美味しいは正義です

夜風 りん

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序章 捨てられた令嬢とスイーツの邂逅

ep3

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 「さて、まずはスポンジケーキを作っていくわよ」

 「はい!」
 マリばあさんの言葉にシャルロットは素直に返事をすると、マリばあさんがキッチンに連れて行ってくれた。とはいえ、シャルロットが見たことのないほど小さなキッチンだったが。
 「こんなに狭いところでもケーキが焼けるの?」
 「もちろんよ。ロッティの自宅は大きなキッチンがあったのね」
 すると、ふと、使用人たちの冷たい視線を思い出してシャルロットの表情が曇った。

 「…うん。…私のおうちじゃなかったけど」

 すっかり泣きそうな顔になってしまったシャルロットをマリばあさんが悲しそうに見ていたが、ポンッと手を打った。
 「さ、土台を作らなくちゃ、ね! ほら、早くしないと日が暮れちゃうわよ。夕飯の支度もあるんだから、さっさと作っちゃわないとね!」
 「あ、は、はい!」
 マリばあさんが割った卵と砂糖を入れたボウルと不思議な金具のついた器具をシャルロットに見せた。
 「この器具で卵と砂糖を混ぜてくれる?」
 「これは…?」
 「泡だて器よ。それで底から掬い上げるような形で全体を混ぜるのよ。でも、ボウルに金具をぶつけて削り取るようにではなく、撫でるように優しく。でも早く丁寧に」
 「む、難しそう…」
 「とりあえず頑張ってみて」
 シャルロットはお湯の張ってあるボウルの上に卵と砂糖入りのボウルをマリばあさんに乗せるように指示され、そっと乗せてかき回し始めた。
 「最初は温めるだけだからゆっくりと、丁寧に混ぜてみて」
 「はい」
 シャルロットはマリばあさんに言われた通り優しくゆっくりと混ぜていると、すかさずアドバイスが飛んだ。
 「もうちょっと早くても大丈夫。液体が人肌くらいに温まったら、湯せんをやめるのよ」
 「人肌? 湯せん?」
 「人肌っていうのはね、ロッティの体温くらい。だいたい、36度前後だけど…軽く指で触れてぬるい、くらいの温度になったら…ね。一々指を突っ込むわけにもいかないから、最初のうちは温度計を使ってもいいわよ」
 温度計をそっと入れると、ちょうど36度を示していた。
 「人の体温って36度なの?」
 「ええ、そうよ。平熱はそれくらい。36.5度くらいあればいいけど、人肌くらいって、目安だからね。熱しすぎず冷ましすぎず。…わかった?」
 「はい」
 マリばあさんは卵と砂糖のボウルをお湯のボウルから外して布巾の上にそっと乗せた。
 「湯せんっていうのは、お湯の入ったボウルの上に、別の器を乗せて、その別の器の中身を器越しに温めることを言うの。直接温めようとしたら焦げついてしまいやすいものでも、湯せんだったら焦げないから」
 「なるほど」
 シャルロットがメモを取りたさそうな顔をしていると、マリばあさんはにっこりと笑ってメモ帳と万年筆を手渡した。
 「いいんですか?」
 「いいの」
 「でも、万年筆ってお高いんですよね…?」
 「ちょっとね。でも、あなたに一本あげるわ。婆さんの使い古しで悪いのだけど、きちんと使っていれば長持ちするいい万年筆よ」
 「ッ…!」
 シャルロットは微かに目を潤ませて大きく頷き、嬉しそうに万年筆でメモを取り始めた。その様子を見ながらマリばあさんは優しく微笑んでから小さくため息を漏らした。

 「孫のヴィーもこんなに可愛かったらいいのに」

 「お孫さん、いるんですか?」
 シャルロットの不思議そうな声に、マリばあさんははたと振り返った。
 「え? あ、うん、そうなのよ。ちょっとわけがあって今は一人暮らしをしているのだけど、あなたと同い年くらいの男の子が孫にいるの」
 「男の子ですか…」
 残念そうにそういったシャルロットにマリばあさんはにこりと笑った。
 「将来はロッティがうちのヴィーの婚約者になってくれると嬉しいな」
 すると、シャルロットは少し寂しそうに首を横に振った。
 「それじゃあお孫さんが可哀そうです。だって、私、こんなに太っているし、…それに、生まれつき姉さまみたいに美人じゃないから」
 マリばあさんは落ち込んでしまったシャルロットの肩に手を乗せた。
 「大丈夫よ。将来のことは後で考えるとして、美味しいケーキを作らないと、ね?」
 そう言って、見本としてシャカシャカとボウルをかき回し始めた。

 「こうやって、中身をかき混ぜて。もう、遠慮せずシャカシャカと素早く丁寧に混ぜてみて」

 マリばあさんから泡だて器を受け取ったシャルロットはシャカシャカと真似をして混ぜてみたが、うまく全体が混ざらなかった。
 「あれ?」
 「コツがあるの。外側を掬い上げるように、もう、最初はこすってでもいいからかき回すのよ」
 「はい!」
 シャルロットが顔を真っ赤にしてシャカシャカと混ぜると、マリばあさんはにっこりと笑って彼女を褒めた。

 「いい感じよ、ロッティ。ほら、色が変わって白くなってきたでしょ? なんというか、ザラメみたいな色だったのに、黄色っぽい白い色が全体に広がって均一になるまで混ぜ続けて」

 シャルロットは顔を真っ赤にしながら懸命に腕を振り、疲れて手が遅くなってきたところでマリばあさんがくすっと笑って手を止めさせ、そっと泡だて器を持ち上げさせると、細いひも状に溶液が垂れた。
 「もういいですか?」
 「あと一息。でも、だいぶ溶液が重くなってきたでしょ? もったりと重くなって、このひも状に落ちているだけの溶液がリボン状になって、重なって積み重なるようになったら、そこで第一段階はクリアなの」
 「だ、第一段階!?」
 シャルロットがギョッとすると、マリばあさんはにこりと笑った。
 「ちょっと混ぜておくから、手を休めておくんだよ?」
 「はい」
 シャルロットが頷くと、ボウルを受け取ったマリばあさんが勢いよく溶液を混ぜ始めた。そして、ものの数分で彼女が苦労しながら数十分もかけて作った努力を皆無にするようなほどの手際で溶液を完成させた。
 「これで第一段階」
 「…早い」
 「年季が違うもの」
 いたずらっぽく笑ったマリばあさんは小さいザルが先端についている器具で、いわゆるふるいを持ってくると、それを使って篩に入れた半分くらいの粉を落とし、溶液にかけた。
 「そして第二段階はこの粉を混ぜ合わせるのよ」
 「何の粉ですか?」
 「薄力粉よ」
 「はくりきこ…」
 メモをしたシャルロットの前で切るような形でゴムでできたヘラを動かし、粉を混ぜていくマリばあさんは熱心に自分の手元を見つめる彼女に微笑んだ。
 「もちろん、こっちもやってみるのよ」
 「は、はい!」



 シャルロットは結局ヘトヘトになっており、スポンジケーキをようやく焼く段階になったところで疲れ果て、ソファで眠ってしまった。
 ただ、頑張って作った達成感があったのかその寝顔は穏やかだった。

 「どうする、ばあさん?」

 窓の外から声をかけたのはマリばあさんの古い友人であり、伴侶以上に心の奥底から信頼を寄せる愛すべきパートナーであるリッカード。
 窓から顔をのぞかせた彼にマリばあさんは苦笑した。
 「…今日は遅いから泊めるわ。でも…この子の親は捜索願を出していないし、この子自身…帰っても大変なことになるだけよね…」
 リッカードはふぅとため息を漏らした。
 「お前が引き取るつもりなら、俺も腹積もりを決めようじゃないか。だが、…さすがに家族へ黙っておくのは得策じゃない」
 「ロクな男と結婚していないから、帰るのは億劫だわ」
 「そういいながらも、旦那が先立つまで惚気っぱなしだったのは誰だろうな?」
 「…意地悪ねぇ」
 「クックック…、まあ、楽しければ俺もそれでいい。ずっと落ち込んでいたお前が元気になるなら、な」
 「…久しぶりに手塩に掛けようのある子が来たんだもの。私も頑張らないとね」
 シャルロットをふわりと魔法で浮かせて寝室のドアを開け、ベッドに寝かせたマリばあさんは優しく笑った。

 「久しぶりに手紙を書くわね、リッカード」

 よほど嬉しかったのか、シャルロットが大事そうに握っている万年筆を見て微笑んだ。
 「初月給で買った安物の万年筆だけど、喜んでもらえてよかったねぇ」
 そう呟いて。

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