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8.5話 想う人
しおりを挟むウルベルトは誰かの背中を見るのが嫌いだった。背中を向けた人間には自分の存在が見えなくなる。声を上げても届かない。子供の小さな歩幅で、急ぐ大人に追いつくのは難しい。『待って』といくら叫んでも、後ろを見ていない大人には聞こえない。振り向いて止まってくれることなどない。
そんな昔の夢を見たせいで目覚めの気分は悪かったが、その日の予定を思い出せばすぐに気分は上向いた。
(今日はメルアンと城の見回りだ。……仕事が楽しいのはいいことだな)
そんなウルベルトの機嫌の良さは執事のバトーにも伝わったらしい。身支度を終え、朝食の支度をしながら彼は笑顔で話しかけてきた。
「坊ちゃま、本日は夢見がよろしかったのでしょうか。ご機嫌麗しいですなぁ」
『坊ちゃまはよせ。夢見は悪かった』
こうして話したところでバトーにはウルベルトの声は聞こえない。だが彼は長年の経験から、何となくウルベルトの口の動きを読めるらしい。正確ではないにしろ、肯定か否定かくらいなら間違えることはない。……だからこそバトーがウルベルトの専属となっているともいえる。
「では、もしかすると本日のご予定のおかげでしょうか。ディオット令嬢にお会いしますから」
『その通りだ』
メルアンに会えるのに機嫌が悪くなるはずがない。ウルベルトにとって彼女は本当に特別な存在なのだ。
この感情は執着ではあるだろう。彼女と関わり続けたいし、できることなら毎日会って話がしたい。しかしそれはきっと、二十年以上の「誰かと話したい」という欲求を埋める行いであり、恋や愛といった感情ではないはずだ。
(今回同行する書記官はゼアスだったな。……なら、口元を隠す必要はないか)
ウルベルトが子供だった頃、教育係の一人として文字を教えてくれたのがゼアスだった。彼は聞こえない声で話すウルベルトの姿を見慣れている。
会うのは久しぶりだが、その性格はよく覚えていた。穏やかで優しい人柄であり、信用ができる人物だ。声なく話すウルベルトとそれに応えるメルアンを見たところで、悪い噂をばらまくことはないだろう。
「お久しぶりでございます、ウルベルト様。この度はよろしくお願いいたします」
『ああ、久しいな。よろしく頼む』
「本日はディオット家のご令嬢ともご一緒できるとお伺いし、楽しみにしておりました」
数年ぶりに顔を合わせたゼアスは以前と全く変わらず穏やかな顔で笑っている。精霊の声、つまりウルベルトの声が聞こえるメルアンも共に行動することは事前に伝えてあったので、彼は軽く視線を動かしてメルアンの姿を探していた。
「ディオット家のご令嬢は別の場所へご案内しております」
「ああ、ではそちらへ」
主の代わりに事情を説明したバトーの言葉にゼアスは頷き、二人でメルアンを呼び出した倉庫前へと向かう。会話はできないため無言で歩いたが悪くない気分だ。
目的の塔に近づくと、その前に佇むメルアンの背中が見えてきた。……その後ろ姿に少しだけ緊張してしまうのは今朝見た夢のせいかもしれない。
離れた位置からその背中に向かって、彼女の名を呼び掛けた。その声に反応するようにゆっくりと振りむいた彼女の金の瞳と目が合って、その瞬間に喜びの感情が湧き上がる。
(名を呼んで振り向いてもらったのは……初めてだ)
名を呼んでも、待ってほしいと呼びかけても、誰も振り返ってなどくれない。この声は誰にも届かないのが当たり前だった。
しかしこの世界で彼女だけがウルベルトの声に気づき、振り向いてくれる。……やはり特別だ。
それで機嫌が良くなりすぎて感情を顔に出しすぎた結果、少し不気味がられたようだが構わない。彼女は王命でこの仕事に就いているのだから、仕事から逃げることなどできないのだ。
結局、事件は呪いのせいで閉じ込められてしまった風の精霊の起こしたものだった。精霊を逃がしたらもう異音はなくなるとはいえ、その後始末がある。
精霊が荒らした資料室には持ち出しを禁じられた研究資料があり、易々と無関係の人間を入れるわけにはいかないため三人で引き続き片づけをすることになった。ウルベルトとしてはメルアンとの仕事が長引くのは喜ばしいことである。
資料室の床に散乱した紙を集めている最中、メルアンとゼアスが二人で何やら話をしている姿を目にした時は、何故か落ち着かない気持ちになってすぐ二人の元に寄った。二人が昔のウルベルトの話をしていたことを知り、ウルベルトもまたゼアスが教育係であった日々を思い出す。
『私を気味悪がる大人ばかりの中で、私に向き合ってくれたのはお前くらいだった。感謝している』
声なき声で訴えかける子供を気味悪がる大人は多かった。しかし幼いウルベルトからすれば、自分には聞こえているその声が他人に届かないことを理解する方が難しかったのだ。
そんな中でゼアスは真剣にウルベルトと向き合ってくれた、数少ない大人のうちの一人なのである。子供の頃の感謝というものは案外、大人になっても忘れないものだ。彼が教育係を終えた時に感謝の文は送ったが、大人になった今だからこそ表現できる言葉がある。
それをメルアンに伝えてもらえないかと頼むと、彼女は今までで一番穏やかな顔でウルベルトを見ていて、それに少し驚いた。
「ええ、構いません。そういう言葉ならいくらでも」
メルアンはずっとウルベルトの口の悪さを嫌っていた。彼女に注意されてから行動を改めようと努力し、罵倒語を出す前に口を閉じるようにしてはきたが、彼女の目は常に厳しかったように思う。
(……今なら、いつもより話せるかもしれない)
実際、二人で話す機会があり声を掛けてみればすんなりと応じてくれた。今日の言葉は綺麗だったから、という理由らしい。
メルアンの耳にはウルベルトの声が強く響くため、強い言葉は余計に強く聞こえるのだそうだ。誰かに応えてほしいと思って使っていた言葉が、唯一それが聞こえる彼女を遠ざける原因になっていたとは皮肉な話である。
(まあたしかに、この酷い声ではな……印象も余計に悪くなるか)
ウルベルトにとってこの声は呪いのようなもので、自分が持つものの中で最も嫌いな部分でもあった。聞き慣れている自分でさえ聞き苦しい音なのだ。感覚の違う精霊ならともかく、同じ人間であるメルアンにはとても不快な音に違いない。それでも声を聞いて応えてくれるのだから、ありがたいことこの上ない。……彼女が反応を返してくれる度に、ウルベルトは孤独を癒されたような心地になっている。
『ひび割れている上に擦れて、聞いているだけで不快になるだろう? 精霊たちも何故こんな声を好いているのか分からん』
「ウルベルト様の声は綺麗ですよ」
『……なんだと?』
自虐を含んだ言葉を否定されて驚いた。驚いてメルアンを見下ろしたが、彼女の黄金の瞳に嘘はない。慰めでもお世辞でもなく、本気でそう思っているように見えた。
「……私にしか聞こえないなんて、もったいないですね。こんなに綺麗なのに」
メルアンの言葉がウルベルトの中で響いていく。それはウルベルトの芯を揺らすような、力のこもった言葉だった。
彼女の言う「強い言葉」の意味を理解させられた気がする。誰にも届かなかった声を疎んできたウルベルトにとって、それはあまりにも魅力的で刺激的な、強い言葉だった。
ただ誰かに声が届けばよかっただけだ。普通に話をしたいと望んだ。役に立たたない醜い音でしかなかった自分の声が、彼女の言葉で別の価値を与えられたこの瞬間、心の臓が強く揺さぶられる。
(……これは……なんだ。直視できんぞ……?)
ただ声を褒められただけだ。それだけなのに、ウルベルトの中は強く揺さぶられて知らない感情が湧いてくる。
ついにはメルアンを直視できず顔を背けてしまった。恐らくそのまま見つめていたら、その小さな体を強く抱きしめてしまったことだろう。……あまりにも、愛おしくて。
(……これが恋い慕う想いだとするなら……今までの私の言葉は羽のように軽いな)
以前、最愛の意味の花束を贈ろうとした。しかしそこにあった感情は何よりも強い執着であり、ただ自分が満足したいだけの一方的なものだった。
たとえ嫌われても話ができるならいいと思っていた。……だが今は違う。嫌われるのはごめんだ。
「もう悪い言葉は使わないでください。私は他人を罵る言葉が、とても嫌いなんですよ」
『……分かった。二度と使わない……お前へは愛を囁くと決めたからな』
ウルベルトは二度と誰への悪態もつかないと決めた。代わりに今度こそ、感情をこめて愛を囁こうと思ったのだが。
「そういうのはもういいですから。貴方は私と話したいだけでしょう? 今までの貴方の言葉に、そういう感情がなかったのは理解していますから。もう無理に甘い言葉を使おうとしなくていいですよ」
『いや、それは……たしかにそうだったんだが……』
「ですからもうやめにしましょう? その方が私も気楽です。これからも同僚として一緒にお仕事を頑張りましょうね、ウルベルト様」
その時、メルアンは初めてにっこりと笑いかけてきた。その表情はとても愛らしくて愛おしい。しかし今この場で、それを口にするのは憚られた。
今の彼女になら婚約を提案しても受け入れてくれそうな雰囲気がある。だがしかし、それは政略的な意味合いにしか受け取られず、ウルベルトがいくら愛を囁こうと本気にされない可能性が高い。……何なら、この気持ちが伝わるより先に結婚してしまうと、一生本気だと思ってもらえない気さえする。ウルベルトの勘がそう告げていた。
(……安い愛など口にするべきではなかったな……さてどうしたものか)
完全に仕事仲間を信頼する目を向けてくるメルアンに対し、ウルベルトは苦笑いを浮かべる。まずは彼女にこの恋慕を気づかせる必要がある。婚約を願うのはそのあとだ。
『気長にやろう』
どうせ彼女はこの仕事から逃げられないのだから。
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