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【城下逃亡編】
223 夕暮れ時の雨
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◇
◇
「……はぁ……(千代さん……っ!)」
――ここにも居ない……、確かにこちらへ駆けて行ったように見えたのに……。
人通りの少ない薄暗い路地を眺め、満は溜息を吐く。
そこに駕籠は一つもなく、千代の姿も見当たらない。
走り去る千代をすぐに追い掛けた満だったが、路地を曲がったところであっさり見失ってしまった。
この辺りは表通りから入った裏通り。それも治安があまり良いとは言えない地区の……である。
町の同心が定期的に巡回してはいるものの、追剥ぎや人攫いもいたりする。
……女一人で歩くには向いていない通りだ。
着物であれ程早く走れるというのは、普段から身体を鍛えているからなのであろう。
彼女は武士だ。懐刀を所持していたからある程度の心得はあるはず。
だが、いくら武家の当主だとはいえ、あんな華奢な身体で複数の男に囲まれでもしたら敵わないだろう。
……戸塚で初めて出逢った時も、男達に囲まれていた。
あの時は満、自らが囮になり無事逃がすことが出来たが、今彼女は独り。
先程表通りを歩いていた時も、河原の土手でも、有象無象の男達がちらちらと熱い視線を送っていたことに彼女が気付いている様子はなかった。
牽制の意を込めて親密に見えるよう、距離を縮めたお陰で漸く男達が諦め視線を外したというのに。
そんな男達の注目を浴びる彼女を独りにしてしまった。
早く彼女を見つけなければ、何が起こるか――想像したくもない。
……満は一刻も早く千代を見つけたい一心で裏通りを駆けた。
「はぁ……一体どこに……」
――なんだってこんなことになってしまったのだろう……。
まさか彼女があんな風に走り去るとは思わなかった。
そういえば、初めて出逢ったあの時も足が速かった――などと今になって思い出したところでどうにもならない。
顎に滴る汗を拭い、満は日が傾き始めた空を見上げる。
……夕焼けを覆うような黒雲が出始めていた。
「……雨が降ってきそうだ……雨にあたったら彼女が風邪を引いてしまう……」
――こんなことなら彼女の誘いを断るんじゃなかった。
傷付いた顔をしていた。
何度もそんな顔をさせてしまった。
――あんなにも愛らしい顔を何度も向けてくれたというのに……。
千代の笑顔と、恥じらう姿を思い出すと満の胸は締め付けられる。
……きっと誰もが愛さずにいられない、愛らしい美貌に鈴を転がすような心地の好い声――少しの吃音の拙さには好感が持てるし、豪快に走る様もまた好い。
どの彼女も可愛くて、抑えきれない感情が溢れ、何度“可愛い”と呟いたことか。
初めて出逢った時にはもう惹かれていた。
いつかどこかでまた、一目だけでも見ることが出来たならそれでいいと思っていた。
仮住まいとはいえ自宅に招くことが出来、共に食事を摂ることが出来るなどとは――。
……満はまさかこんな機会に恵まれるなんて思いもしなかったのだ。
訳あって還俗し、もう絶望しかないと思っていた矢先の運命的な巡り合いに、御仏の思し召しだと感謝した。
いけないとわかっているのに、彼女に請われれば止められなかった。
彼女の誘いを断るよう努力し、一度断ったがやっぱり受け入れたくなった。
……千代のことは、彼女が己をどう想ってくれていようとも、諦めなければならない。
己には彼女を選ぶという選択肢がない――そういう契約で今の身分がある。
だから、彼女に誘われても断るつもりでいたし、そう努力した。
本来なら己は一度決めたことは曲げない性格だというのに、彼女の前ではそれが揺らいでしまう。
こんなにも女性に惹かれたのは初めてのことで戸惑った。
再会する以前 二度目に寺で見掛けた時には、許されないことではあるが、気付けば古那に彼女のことを訊ねていた。
彼女がまた寺に訪ねて来るかもしれないことを聞いて、訪問回数も増やした。
一目彼女を見ることができたならそれだけでいい――、始めは本当にそう思っていた。
それがなんだ……。古那から話を聞く度“一目見たい”から“挨拶だけでも”、“話すだけでも”……と、徐々に仏門に下る時に捨てた欲が溢れ出す始末。
“偶然の出逢いで話すことが出来たなら、それだけで良しとしよう”……最終的にはそう落ち着いた。
……そう思ってはいけない相手だったにもかかわらず。
彼女は武家の当主でいずれ正室を娶り、また、必要ならば側室を設ける。
満、己は……そこに属することが出来ない身の上。
今は古那が身元保証人で、然る契約に基づき心も身体も自由に振舞うことを許されていない。
……互いに想い合っていても、結ばれることが出来ない相手同士なのだ。
駄目だ駄目だと頭では理解しているのに、迷いに迷い、揺らぎに揺らいでしまった。
どうにか堪えて駕籠に乗せようとしたというのに、それが裏目に出るとは――。
「千代さん……、どうか無事で居て下さい……」
――私が必ず見つけ出しますから。
見つけたら、どうしよう。
きっともう手放せない気がする……。
……満は千代の顔を思い浮かべると、顔を伏せ眉を顰めた。
◇
ぽっ……ぽつり、ぽつ。
先程までの晴天が嘘のように、どこからともなく雲が広がり夕焼け空を墨色に埋めていく。雨粒が白い土の道に落ちて黒色に染まっていった。
人々が行き交う表通りは雨の降り始めに駆け出す者と、番傘を差し早足で歩く者とがいる。
そろそろ日暮れ近くということもあり、皆々は雨脚が強くなる前にと帰路に就いている様子。
表通りの店も今日はもう客は来ないとみて店じまいを始めていた。
店先に出した品物を仕舞い、雨戸を閉じて――と忙しなく働く商人を横目に、傘も差さずにゆっくりと歩いている者は珍しい。
「娘さん、早くお家にお帰り。今夜は土砂降りになるよ」
店じまい作業中の女性店主の目の前を、ぼんやりした顔の女が通り過ぎ、声を掛けてくれたものの、彼女――千代こと、家光が気付くことはなかった。
「……ん……っ? つめた……あ、雨か……」
……頬に当たる雫が冷たい。
足元の道が少しずつ黒く浸食されていくことに漸く気付き、空を見上げる。
満に別れを告げ裏通りの横道を抜け、いつの間にか再び表通りに出た家光は当てもないまま町を彷徨っていた。
先程まで泣いていたせいか、降り始めた雨に気付くのが遅れ、小袖に雨粒が滲みている。
「……みちるさん……」
――イケメンで、イケボで立場なんか関係なく優しくしてくれて、素敵だったな……。
満とはもう縁が切れてしまった。
初恋は実らないという言葉を聞いたことがあるし、仕方ないのかもしれない。
前世はともかく、現世、自分はこの異世界の最高権力者である将軍。
そして、既に人妻という身分――。
……そもそも恋愛などとは程遠い位置に属しているのだろう。
正室の孝も最初こそ色々あったが、今は嫌いではないし、側室の振だってラブではないにしろ好ましいとは思っている。
その二人も町行く人々から比べれば二枚目の部類に入るし、何より自らを想ってくれているという、他の人から見れば羨ましい立ち位置だ。
幾度となく迎えてきた“初夜”をまともに果たせないために、城を飛び出しこの人ならと見つけた男が、自分を想ってもくれない人物だったとは……。
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「……ぅぇっ……ぅぇぇっ……!」
思い出した家光は本格的に降り出した雨の中、再び泣き出してしまった。
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