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37話 運
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「千尋さん、福岡でいい方と出会えて本当に良かった……」
信号待ちで停車中、冬馬先生の手が私の手に重なる。
「眞島さんがどういう状況に置かれているのか分からないのに蓮さんを連れて電車に飛び乗るなんて……二人に何かあってからでは遅いんですよ」
冬馬先生は少し怒った口ぶりでそう言った。
そうだよね、本当にごめんなさい。
先日の行動に関しては責められても仕方ないと思う。
確かに軽率だったって今はすごく反省してる。
「ただ……俊哉さんも葵ちゃんもとってもいい人で、あの夜、二人に出会えた私はホントについてたと思う。というかこの一年半、出会った人は皆いい人ばかりだった。そう考えたら私って……ものすごく運がいい人間なのかも?」
「『運』ですって……? あ、そこのコンビニに寄りますね。お弁当を買うんでしょう?」
信号が変わり、先生の手はハンドルに戻った。
コンビニの駐車場に車を停める。
先生は再び私の手を握った。
さっきとは打って変わって運転席からまっすぐに見つめる先生の瞳が優しい。
「千尋さん、あなたに周りの人が優しかったのは運が良かったからじゃない。それは……あなたが真面目に生きてきた証です。あなたは子供の頃から不器用ながらも何事にも全力で取り組む性格だし、いつも必死でしょう? 人はね、一生懸命に頑張る姿を見せられると心から応援したくなるものなんですよ。あなただって応援しているアスリートやアイドルがいますよね? それと同じです。そんなあなたの事を私は……誇らしく思っています」
いつだって勢いだけで突っ走っちゃうバカな私にこんな事を言ってくれるのは、きっと先生だけだ。
「トーマ先生っ!」
私は先生の胸に飛び込んだ。
好き……大好きっ!
あ、あれ?
いつもの先生なら、絶対に私を強く抱きしめてくれる場面だと思うんだけど先生はなんだかうろたえている。
「先生? 抱きしめて……くれないんですか?」
私は先生を見上げて尋ねる。
「ち、千尋さんっ、そ、そんなかわいい事を言ってっ……! とても嬉しいのですがここはコンビニの駐車場ですよ」
ん? いつも強引な先生が今朝はこんな事を言うの?
なんだか、先生らしからぬ反応だ。
「私の両親の前ではあれだけ見せつけたのに……?」
「千尋さん……こんな早朝から私の理性を試されては困ります。それでなくても、昨夜から随分我慢しているというのに」
先生の声が急激に艶を帯びていく。
低音が色っぽい。
先生はすっと私の耳元に唇を寄せて、囁いた。
「こんなところで押し倒されたくないでしょう?」
…………!!
うん、うんうんうん。
私は無言でコクコクと首を縦に振る。
カーッと頭に血がのぼる。
うううっ、は、恥ずかしい!
私、こういうの慣れてないんだよ!
一児の母だけど、恋愛なんてしたことないんだもん!
「では、私はちょっと、千尋さんのお弁当とコーヒーでも買ってきます。何かリクエストはありますか?」
「な、何でもいいですっ……ヨロシク、オネガイシマス」
赤らんだ顔を見られたくなくて私はうつむいた……。
葵ちゃんちに泊った翌朝、隣に眠る蓮がもぞもぞし始めた事に気が付いて私は目覚めた。
母親になって驚いたのは眠っていても周囲の気配に敏感になったことだ。
蓮が産まれたばかりの頃は、夜中でも二、三時間おきにミルクを飲ませなくちゃいけなかったんだけど、どんなに眠くても少しでも蓮が泣いたら気が付いた。
学生時代、一度寝たら何があっても起きなかった私が今は我が子を守るために、常に高感度のアンテナをはっている。
これって野生の頃からの本能なのかな?
