「貴方に心ときめいて」

華南

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閑話3

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あの日から私は、毎日、花壇の世話をする事になった。

保科さんから依頼があった次の日、会社での私の勤務時間は大幅に変わった。
午前中のみの勤務変更。

正社員からパートに立場が変わっていた。
一瞬、上司から何を言われているのか解らなかった。
何故、正社員からパートに格下げになっている。

まさか……。

嫌な汗が額に滲む。
保科さん絡みでは無いよね?
そ、そんな馬鹿な事がある訳ない。
そんな馬鹿げた話が。

「上からの指示だ。
君は今日から午前勤務のパートに変更となった。
今までの補償もパートに変更となった為、無くなったと思って欲しい」

(な、何を言っているの?
今までのほ、補償が無くなるって……。
厚生年金は?雇用保険はどうなるの?
パートになったら社会保険はどうなるの?)

ぐるぐると頭が廻る。
な、なんでこんな事になるの。
保科さんが手を回してこんな事態に陥っているの?
多栄子さんの代わりに花壇の世話をして欲しい、ただそれだけの事で何故……。

天国から地獄とは正にこの事だわ。
なんて迷惑な話なの!
確かに派遣よりは手取りは少なくなったけど、その分、補償が手厚くなったと喜んでいたのに。
雇用保険をかけて貰える勤務時間では無くなったら、もし失業したら失業手当が出ないじゃ無いの。

そ、そんな勝手な事。

怒りが沸々と湧き上がって収まりがつかない私は、その足で直ぐに保科さんのビルに向かった。
事前面会の許可を貰っていない私が、すんなりと保科さんに会える訳が無いのに。
冷静に考えると面会を望む事自体、無謀な行動だと思っても、勝手に勤務体制を変更させられた私には正常な判断など持てる筈も無く。

「あ、あの保科社長に面会を」

急に訪ねてきた私を受付嬢は怪訝な目で私を射抜く。

何でこんな女が社長に面会?とあからさまに私を侮蔑している。
はあはあと息を切らし、必死で面会を願う私に受付嬢の態度は何処までも冷ややかだ。
面会を何度も促す私に、流石に対処しきれないと溜息を吐きながら上司に連絡し指示を仰いでいる。
数分後、上司からの指示に従った受付嬢からの嫌味を込めた言葉。

「社長がお会いするそうです」

冷たい声音で告げられて、私は一瞬、自らの立場を顧みる。

羞恥が一気に自分の身体全体に駆け巡る。
自分の姿を視線を注いで、麗しい受付嬢に視線を移して。

綺麗にネイリングされた指先に、ピンクパールの唇が艶やかで品よく塗っている。
同じ女性なのに雲泥の差だ。

私なんて化粧と言えば、簡単に眉を描いて色付きリップを付けているだけ。
指先だってあんなに細くて華奢で綺麗では、無い。

「あ、ありがとうございます」

自然と応える声が小さくなっていく。
恥ずかしくて恥ずかしくて、今になってこの場から逃げ出したい。

そんな気持ちに駆られていた。

***

案内された社長室は、ただただ豪華としか言えなかった。
ふかふかの絨毯を緊張しながら歩いていく。
汚してはいないよね?と恐る恐る歩いていると、窓ガラスから注がれる光が眩い。
ふと、視線を注ぐとあの花壇が視える。

一番綺麗に視える場所。
心を癒してくれる花々に一瞬、心が緩む。

ああ、だから花壇に思い入れが強いのね、と風に揺れる花々を見詰めながら妙に自分で納得していた。
だからと言って、何故、私に白羽の矢が立ったと言うのだろう。
多栄子さんの手伝いをほんの数回しただけで、何故、私に。

皮張りのソファに身体が沈んで妙に落ち着かない。
こんな豪華なソファに座るのは初めての経験で。
場違い過ぎる、自分には。
平凡以下の生活を営んでいる私には生涯、手に入れる事の出来ない場所だ。

しいん、と鎮まっている部屋で、やけに時計の針の音が大きく聴こえる。
中々来ない保科さんに、私は段々と不安になっていく。

(ほ、本当に保科さんは社長よね?
私は騙されてはいないよね)

