い下さい」
「そんな……。命の恩人にそんなことできません」
満が褞袍に手を伸ばすが、家光は首を左右に振った。
命の恩人である満も雨に打たれて身体を冷やしたはず――。
しかも先程まで意識のない自らを見守り温めてくれていた。今は浴衣姿だ、褥から出ては寒かろうに。
そんな彼の褥をこのまま使わせてもらうわけには……。
……それから何度か満に褥を譲ろうとしたが、その度に笑顔で断られてしまった。
このままでは埒が明かない。
どうしようかと考えあぐねている間に、満の唇が弧を描く。
「……では、千代さんがお嫌でなければ……一緒に寝ましょうか?」
「へっ?」
間の抜けた家光の声は思いの外大きかった――。
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