ホントに不思議だ。
眠る二人を起こさない様に布団を抜け出し、オムツやミルクをバッグから取り出していたら蓮が元気な泣き声を上げ始めた。
「おーおー、朝から威勢がいいですね」
葵ちゃんが楽しそうに蓮の頬をつつく。
私はさっとオムツを替えて、ミルクを作った。
私に抱かれてミルクを飲む蓮の顔を、葵ちゃんは蕩けるような笑顔でのぞき込んでいる。
葵ちゃんって小学校の先生をしてるって言ってたけど、ホントに子供好きなんだね。
「葵ちゃん、飲ませてくれますか?」
そう言って抱っこを変わって貰ったら、葵ちゃんは大きな瞳をキラキラと輝かせた。
蓮はコクコクとミルクを飲んでいる。
「かわいい! かわいいぞ! はぁぁぁ、抱っこしている膝の上が柔らかくてあったかい……って、ちいちゃーん、蓮君ウンチしたかもー!」
漂ってきた匂いに気が付いて私達は笑った。
それから俊哉さんが来るまで私たちはいろいろな話をした。
蓮の名前の由来とか。
実は蓮の名付け親はタツキ君なのだ。
産まれてくる子供が男の子だと分かった時から、どういう名前を付けてあげたらいいのか悩んでいた私に、
「千尋も俺も『セン・パ』の蓮を応援してるから、蓮がいいんじゃないの? 千尋が……呼ぶたびに幸せな気持ちになれる名前を付けて欲しい」
とメッセージを送ってくれたのだ。
「だから蓮っていう名前はこの子に父親が最初にくれたプレゼントなんだよ」
「ちいちゃん……」
私は努めて明るい表情でほほ笑んだつもりだったけど、悪い男に弄ばれたと思っている葵ちゃんの胸中は複雑そうだ。
「蓮君のためにも、絶対にお父さんを探しましょう!」
「うん……必ず」
タツキ君を探し出す!
フォレストは土日が休みなので明日の日曜日に長崎に戻れば仕事に間に合う。
私は今日と明日、この地で少しでもタツキ君を探したいと思っていた。
ただ、葵ちゃんにこれ以上迷惑をかけられないから近くのホテルに移るって言ったら断られてしまった。
「ちいちゃん、ホテルに移って、ひとりで彼を探したらその間、蓮君をずっと連れまわすことになるんだよ。まだまだ一日に五、六回はミルクを飲むって言ってたのにそんなのは無理だよ。それよりもこの家を拠点にして交代で蓮君の世話をしながらみんなで探した方がいいよ、ね、そうしよう」
葵ちゃんは、ホントに優しい人だ。
「ありがとう、葵ちゃん。ありがとう……」
私はうなずきながら涙をこぼした。
「ところで……」
私は昨夜再会してからずっと気になっていた俊哉さんについて聞いてみることにした。
「ねえ葵ちゃん、俊哉さんはどういう先生なの?」
「あーそうだねー。佐藤先生はとってもいい先生。子供たちにも好かれてるよ」
葵ちゃんはそう言ってはにかんだ笑顔を見せた。
俊哉さんの事を語る時の葵ちゃんはいつも以上に愛らしい。
きっとすごく好きなんだろうな。
「そうなんだ、でもホントに良かった、ちゃんと先生になれて。俊哉さんが教員採用試験で大変な時にお姉ちゃんの浮気が発覚しちゃって、俊哉さんすごく落ち込んでたから心配してたの」
「ヘー、ソウナンダー。ソンナコトガ……」
うわ、やばい!
葵ちゃんのかわいい顔がひきつっている!
ホントに気になってたから、つい勢いで話しちゃったけど……いくら八、九年前のこととはいえ、今カノにするべき話じゃなかったよね!?
「葵ちゃんは、俊哉さんとは長いの? お付き合い……」
「私達同じタイミングで赴任したのでまだ知り合って二年目だけどって! つ、付き合ってないよ! 私達」
葵ちゃんは慌てた様子で手を振って否定した。
「そうなんだ、てっきり俊哉さんの恋人かと思った」
「ト、トシヤさんには、好きな人がいるから……」
そう言った葵ちゃんの表情が少し曇る。
好きな人……?
うーん、昨夜の俊哉さんを見る限り、絶対に二人は両思いだと思うんだけど……。
私、お姉ちゃんと付き合ってた頃の俊哉さんの事もしっかり覚えてるから間違いないはず。
あれは恋してる時の顔だよ。うん。
そんなことを考えながら蓮のお風呂の用意をしていたら俊哉さんが大量の買い物袋をもってやって来た。
なんでも赤ちゃん用品の専門店に行っておすすめされたものを片っ端からかごに入れたそうだ。
オムツやミルクや離乳食に加えて肌着、洋服、靴下、よだれかけ、おもちゃって……すごい量。
これすべて貰っていいの?