カタカタと小刻みに身体が震える。
今になって自分の大胆な行動が怖くなっている。

(ど、どうしよう……)

と思った矢先に重厚なドアが開き。

「遅くなって済まない」

あの、少し低温なバリトンの声の持ち主である保科さんが私に近付いてくる。
相変わらず超一流と言ったスーツを着こなしている。
彫りが深くて、均整の取れた肢体。
男らしい出立に妙な色気が入り混じっていて。

(こんな男性が本当に存在するんだ……)

ぼおお、と見惚れてしまう。
ゲームのキャラでは無い現実の男性で、私が今まで出会った男性で、多分、一番、顔立ちが整っている。
憧れの一柳さんもハンサムな部類だと思うけど、保科さんは次元が違う。

醸し出す空気が、滲み出る育ちの良さが雄弁に物語っている。
洗練されている、一つ一つの動作が。

(上流社会に生きる男性に今、私は言葉を掛けられている)

昨日、あの後、ホテルのラウンジで夢の様なひと時を味わい、意識を現実に戻すのに時間がかかってしまった。
まあ、アパートに帰ったら嫌でも現実を目の当たりにして気分が落ち込んでしまったけど。
部屋を乱雑に使われて、ストックしていた食料や飲み物が全て封を切られ飲まれて、至る場所に情事の残骸が残っていて。
まるでラブホテルの様な扱いだ、いや、実際そうだけど。

気持ち悪いと思わず唸ってしまった。
今後も姉にはこのアパートをいいように使われてしまう。
実家住まいの姉にとってこの場所は格好の目隠しになるから。

不倫していても噂が立つのか姉では無く、アパートを借りている私である。
まさか姉が妹のアパートを不倫相手との逢い引きに使用しているとは思わないでしょう。

「どうかしたのか?」

妙に気安くこの人は声を掛けてくる。
どうして?と考えに耽っていた私には、余り深くは追及せずにいた。

「あ、あのどうして私の会社での勤務時間の短縮を促したのですか?
貴方は私の雇用者でもない癖に、そんな身勝手な事を」

「ふふふ」

「な、何がおかしいのですか?
私は貴方の所為でこれからの生活の目処が絶たれたのですよ!
正社員では無くパートの立場に落とされて。
ほ、補償まで無くなって、どう言うつもりなの!」

「ああ、君の損失は俺が補償する。
手当もあの会社とは比較する迄も無い。
勿論手厚くしよう、俺の勝手な願いで君に損失を与えたのだから。
本来ならば、君には正式に社員としてここに勤めて欲しいと願うが、どうだろうか」

「はああ、あ、貴方は一体何を……」

唖然とする私をくすくす笑いながら見詰める。
楽しそうに笑うので、段々と腹が立ってしまって。

「お断りします。
こんな人を馬鹿にした!」

そう言ってソファから立ち上がる私の手を取って、彼は……。

「俺はね。
君を逃すつもりは無いよ」

腰に手を回し、耳朶に保科さんの息が掠り。
ぞわりとした感覚が身体中に駆け巡る。
ドクンドクンと心臓の音が煩い。

「あ、貴方は……」

「ふふふ」

真摯に見詰められて、思わず魅入ってしまう。
一瞬、瞳の色に意識が集中する。
光の加減で瞳の色が水色に見えて……。

「久保紗雪、さん……」

魅惑的なバリトンの声で耳元で囁かれて。

「君を俺は逃がさない……」

「……」

言葉が出ない。
何か反論をしないといけないのに保科さんの瞳の魔力に捕らわれて、抗う事が出来ない。

逃げられない。
私は彼から逃げる事が出来ない……。

「保科さ、ん」

「祥吾、だ。
紗雪……」

2度目は許さない、と耳朶を甘く噛まれて。

何故、こうなったのだろう。
私が好きなのは一柳さんなのに……。
この腕から逃れないといけないのに、抵抗する事が出来ない。

「わ、私は……」

この人が怖い。
怖くて怖くて逃げないといけないのに、私は。
彼に抵抗する手段を全て塞がれてしまった。
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