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しおりを挟む午後からの夏期講習は七海のクラスで、いつも通り授業を始める。
黒板に文字を書き終わり生徒へと振り返る。
さすが一年の夏期講習とは違い、受験生はしっかりと皆勉強をしている。
が、ただ一人目についてしまったのは窓際の前から三番目の席。
いつもキラキラと俺を見つめる視線ではなく、頬杖をついてどこかうつらうつらとしている。
ひょっとしてアイツ眠いのか。
チョークをぶん投げてやろうかと思ったが、少し考えてからコホンと咳払いをして黒板へ向き直る。
いつも授業態度は良すぎるほど良すぎる奴だから、今ので気付いてくれればそれでいい。
再び黒板に向き直りカッカッとチョークで問題を書いてから、もう一度振り返る。
頬杖をついていた顔がカクリと落ちていた。
余計に酷くなっているというかもうあれは完全に爆睡している。
これはさすがに注意すべきか。
一つため息を吐いて眉を寄せたら、慌てたように隣の女子が七海を小突く。
眠そうに起きた七海と目が合って、明らかに『やばい』という顔をされた。
さすがにちゃんと自覚はしているらしい。
分かっているならそれでいいと、何事もなかったように授業を再開する。
それにしてもアイツが俺の授業で居眠りなんて珍しい。
昨日の夜に用事があるといっていたし、夜更かしをしたのだろうか。
俺に心配することはないと言ったくせに、まさか遊んでいたんじゃないだろうな。
授業が終わり職員室へ戻ろうとしていると、七海が俺を追いかけてきた。
さっきの授業態度を気にしているのだろう。
明らかにバツの悪そうな顔をしている。
「みーちゃん、すいませんでした」
さすが結城とは違う。
叱ってやることも考えたが、ちゃんと反省しているし仕方ないなと息を吐き出す。
ちなみにこれは決して贔屓ではない。
普段の授業態度を考慮してやっているだけだ。
「寝不足か。昨日用事があると言っていただろう」
「…あーいえ。なんか眠くなっちゃっただけっす」
「なるほど、俺の授業はそんなに退屈か」
「違いますっ。なんつーか…みーちゃんの顔見たら安心したっていうか――」
「は?」
意味がわからず聞き返すと、ハッとしたように七海は口を閉ざす。
が、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「それより今日の夕飯なんですか?俺カレー食べたいですっ」
「何をリクエストしている。当たり前のように俺の家に来るな」
「みーちゃんがそばにいてくれると勉強もやる気でるんですって」
「さっき寝ていただろう」
指摘してやると、あれ?とすっとぼけたような顔で笑う。
だがすぐにどこか観念したように、ふっとその目が優しく細められた。
「正直言うとすげー触りたいんです。自習室で勉強してるんで仕事終わったら一緒に帰りましょう」
「…それは」
自分でもいけないと思っているのに、どうしても心臓が速くなってしまう。
触りたいと言っているが、絶対にそれは触るだけで終わらないだろう。
そう気付いたら体の芯が熱くなり、自然と顔に熱が昇る。
「…あー、もう。またそんな顔して」
どこか熱のこもった視線で七海が俺に手を伸ばす。
いけない。ここは学校だ。
だが伸びてきた手をぽーっと見つめてしまう。
「――はい、そこまでです」
俺に触れる既の所で、ピタリと七海の手が止まった。
気づけば神谷が七海の手を持ち上げていた。
「ちょ、カミヤン邪魔しないで下さいよ」
「全くお前は油断も隙もないな。紺野先生に変な噂が立ったらどうしてくれるんだ」
「そこフツー生徒の心配じゃないっすか?」
七海と神谷がやり取りしているが、今咎めるべきはどう考えても七海ではなく俺だ。
呆然としてしまう。
神谷が近づいていたことにも気付かないなんて、本当にどうかしている。
「――あっ、みーちゃ…」
サッと踵を返す。
七海が後ろで呼んでいる声がしたが、バクバクと鳴る心音が酷い罪悪感へ変わっていく。
職員室へ戻り机に教材を置くと、そのまま真っ直ぐ給湯室へ向かった。
眼鏡を外すと、熱くなった顔を冷やすように水道でばしゃりと顔を洗う。
「す、すまなかった。どうかしていた」
神谷が着いてきていることは分かっている。
ポタポタと顔から流れ落ちる水滴をそのままに、気持ちを落ち着けるように浅く呼吸をする。
「大丈夫ですか。そんな動揺されなくても雑談の延長くらいにしか見えませんでしたよ」
「…い、いや、すまない」
本当なら頭から水を被りたいくらいだ。
いつの間に用意したのか横からタオルを差し出されたが、受け取らずにそのままの姿勢で立ち尽くす。
職員室からは賑やかに話す教師の声と、ニュースを映すテレビの音が聞こえてくる。
どこか頭の片隅でその音を聞きながら、水道の縁に手をついたままぽつりと口を開く。
「…も、もう俺は自分の行動が分からない」
正しいことが何かはちゃんと知っている。
倫理も道徳も知っている。
全部分かっているはずなのに、それでも頭がついていかない。
神谷は動揺する俺を振り向かせると、そっとタオルを顔に当てた。
抵抗せずに受け入れると、俺を掴む手に力が入る。
「できれば綺麗に忘れ去っていただきたい感情ですが、それが難しいのは俺もよく分かります」
「…お前も俺にこんな気持ちを抱いているのか」
「ご冗談を。俺はそれよりずっとあなたを愛していますよ」
当たり前のように言われた。
驚きに目を見開くと、神谷は俺の表情を見てクスリと微笑む。
「すみません。混乱しているあなたにこれ以上余計な負担を掛けてはいけませんね」
「…胃が痛い。お前らは揃いも揃ってなぜ俺なんだ。そもそも性別はどこへいった」
「頭で分かっていてもどうにもならないのは、あなたもよく分かっているはずですよ」
そう言われて今しがたの行動を思い出す。
本当に厄介な感情だ。
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