すごく嬉しい!
「こんなに買ってきても電車じゃ持って帰れませんよ、トシヤさん」
葵ちゃんは両手を腰に当ててぷくっと頬を膨らませた。
「えーっと、ゴメンネ、葵ちゃん?……いや、いざという時は明日、長崎まで車で送ってもいいと思って……」
仁王立ちで怒っていても本来の可愛さを隠せない葵ちゃんに俊哉さんは頭があがらないようだ。
あれ? そう言えば、昨夜はお互いを『佐藤先生』『葵先生』と呼んでいた二人が今は名前で呼び合っている。
……ふふふっ、きっと想いが通じあうのにそう時間はかからないよね?
おふたりさん。
「おー、ほかほかでかわいいなー」
朝風呂上がりの蓮を膝に抱いて湯冷ましを飲ませてくれながら俊哉さんの顔は緩みっぱなしだ。
俊哉さんも赤ちゃんが好きなんだね。
それから葵ちゃんと俊哉さんは競いあうようにして蓮のお世話をしてくれた。
葵ちゃんがオムツ替えが出来るようになったと勝ち誇った顔をして自慢したら俊哉さんは対抗心を燃やしちゃって蓮のオムツをあけた瞬間にオシッコを飛ばされて大騒ぎになった。
「ちょっと、蓮君そりゃないよ……。男同士仲良くしてよ……」
俊哉さんの情けない声に、私と葵ちゃんは顔を見合わせて笑った。
蓮の世話をしながらこんなに笑ったのは初めてのことかもしれない。
私ね、本当に嬉しいの。
誰かと一緒に蓮の世話をするのってこんなに楽しいことなんだ。
「俊哉さん、葵ちゃん、迷惑をかけてごめんなさい。本当にありがとうございます」
「ちいちゃん、僕は迷惑だなんてちっとも思ってないよ。赤ちゃんって不思議だよね。今だってあやしてあげているように見えるかもしれないけれど……本当は僕の方がこの子に癒されてるんだ。なんだろう、蓮君を抱いていると日々のストレスが消え去っていく気がする」
「え? トシヤさんにもストレスなんてあるんデスカ?」
「あ、あのねぇ、葵ちゃん」
「ふふっ、冗談デス。あ、ちいちゃん、私も迷惑だなんて思ってませんよ。ちいちゃんと蓮君をお迎え出来てとても光栄です。だから、もう一回蓮君を抱っこさせて下さいっ! トシヤさん、早く交代して、交代!」
二人はホントにいいコンビだ。
悲壮な決意をしてタツキ君を探しに来た福岡でこんなに賑やかな週末を過ごせるとは思ってもいなかった。
正直……長崎に帰るのがちょっと怖い。
いままでただ日々をこなすのに必死で淋しいだなんて思わなかったのに、あのアパートの部屋を思い出すと物悲しい気持ちになる。
家族が、恋しいな……。
以前、チカさんのお姉さんが言ってた言葉を思い出す。
『今はお世話が大変だけど、振り返って見れば赤ちゃんの時期は一瞬。だから沢山かわいがってあげたいし、実家にも頻繁に顔を見せに行っているの』
その言葉通り、お姉さんは子供たちを連れて良く森家に遊びに行っていた。
奥さんは『こうしょっちゅう来られちゃうと夕飯の準備が大変なのよ』ってぼやいていたけどいつも嬉しそうだった。
私もお母さんに会いたいよ……。
「……なあ、ちいちゃん、やっぱり、福岡にいるうちに愛美に連絡した方がいいと思う。蓮君にとって愛美は伯母さんだ。伯母さんがこんなにかわいい甥っ子が、いる事さえ知らないっていうのはどうだろう? それに今のまま無理をして、ちいちゃんがもし倒れたりしたらこの子の面倒は誰が見るの? ちいちゃんだって風邪をひいたりする事もあるだろ?」
俊哉さんの言葉に、私は何も返せなかった。
絶対に実家には頼らないと決めていたのに、今その決心は揺らいでいる。
蓮を家族に紹介したいし、蓮にとっても頼れるのが私しかいない状況は良くないんじゃないかと思い始めたから。
「愛美に連絡だけしてみてもいいかな? 蓮君のためだよ」
俊哉さんの問いに私は小さく頷いた。
俊哉さんは、スマホを片手にベランダに出ると長い事お姉ちゃんと話していた。
信号待ちで停車中、冬馬先生の手が私の手に重なる。
「眞島さんがどういう状況に置かれているのか分からないのに蓮さんを連れて電車に飛び乗るなんて……二人に何かあってからでは遅いんですよ」
冬馬先生は少し怒った口ぶりでそう言った。
そうだよね、本当にごめんなさい。
先日の行動に関しては責められても仕方ないと思う。
確かに軽率だったって今はすごく反省してる。
「ただ……俊哉さんも葵ちゃんもとってもいい人で、あの夜、二人に出会えた私はホントについてたと思う。というかこの一年半、出会った人は皆いい人ばかりだった。そう考えたら私って……ものすごく運がいい人間なのかも?」
「『運』ですって……? あ、そこのコンビニに寄りますね。お弁当を買うんでしょう?」
信号が変わり、先生の手はハンドルに戻った。
コンビニの駐車場に車を停める。
先生は再び私の手を握った。
さっきとは打って変わって運転席からまっすぐに見つめる先生の瞳が優しい。
「千尋さん、あなたに周りの人が優しかったのは運が良かったからじゃない。それは……あなたが真面目に生きてきた証です。あなたは子供の頃から不器用ながらも何事にも全力で取り組む性格だし、いつも必死でしょう? 人はね、一生懸命に頑張る姿を見せられると心から応援したくなるものなんですよ。あなただって応援しているアスリートやアイドルがいますよね? それと同じです。そんなあなたの事を私は……誇らしく思っています」
いつだって勢いだけで突っ走っちゃうバカな私にこんな事を言ってくれるのは、きっと先生だけだ。
「トーマ先生っ!」
私は先生の胸に飛び込んだ。
好き……大好きっ!
あ、あれ?
いつもの先生なら、絶対に私を強く抱きしめてくれる場面だと思うんだけど先生はなんだかうろたえている。
「先生? 抱きしめて……くれないんですか?」
私は先生を見上げて尋ねる。
「ち、千尋さんっ、そ、そんなかわいい事を言ってっ……! とても嬉しいのですがここはコンビニの駐車場ですよ」
ん? いつも強引な先生が今朝はこんな事を言うの?
なんだか、先生らしからぬ反応だ。
「私の両親の前ではあれだけ見せつけたのに……?」
「千尋さん……こんな早朝から私の理性を試されては困ります。それでなくても、昨夜から随分我慢しているというのに」
先生の声が急激に艶を帯びていく。
低音が色っぽい。
先生はすっと私の耳元に唇を寄せて、囁いた。
「こんなところで押し倒されたくないでしょう?」
…………!!
うん、うんうんうん。
私は無言でコクコクと首を縦に振る。
カーッと頭に血がのぼる。
うううっ、は、恥ずかしい!
私、こういうの慣れてないんだよ!
一児の母だけど、恋愛なんてしたことないんだもん!
「では、私はちょっと、千尋さんのお弁当とコーヒーでも買ってきます。何かリクエストはありますか?」
「な、何でもいいですっ……ヨロシク、オネガイシマス」
赤らんだ顔を見られたくなくて私はうつむいた……。
葵ちゃんちに泊った翌朝、隣に眠る蓮がもぞもぞし始めた事に気が付いて私は目覚めた。
母親になって驚いたのは眠っていても周囲の気配に敏感になったことだ。
蓮が産まれたばかりの頃は、夜中でも二、三時間おきにミルクを飲ませなくちゃいけなかったんだけど、どんなに眠くても少しでも蓮が泣いたら気が付いた。
学生時代、一度寝たら何があっても起きなかった私が今は我が子を守るために、常に高感度のアンテナをはっている。
これって野生の頃からの本能なのかな?
ホントに不思議だ。
眠る二人を起こさない様に布団を抜け出し、オムツやミルクをバッグから取り出していたら蓮が元気な泣き声を上げ始めた。
「おーおー、朝から威勢がいいですね」
葵ちゃんが楽しそうに蓮の頬をつつく。
私はさっとオムツを替えて、ミルクを作った。
私に抱かれてミルクを飲む蓮の顔を、葵ちゃんは蕩けるような笑顔でのぞき込んでいる。
葵ちゃんって小学校の先生をしてるって言ってたけど、ホントに子供好きなんだね。
「葵ちゃん、飲ませてくれますか?」
そう言って抱っこを変わって貰ったら、葵ちゃんは大きな瞳をキラキラと輝かせた。
蓮はコクコクとミルクを飲んでいる。
「かわいい! かわいいぞ! はぁぁぁ、抱っこしている膝の上が柔らかくてあったかい……って、ちいちゃーん、蓮君ウンチしたかもー!」
漂ってきた匂いに気が付いて私達は笑った。
それから俊哉さんが来るまで私たちはいろいろな話をした。
蓮の名前の由来とか。
実は蓮の名付け親はタツキ君なのだ。
産まれてくる子供が男の子だと分かった時から、どういう名前を付けてあげたらいいのか悩んでいた私に、
「千尋も俺も『セン・パ』の蓮を応援してるから、蓮がいいんじゃないの? 千尋が……呼ぶたびに幸せな気持ちになれる名前を付けて欲しい」
とメッセージを送ってくれたのだ。
「だから蓮っていう名前はこの子に父親が最初にくれたプレゼントなんだよ」
「ちいちゃん……」
私は努めて明るい表情でほほ笑んだつもりだったけど、悪い男に弄ばれたと思っている葵ちゃんの胸中は複雑そうだ。
「蓮君のためにも、絶対にお父さんを探しましょう!」
「うん……必ず」
タツキ君を探し出す!
フォレストは土日が休みなので明日の日曜日に長崎に戻れば仕事に間に合う。
私は今日と明日、この地で少しでもタツキ君を探したいと思っていた。
ただ、葵ちゃんにこれ以上迷惑をかけられないから近くのホテルに移るって言ったら断られてしまった。
「ちいちゃん、ホテルに移って、ひとりで彼を探したらその間、蓮君をずっと連れまわすことになるんだよ。まだまだ一日に五、六回はミルクを飲むって言ってたのにそんなのは無理だよ。それよりもこの家を拠点にして交代で蓮君の世話をしながらみんなで探した方がいいよ、ね、そうしよう」
葵ちゃんは、ホントに優しい人だ。
「ありがとう、葵ちゃん。ありがとう……」
私はうなずきながら涙をこぼした。
「ところで……」
私は昨夜再会してからずっと気になっていた俊哉さんについて聞いてみることにした。
「ねえ葵ちゃん、俊哉さんはどういう先生なの?」
「あーそうだねー。佐藤先生はとってもいい先生。子供たちにも好かれてるよ」
葵ちゃんはそう言ってはにかんだ笑顔を見せた。
俊哉さんの事を語る時の葵ちゃんはいつも以上に愛らしい。
きっとすごく好きなんだろうな。
「そうなんだ、でもホントに良かった、ちゃんと先生になれて。俊哉さんが教員採用試験で大変な時にお姉ちゃんの浮気が発覚しちゃって、俊哉さんすごく落ち込んでたから心配してたの」
「ヘー、ソウナンダー。ソンナコトガ……」
うわ、やばい!
葵ちゃんのかわいい顔がひきつっている!
ホントに気になってたから、つい勢いで話しちゃったけど……いくら八、九年前のこととはいえ、今カノにするべき話じゃなかったよね!?
「葵ちゃんは、俊哉さんとは長いの? お付き合い……」
「私達同じタイミングで赴任したのでまだ知り合って二年目だけどって! つ、付き合ってないよ! 私達」
葵ちゃんは慌てた様子で手を振って否定した。
「そうなんだ、てっきり俊哉さんの恋人かと思った」
「ト、トシヤさんには、好きな人がいるから……」
そう言った葵ちゃんの表情が少し曇る。
好きな人……?
うーん、昨夜の俊哉さんを見る限り、絶対に二人は両思いだと思うんだけど……。
私、お姉ちゃんと付き合ってた頃の俊哉さんの事もしっかり覚えてるから間違いないはず。
あれは恋してる時の顔だよ。うん。
そんなことを考えながら蓮のお風呂の用意をしていたら俊哉さんが大量の買い物袋をもってやって来た。
なんでも赤ちゃん用品の専門店に行っておすすめされたものを片っ端からかごに入れたそうだ。
オムツやミルクや離乳食に加えて肌着、洋服、靴下、よだれかけ、おもちゃって……すごい量。
これすべて貰っていいの?
すごく嬉しい!
「こんなに買ってきても電車じゃ持って帰れませんよ、トシヤさん」
葵ちゃんは両手を腰に当ててぷくっと頬を膨らませた。
「えーっと、ゴメンネ、葵ちゃん?……いや、いざという時は明日、長崎まで車で送ってもいいと思って……」
仁王立ちで怒っていても本来の可愛さを隠せない葵ちゃんに俊哉さんは頭があがらないようだ。
あれ? そう言えば、昨夜はお互いを『佐藤先生』『葵先生』と呼んでいた二人が今は名前で呼び合っている。
……ふふふっ、きっと想いが通じあうのにそう時間はかからないよね?
おふたりさん。
「おー、ほかほかでかわいいなー」
朝風呂上がりの蓮を膝に抱いて湯冷ましを飲ませてくれながら俊哉さんの顔は緩みっぱなしだ。
俊哉さんも赤ちゃんが好きなんだね。
それから葵ちゃんと俊哉さんは競いあうようにして蓮のお世話をしてくれた。
葵ちゃんがオムツ替えが出来るようになったと勝ち誇った顔をして自慢したら俊哉さんは対抗心を燃やしちゃって蓮のオムツをあけた瞬間にオシッコを飛ばされて大騒ぎになった。
「ちょっと、蓮君そりゃないよ……。男同士仲良くしてよ……」
俊哉さんの情けない声に、私と葵ちゃんは顔を見合わせて笑った。
蓮の世話をしながらこんなに笑ったのは初めてのことかもしれない。
私ね、本当に嬉しいの。
誰かと一緒に蓮の世話をするのってこんなに楽しいことなんだ。
「俊哉さん、葵ちゃん、迷惑をかけてごめんなさい。本当にありがとうございます」
「ちいちゃん、僕は迷惑だなんてちっとも思ってないよ。赤ちゃんって不思議だよね。今だってあやしてあげているように見えるかもしれないけれど……本当は僕の方がこの子に癒されてるんだ。なんだろう、蓮君を抱いていると日々のストレスが消え去っていく気がする」
「え? トシヤさんにもストレスなんてあるんデスカ?」
「あ、あのねぇ、葵ちゃん」
「ふふっ、冗談デス。あ、ちいちゃん、私も迷惑だなんて思ってませんよ。ちいちゃんと蓮君をお迎え出来てとても光栄です。だから、もう一回蓮君を抱っこさせて下さいっ! トシヤさん、早く交代して、交代!」
二人はホントにいいコンビだ。
悲壮な決意をしてタツキ君を探しに来た福岡でこんなに賑やかな週末を過ごせるとは思ってもいなかった。
正直……長崎に帰るのがちょっと怖い。
いままでただ日々をこなすのに必死で淋しいだなんて思わなかったのに、あのアパートの部屋を思い出すと物悲しい気持ちになる。
家族が、恋しいな……。
以前、チカさんのお姉さんが言ってた言葉を思い出す。
『今はお世話が大変だけど、振り返って見れば赤ちゃんの時期は一瞬。だから沢山かわいがってあげたいし、実家にも頻繁に顔を見せに行っているの』
その言葉通り、お姉さんは子供たちを連れて良く森家に遊びに行っていた。
奥さんは『こうしょっちゅう来られちゃうと夕飯の準備が大変なのよ』ってぼやいていたけどいつも嬉しそうだった。
私もお母さんに会いたいよ……。
「……なあ、ちいちゃん、やっぱり、福岡にいるうちに愛美に連絡した方がいいと思う。蓮君にとって愛美は伯母さんだ。伯母さんがこんなにかわいい甥っ子が、いる事さえ知らないっていうのはどうだろう? それに今のまま無理をして、ちいちゃんがもし倒れたりしたらこの子の面倒は誰が見るの? ちいちゃんだって風邪をひいたりする事もあるだろ?」
俊哉さんの言葉に、私は何も返せなかった。
絶対に実家には頼らないと決めていたのに、今その決心は揺らいでいる。
蓮を家族に紹介したいし、蓮にとっても頼れるのが私しかいない状況は良くないんじゃないかと思い始めたから。
「愛美に連絡だけしてみてもいいかな? 蓮君のためだよ」
俊哉さんの問いに私は小さく頷いた。
俊哉さんは、スマホを片手にベランダに出ると長い事お姉ちゃんと話していた。
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