152 / 203
第九章〈正義の目覚め〉編
9.9 強制された臣従礼(2)
しおりを挟む
ロンドン塔の虜囚アルテュール・ド・リッシュモンを解放する条件は二つ。
ひとつめはイングランド王ヘンリー五世に臣従して協力すること。
もうひとつはフランス王太子シャルルに敵対すること。
「兄を救うためにイングランドに下れと?」
「不満か? 貴公にとっても良い条件の取引だと思うが」
私が知っているリッシュモンは潔癖すぎるところがあるが、文武に優れている頭脳明晰な人物だ。王太子がブルターニュ公失踪に関与しているという話を鵜呑みにしたとは思えない。
だが、選択肢はあって無いようなものだ。
この取引は、リッシュモン個人の問題を通り越して、ブルターニュ公の命運とブルターニュ地方の安寧もかかっているのだから。
「臣従儀礼はただの契約だ。だいじな兄君と故郷を犠牲にしてまでフランス王家の没落に付き合うこともないだろう」
ヘンリーは、「主君を乗り換えることは悪ではない」と自説を説いた。
実際、中世ヨーロッパの忠誠心とは名ばかりで、臣下は主君が弱いと見るやすぐに裏切る。能力の高い者は敵方に引き抜かれるか、または臣下みずから敵対することある。実際、ヘンリー五世の父・ヘンリー四世は主君リチャード二世と敵対して命と王位を簒奪し、ランカスター王朝をひらいた。
「リッシュモン伯よ、余は貴公を愛しているのだよ」
「からかわれるのは好きではありません」
「本気だとも。アジャンクールで見せた比類なき強さとその頑固な義理堅さを愛しているのだ」
ヘンリーは余裕たっぷりで、リッシュモンは崖っぷちだった。
「貴公は賢い。言わずともわかっていると思うが」
ロンドン塔の虜囚となって早や五年。
イングランド王や王太后に対する無礼に目をつむり、ずっと口説き続けているのは——
「血のつながらない弟に振り向いて欲しいからだ。イングランドを愛し、イングランドのために働いて欲しい。そのためならば何でもしよう」
リッシュモンにはヘンリーの条件を飲む以外に選択肢はなかった。
***
この物語を読んでいる読者諸氏は、臣従儀礼に馴染みがなくとも結婚式は知っているだろう。立会人のもとで聖書に手を置いて夫婦の契りを誓約し、接吻を交わす。
臣従の誓い(Hommage)は、婚姻の誓い(Mariage)を模した契約儀式である。
臣従儀礼は、臣下が主君の城を訪れて立会人の前で行われる。
契約書は書かないが、「神に誓約する」ための聖書か聖遺物を用いる。
「汝、我に忠誠を誓うか」
「我が名と神の御名にかけて……」
主君の足元に臣下がひざまずき、祈るように両手を組む。
この両手は、臣下が所有しているすべてのものを捧げることを意味する。
臣下は、主君と神に対して誓いの言葉を述べる。
「いかなる時も主君たるイングランド王ヘンリー五世を敬い、助言し、決して危害を加えず、敵前で剣となって戦い、盾となって守ることを誓います」
誓いの言葉には状況に応じてバリエーションがあるが、一般的に「主君を神のごとく崇拝し、主君の命令は神の命令である」といった内容になる。
臣下の忠義に対して、主君は見返りを与えることを誓約する。
「されば我は、いかなる時も臣下アルテュール・ド・リッシュモン伯の居場所を保証し、糧を与え、名誉と財産を守ることを神の御名にかけて誓約する」
主君は臣下の両手を包むように手を重ねる。
これは、臣下が捧げるすべてを受け入れるという意味になる。
なお、主君は臣下が誓いに背いたときに名誉と財産を没収する権利を有している。
誓約の証としてさいごに接吻を交わす。
中世ヨーロッパの臣従儀礼とは、おおむねこのような儀式だ。
繰り返すが、臣従の誓いは婚姻の誓いとよく似た契約儀式である。
本来、婚姻を誓った夫婦は死別以外に離婚は許されない。臣従を誓った主従も同じである。死が二人を別つまで、この誓約から逃れることはできない。
仰々しい儀式だが、主従に力の差がなければビジネスライクな雇用契約にすぎない。
だが、力の差が大きいかまたは弱みを握られている場合、主君は生殺与奪の権を握るため、臣下は服従するしかなくなる。
このように強制された臣従儀礼のことを絶対服従・完全服従ともいう。
***
臣従儀礼で交わす接吻は、形式的な口付けである。
しかし、ヘンリー五世の言動の裏に透けて見える「征服してやった」といわんばかりの優越感は、リッシュモンの誇りを大きく傷つけた。
