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【新妻編】
181 おはぎに気持ちを込めて
しおりを挟む「…………ふぅ」
正勝は鍋の前で額に浮いた汗粒を拭う。
……昨夜は何も無かった。
孝と仲直りしただけである。
昨夜正勝は、襖の前にじっと座って耳を澄ましていたのだ。
家光が危なくなった際は、様子を目視している風鳥から先に動くという話になっており、己はただ黙って、何度も襖の取っ手に手を掛けては下ろしを繰り返した。
……結果、家光が窮地に陥ることはなく、無事に夜が明けた。
春日局の指導が上手くいったことが証明され、家光と孝は和解――。
家光は穢れておらず、その身体は綺麗なまま。
正勝は安堵したが、同時怒りを覚えてしまった。
……次回家光が御鈴廊下を渡り、閨を共にするのは側室候補の振らしい。
己が名乗り出れればいいのに……、何度もそう思ったが、すでにその考えは捨てている。
お手付き――側室になれば、家光の傍にはたまにしか居られない。
彼女の求める時にしか一緒に居ることができない。
今の己の立場なら時間は短いが、いつでも仕事を口実に顔を見に行くことが出来るのだ。
家光に触れることは かなわないが、傍に居られる。
どちらがいいのかと問われれば、正勝の選択は後者――。
父である春日局にも訊かれたことがあるが、正勝の答えはいつでも彼女の側仕えであった。
「……家光様……」
……正勝は照りの出てきた小豆を火から下ろし、冷やしている間にもち米の様子を見る。
作業を続けながらも考えるのは家光のことだけだ。
昨夜もし和解が進み、二人が契りを結んでしまったなら、己は正気でいられただろうか。
“軽率だ”と、家光に怒りをぶつけてしまっていたのでは。
――これでは家光様のお傍にいられなくなる……。
家光様は尊き御方。
己の想いは主従の度を越えている。感情を抑制せねば。
「熱っ……!」
もち米が炊き上がり、正勝は蒸気に触れて声を出す。
……考え事をしながらの作業は良くないらしい。
「……っ……」
――今は作業に集中しよう……、美味しい“おはぎ”を家光様へ。
正勝は一旦考えるのを止め、作業に集中することにした。
家光が好きだと言ってくれた、手製の“おはぎ”。
お詫びも込めて、心を込めて、一つ一つ作っていこう――。
……気付けば朝餉の支度は終っており、台所役人達の姿は少ない。
独り残った正勝は静かになった御膳所で作業を続けた。
「正勝様、火の元にご用心を」
「あ、ええ。心得ております」
朝の片付けをし終えた台所役人が去り際、火の始末をしっかりと言い残していく。
ここ数週間、御膳所に入り浸りだったからか、正勝の姿を変に思う者はおらず、皆温かい目で見守ってくれていた。
台所役人達は、始めは正勝がどういう立場の者か一部の者しか知らなかったが、彼がかなりの頻度で御膳所を訪れる為、次第に知られるようになっていった。
当たり前だが、家光の小姓だとわかると、皆親切に接してくれたのだ。
今では御膳所の一画、小さな竈は正勝用となっている。
「……正勝、何だか元気ないね?」
「っ……!?」
――この声は家光様……!?
不意に背後から家光の声が聞こえ、正勝は振り返った。
……家光は先程自室に戻り、今は朝餉の時間ではなかろうか。
御膳所に彼女が居る筈がない。
「家み……、…………?」
「…………正勝?」
正勝が振り返ると、そこにはここに居るはずのない家光が立っていた。
だが何故だろう……正勝はその家光に違和感を感じる。
「……貴女は……薊……?」
ぽつりと、呟く。
目の前の彼女は家光にそっくりだが、僅かに目の鋭さが強く感じられる。本物とは違う気がした。
――それに、声がいつもより少し低いような……?
正勝は家光(?)を窺う。
もし己が見誤って本物ならば、伏してお詫びせねばならない。
だが、そんなことは杞憂に終わる自信が正勝にはある。
「! あら、あっさりばれてしまいましたね。うーん……やっぱり正勝様の目は欺けませんね」
「やはり薊殿でしたか」
「どうしてわかったのです? 化粧も完璧にしたはずですのに。先程 台所役人達とすれ違って“上様”って驚かれたんですよ?」
「……何故かはご説明出来ませんが、私にはわかります」
薊がにこにこと笑みを浮かべ、家光の笑顔に似せるが、正勝には彼女が偽者だとわかってしまう。
薊の言うように確かに化粧は完璧で、ぱっと見彼女は家光そっくりだ。
だが家光を傍で見続けた正勝には、違うと一目でわかった。
「そうですか……、もっと精進せねばなりませんね」
「……なぜこちらへ?」
「ふふっ、正勝様が気落ちしているのをお見掛けしまして。春日局様からもきちんと成れているか、見定めてもらえと仰せつかっております」
どこで己を見掛けたのかは知らないが、薊は春日局から正勝を騙せるか披露して来いと言われているらしい。
何故今なのかは知る由もないが、同じ主君に仕える身。慰労でもしてくれているつもりなのか――薊は嫣然と微笑んだ。
「ああ……そういうことでしたか」
……本物ではないただ顔が似ているだけの笑顔に正勝は動揺などしない。
正勝がそう思ったのも束の間――。
「大丈夫ですか? ……それとも――正勝大丈夫? あっ、おはぎ美味しそうだね! 食べるのが楽しみだな♡」
「っ……! こ、声が似てきましたね……、以前より家光様に似てきた気がします」
薊の声が家光にそっくりで、正勝は息を呑んだ。
先程聞いた声よりも明るく、鈴を転がすようなその声は、いつも聞いていたい恋い慕う相手の声音そのもの。
「うふふっ! でしょっ! 家光様のお声、可愛らしいから似せるのが大変なんですよ。その点椿は似せなくてもそっくりなんですけどね……」
「……ええ、まあ……あの人はそうですね……。ただ、あの人は仕草が家光様とは違うのですぐにわかります」
薊に、椿について言及され正勝は同意する。
椿は化粧を少しするだけで、家光に瓜二つ。骨格が似ているからか、声まで似ている。
家光が振と出掛けた日、丸一日側で過ごした正勝は、椿を何度か家光と見間違えた。
だが、その椿――所作が家光とは違い、かなり大雑把なのだ。
言動も自称を言う際“私”と言うべきところを“椿”と言ってしまうし、天真爛漫なのは家光もそうなのだが、彼女は度を越している。
そして素直でいい子なのだが、ちょっと阿保の子なのだ……。
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