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【新妻編】
170 正勝の誓い
しおりを挟む「……終わりました」
「ありがとう」
「お胸は苦しく御座いませんか? 苦しければ少し緩めましょう」
「丁度いいよっ。正勝って着付けが上手だね! 長さもぴったりだし、動きやすいやっ」
着付けが終わると正勝は目蓋を静かに開き家光の様子を観察し、訊ねた。
正勝の問いに家光が袖の端を両手でそれぞれ掴んで くるりとその場で軽快に回ってみせる。
「……家光様は寝衣姿もお美しいです」
家光の無邪気な行動に正勝の目元は緩み、目尻には皺が寄せられていた。
――家光様は何も変わられていない……。
真っ白な寝衣だというのに、正勝の目に映る家光は色彩鮮やかに愛らしく、美しい。
幼い頃から彼女はいつでも愛らしかったのだ。
容姿を称えると家光が嫌がるかもしれないが、正勝は伝えておきたかった。
「っ……そ、そぉ? またまたお世辞なんか言っちゃってぇ……! 正勝ってばお上手ねっ」
「世辞などではありません。家光様はいつもお美しいのです」
「……正勝……(ありがと……)」
嬉し恥ずかし照れる家光に、穏やかな顔で告げる正勝の言葉は本心から。
……以前の家光なら受け入れられなかったかもしれないが、今の家光は孝から与えられた呪縛が解けてほんの少しだけ自分に自信を持てている。
正勝が嘘を吐くとは思えず、その褒め言葉をそのまま有難く受け取ることにした。
ただ やはり今まで世辞だと思い、忌み嫌っていた言葉の為、少しだけ胸がざわついてしまうのは仕方ない。
家光は頬をかりかりと掻いていた。
己の言葉を素直に受け止めてくれた家光の様子に、正勝の目はまたもくしゃりとつぶれ、目の端には笑い皺が。
……普段誰の前であろうと殆ど表情を変えない正勝だったが、家光を前にするとその表情は柔らかく、穏やかなものへと変化する。
今夜は家光と顔を合わせてからずっとこうだ。
許してもらえるとは思っていなかったが、許されなかったとしても正勝は家光の顔を見られるだけで顔が綻んでしまうのだから仕方ない。
……今宵、家光を閨に案内する役目を己が春日局より仰せつかったことは意外だったが、一度主君を守り切った実績を買われてのことだろう。
そもそも初夜の時のような事態に陥らないよう春日局が指導しているはずだが、孝は未遂に終わっているとはいえ、前科二犯。
警戒は怠れないということだ。
そもそも孝の立ち位置的に公に“罪”とも呼べない事柄である。
互いに醜聞を広めても得られるものはなく、徳川も鷹司も近しい者達だけが知る事件であり、そのことには誰も触れていない。
大御所、秀忠にも報告は入っているはずだが、特になんの反応もないあたり、夫婦なのだから夜伽くらいするのは当たり前という感覚である。
むしろ子さえ出来なければさっさと致してしまえばいいのに、何を避けているのだ、……とさえ思っている節があり、家光の味方にはなってくれそうもない。
……今のままでは毎日の務めである、朝の御目見えも出来ず夫婦で参加する公務も行えない。
孝が公家の出だろうが、正室は正室。務めを果たしてもらわねばならないのだ。
その為には孝が家光から仕事を任せられなければならないのだが、家光が孝を避け続けているから滞ってしまっている。
このままでは暇を持て余した孝のお付きが詰まらない尾ひれを付けて京都に文でも送ることだろう。
そうすれば公家側からわざとらしい慨嘆の句でも送られて来そうだ。
……つまりは早急に関係の修復が必要なのである。
謝罪は孝の望みでもあるが、政略結婚故に夫婦円満でいることがなにより望ましい。
春日局もそろそろ関係修復を……と考えていたに違いない。
……正勝個人としては決して口にはしないが、全く面白くない話だ。
愛する主君を傷付けてばかりいる男に謝罪する機会など与える必要がどこにあるのか理解し難い。
とはいえ、正勝も武家の人間。
上の者がそうしろと言えば、そうせざるを得ない。
春日局が家光に己が近付くのを警戒していることは知っているが、今夜は何としても守り通せと言うことだろう。
『正勝、今夜は一睡もせず家光様のお傍に控えていなさい。眠れば死罪』
己に命を下す時、春日局はいつもの冷めた目で無表情を装っていたが、“眠れば死罪”を口にした際、口角が少し上がっていたのは いったいどういう了見だったのか……。
正勝にはよくわからなかったが、久しぶりに家光の近くに長時間居られるという僥倖に二つ返事で頭を垂れていた。
「今宵は御添寝役では御座いませんが、閨の隣の部屋にて待機しております。前回のような不手際は致しませんのでご安心下さい」
春日局の言葉を思い出し、死罪と脅されずとも起きているに決まっている、と……正勝は家光に安心して欲しくてすぐ傍に控えていると伝え頭を下げる。
「……うん。つまり、私が助けてって言ったら助けてくれるってことよね?」
「……はい、もちろんです。この命に代えても家光様を二度と悲しませることは御座いません。例え相手がご正室であろうとも、家光様が望まれればお助け致します」
頭を垂れる正勝の頭上に家光の声が降り掛かる。
探るようなその声には不安の色が窺えた。
正勝は胸に手を当て心を込めてはっきりと告げる。
“あなたを失望させることはもう二度とない”のだと。
「……約束してくれるの?」
やはり不安なのだろうか、家光が確認を取る様に訊いて来る。
……彼女はどれだけの心痛を味わったのだろうか。
正勝は胸を痛め 着物の衿をぐっと掴むと、顔を上げて家光の瞳を真っ直ぐ見てゆっくりと言を発した。
「はい、家光様。お約束致します。私はあなたに忠誠を誓っております。私はあなたの忠実なる僕。どんなことがあってもあなたをお守り致します」
「…………その言葉、信じるからね?」
正勝の言葉を聞き終えた家光は一呼吸した後で瞳を潤ませる。
そして正勝に手を差し出すと、笑った――。
「はいっ! ありがたき幸せ……!」
正勝は込み上げる喜びに一気に破顔、家光の手を取り握る。
――家光様の御手は……こんなにも小さかったのか……。
久しぶりに触れた家光の手があまりにも小さく感じて、正勝は“一生このお方をお護りしよう”……そう誓った。
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