兄を救出するため、ブルターニュの平和のためにと割り切ったが、誓約を盾にこれからさまざまなことを要求されることを考えると、さぞ気が重かっただろう。
「フランス風のキスの方が良かったのではないか」
儀式が終わると、立会人を務めたヘンリーの取り巻きが軽口をたたいた。
イングランドではフランス人を貶めるときによく「フランス風の◯◯」という言い方をする。
この場合のフレンチキスとは舌を絡めるような濃厚な口付けを指すが、実際のフランス人がイングランド人よりも性欲が強くて奔放というわけではない。昔からよくある下品な悪口のひとつだ。
「やめるんだ。余の弟はからかわれるのが好きではないらしいぞ」
「はっはっは、戦場とは打って変わって内気な弟君ですな」
「これからじっくりとイングランド風に躾けて差し上げようではないか」
半ば強制的な臣従の誓いだけでも屈辱だというのに、色情的な下ネタで笑い物にされ、リッシュモンは暗澹たる気持ちで帰路に着いた。
ヘンリー五世に臣従したということは、この不愉快な取り巻きたちと付き合っていかなければならない。
すぐにでも口をぬぐい、唾を吐きたいところだが、誰かに見つかればまた問題行動だと見なされる。リッシュモンは口と心を閉ざし、表情を消して不快感に耐えた。
(塔の私室に戻ったら、できるだけ強い酒を浴びよう。口の中をすすいで何もかも吐き出してしまおう。誰にも見られないように)
頭上を仰ぎ見ると、ロンドン塔の主・大鴉が飛び交っていた。
もし、伝説上のアーサー王の変身能力が子孫にも遺伝していたら、リッシュモンは黒い羽を広げて自由に空を飛び、すべてのしがらみから逃れただろう。
しかし現実では、リッシュモンが安らげる居場所はフランスにもイングランドにもなかった。
ひとつめはイングランド王ヘンリー五世に臣従して協力すること。
もうひとつはフランス王太子シャルルに敵対すること。
「兄を救うためにイングランドに下れと?」
「不満か? 貴公にとっても良い条件の取引だと思うが」
私が知っているリッシュモンは潔癖すぎるところがあるが、文武に優れている頭脳明晰な人物だ。王太子がブルターニュ公失踪に関与しているという話を鵜呑みにしたとは思えない。
だが、選択肢はあって無いようなものだ。
この取引は、リッシュモン個人の問題を通り越して、ブルターニュ公の命運とブルターニュ地方の安寧もかかっているのだから。
「臣従儀礼はただの契約だ。だいじな兄君と故郷を犠牲にしてまでフランス王家の没落に付き合うこともないだろう」
ヘンリーは、「主君を乗り換えることは悪ではない」と自説を説いた。
実際、中世ヨーロッパの忠誠心とは名ばかりで、臣下は主君が弱いと見るやすぐに裏切る。能力の高い者は敵方に引き抜かれるか、または臣下みずから敵対することある。実際、ヘンリー五世の父・ヘンリー四世は主君リチャード二世と敵対して命と王位を簒奪し、ランカスター王朝をひらいた。
「リッシュモン伯よ、余は貴公を愛しているのだよ」
「からかわれるのは好きではありません」
「本気だとも。アジャンクールで見せた比類なき強さとその頑固な義理堅さを愛しているのだ」
ヘンリーは余裕たっぷりで、リッシュモンは崖っぷちだった。
「貴公は賢い。言わずともわかっていると思うが」
ロンドン塔の虜囚となって早や五年。
イングランド王や王太后に対する無礼に目をつむり、ずっと口説き続けているのは——
「血のつながらない弟に振り向いて欲しいからだ。イングランドを愛し、イングランドのために働いて欲しい。そのためならば何でもしよう」
リッシュモンにはヘンリーの条件を飲む以外に選択肢はなかった。
***
この物語を読んでいる読者諸氏は、臣従儀礼に馴染みがなくとも結婚式は知っているだろう。立会人のもとで聖書に手を置いて夫婦の契りを誓約し、接吻を交わす。
臣従の誓い(Hommage)は、婚姻の誓い(Mariage)を模した契約儀式である。
臣従儀礼は、臣下が主君の城を訪れて立会人の前で行われる。
契約書は書かないが、「神に誓約する」ための聖書か聖遺物を用いる。
「汝、我に忠誠を誓うか」
「我が名と神の御名にかけて……」
主君の足元に臣下がひざまずき、祈るように両手を組む。
この両手は、臣下が所有しているすべてのものを捧げることを意味する。
臣下は、主君と神に対して誓いの言葉を述べる。
「いかなる時も主君たるイングランド王ヘンリー五世を敬い、助言し、決して危害を加えず、敵前で剣となって戦い、盾となって守ることを誓います」
誓いの言葉には状況に応じてバリエーションがあるが、一般的に「主君を神のごとく崇拝し、主君の命令は神の命令である」といった内容になる。
臣下の忠義に対して、主君は見返りを与えることを誓約する。
「されば我は、いかなる時も臣下アルテュール・ド・リッシュモン伯の居場所を保証し、糧を与え、名誉と財産を守ることを神の御名にかけて誓約する」
主君は臣下の両手を包むように手を重ねる。
これは、臣下が捧げるすべてを受け入れるという意味になる。
なお、主君は臣下が誓いに背いたときに名誉と財産を没収する権利を有している。
誓約の証としてさいごに接吻を交わす。
中世ヨーロッパの臣従儀礼とは、おおむねこのような儀式だ。
繰り返すが、臣従の誓いは婚姻の誓いとよく似た契約儀式である。
本来、婚姻を誓った夫婦は死別以外に離婚は許されない。臣従を誓った主従も同じである。死が二人を別つまで、この誓約から逃れることはできない。
仰々しい儀式だが、主従に力の差がなければビジネスライクな雇用契約にすぎない。
だが、力の差が大きいかまたは弱みを握られている場合、主君は生殺与奪の権を握るため、臣下は服従するしかなくなる。
このように強制された臣従儀礼のことを絶対服従・完全服従ともいう。
***
臣従儀礼で交わす接吻は、形式的な口付けである。
しかし、ヘンリー五世の言動の裏に透けて見える「征服してやった」といわんばかりの優越感は、リッシュモンの誇りを大きく傷つけた。
兄を救出するため、ブルターニュの平和のためにと割り切ったが、誓約を盾にこれからさまざまなことを要求されることを考えると、さぞ気が重かっただろう。
「フランス風のキスの方が良かったのではないか」
儀式が終わると、立会人を務めたヘンリーの取り巻きが軽口をたたいた。
イングランドではフランス人を貶めるときによく「フランス風の◯◯」という言い方をする。
この場合のフレンチキスとは舌を絡めるような濃厚な口付けを指すが、実際のフランス人がイングランド人よりも性欲が強くて奔放というわけではない。昔からよくある下品な悪口のひとつだ。
「やめるんだ。余の弟はからかわれるのが好きではないらしいぞ」
「はっはっは、戦場とは打って変わって内気な弟君ですな」
「これからじっくりとイングランド風に躾けて差し上げようではないか」
半ば強制的な臣従の誓いだけでも屈辱だというのに、色情的な下ネタで笑い物にされ、リッシュモンは暗澹たる気持ちで帰路に着いた。
ヘンリー五世に臣従したということは、この不愉快な取り巻きたちと付き合っていかなければならない。
すぐにでも口をぬぐい、唾を吐きたいところだが、誰かに見つかればまた問題行動だと見なされる。リッシュモンは口と心を閉ざし、表情を消して不快感に耐えた。
(塔の私室に戻ったら、できるだけ強い酒を浴びよう。口の中をすすいで何もかも吐き出してしまおう。誰にも見られないように)
頭上を仰ぎ見ると、ロンドン塔の主・大鴉が飛び交っていた。
もし、伝説上のアーサー王の変身能力が子孫にも遺伝していたら、リッシュモンは黒い羽を広げて自由に空を飛び、すべてのしがらみから逃れただろう。
しかし現実では、リッシュモンが安らげる居場所はフランスにもイングランドにもなかった。
0
お気に入りに追加
193
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。

【完結】ポーションが不味すぎるので、美味しいポーションを作ったら
七鳳
ファンタジー
※毎日8時と18時に更新中!
※いいねやお気に入り登録して頂けると励みになります!
気付いたら異世界に転生していた主人公。
赤ん坊から15歳まで成長する中で、異世界の常識を学んでいくが、その中で気付いたことがひとつ。
「ポーションが不味すぎる」
必需品だが、みんなが嫌な顔をして買っていく姿を見て、「美味しいポーションを作ったらバカ売れするのでは?」
と考え、試行錯誤をしていく…

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる