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第七章〈王太子の都落ち〉編

7.21 宰相の伝言

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 ロンドン塔は、イングランド王都の東側を守る堅牢な城塞だ。
 防衛拠点であると同時に、身分の高い反逆者と敵国の要人を収容している。
 一方で、大鴉レイブンクロウの住処でもある。
 鳥類にしてはずいぶん賢い頭脳と巨体の持ち主で、肉でも植物でも見境なく食らいつく。
 艶やかな黒い羽根で羽ばたき、縦横無尽に飛び回る「塔の主」だ。
 塔の周辺では食い足りないのか、王都ロンドンまで遠征するカラスもいれば、さらに遠出をする物好きもいるようだ。
 海を渡ったカラスはかすかに潮の香りがするらしい。

「またカラスと戯れているのですか」
「慣れれば、案外かわいいものだ」

 その日、シャルル・ドルレアンが餌付けした大鴉は、潮の匂いに混ざって焦げ臭さを漂わせていた。
 乾いたパンのかけらと干し肉を与えながら、ひそかにくくり付けた紙片を取り外す。
 世話役とは名ばかりの看守に怪しまれないよう、すぐに袖の中へ隠した。

「ロンドンの宮廷で噂になってますよ」
「何がだ?」
「フランスの王族は頭のおかしい狂人ばかりだってね!」

 看守は、カラスにまとわりつかれている虜囚シャルル・ドルレアンを見ながらけらけらと笑った。


====================

 前略
 このたび、王妃とブルゴーニュ公の謀略に抗い切れず、ふたたび王都を炎上させたことを伏してお詫び申し上げます。

 シャステルの機転が奏功し、王太子ドーファンシャルルはパリを脱出しました。
 ブルゴーニュ派軍勢を欺くため、弟君デュノワ伯を身代わりに仕立てたことを深謝いたします。

 代償としてどのような裁きも甘んじて受ける覚悟です。
 しかしながら、生き延びて再びお目にかかる時間は残されていないようです。

 願わくは、流された血が王国の礎とならんことを。
 聖なる神の業火が、悪逆の徒らを燃やし尽くさんことを。

====================


 シャルル・ドルレアンは、狂人王ル・フーシャルル六世の甥だ。
 亡き王弟オルレアン公の嫡男で、デュノワ伯ジャンの異母兄であり、私のいとこでもある。
 アジャンクールの戦いで、当時王太子だった私の兄ルイの代わりに出陣したが敗北して捕われ、イングランドで虜囚となっていた。
 あれから三年が経つ。

 フランス王国には、古来より王位継承について定めた法「サリカ法」がある。
 父王が崩御し、唯一の直系男子である私が他界した場合、フランス王位は彼に移行する。
 これは正当な継承順位であり、誰が見ても異存はない。

 イングランド国王ヘンリー五世は自身の王冠では満足できず、フランスの王冠をも欲し、百年戦争再開の元凶となった。
 ヘンリーは利己的な欲望を正当化するため、理論武装と印象操作に余念がない。
 英仏両国の人々の記憶から「法」を忘れさせようと謀略を進めていた。

 シャルル・ドルレアンは傍系王族だが、王位継承権二位だ。
 狡猾なヘンリーが、正当な王位継承者に自由を与える可能性はないだろう。
 かといって殺しはしない。王族の生死は交渉の道具になる。
 生きている限り、フランスから金銭を引き出せる人質——都合のいい金づるだった。

 シャルル・ドルレアンには、領地オルレアンに幼いひとり娘がいる。
 女児だから王位継承権はない。
 ヘンリーが少年だったころ、初恋の相手だったという亡きイザベル王女の遺児でもある。
 ヘンリーのフランス侵攻もシャルル・ドルレアンへの仕打ちも、愛憎まじりの因縁があったのかもしれない。



***



 宮廷に陰謀劇はつきものだ。
 表立って動く者とは別に、裏で暗躍する者がいて、真相を見極めることは難しい。
 いま、私たちが見ている光景は真実なのだろうか。

 私の少年時代は孤独だった。
 けれど、寂しさと引き換えに、幸福だったと思う。
 幸福の裏側に何があり、足元で何が起きているのか、深く考えることはなかった。
 この物語を読んでいる読者諸氏もきっと似たようなものだろう。

 幸福の裏側には何がある?
 不幸の裏側には誰がいる?

 ささやかな幸福は、宝石のように小さな箱の中に収められていて、ガラス細工のように脆かった。
 一度壊れてしまったら二度ともとには戻らない。
 いつだったか、ジャンとこんな会話をした。

「王太子は何も知らないんだ」
「なんのこと?」
「本当はうすうす知っている。気づかないフリして、考えないようにしているだけでしょう? 王太子を守るためにどれだけの人が……」

 あのとき、アルマニャック伯は「言っていいことと悪いことがある」と叱責し、ジャンが言いかけた言葉を遮った。
 ジャンは引き下がり、私もそれ以上追求しなかったから、何を言おうとしたのか本当のところは分からない。

 王太子シャルルの都落ち。
 私は糾弾されるような悪事を働いた覚えはなかったから、巡り合わせが不運なだけで後ろめたい感情はなかった。
 もちろん気ままな旅ではなく、緊張と隣り合わせだった。
 後日、私の逃亡劇は幸運に恵まれていたのだと思い知らされる。
 逃亡劇の裏側で、ブルゴーニュ派軍勢はパリを制圧しながら王太子を支持する者を殺害してまわった。
 アルマニャック派貴族と護衛たちは王太子を守るために戦い、私ひとりを脱出させるという目的のために5000人が死んだ。
 大きすぎる犠牲と引き換えに、私は死地から逃げ出し、生き延びた。

 かつて、私の母・王妃イザボー・ド・バヴィエールが宰相アルマニャック伯にこう言い放った。

「覚えておきなさい。うるさい口がきけないように、いつか必ず首をはねてやるわ」

 母は愛人ブルゴーニュ公を寵愛し、政敵アルマニャック伯を憎んだ。
 私は、対立する二者を引き離せば宮廷闘争はなくなると考えたが、母は違った。
 争いをなくすことよりも政敵を葬ることを望んだ。

 アルマニャック伯は、王太子脱出を見届けるとブルゴーニュ派に投降した。
 消えた王太子のゆくえを吐かせるために拷問を受けた後、ブルゴーニュ公の意向を汲んで暴徒と化したパリ市民に引き渡され、リンチの末に斬首された。

 犠牲となったのは宰相だけではない。
 大法官アンリ・ド・マルルは息子とともに王都から逃亡を図るが、ブルゴーニュ派軍勢に追いつかれてしまった。
 歴代大法官が保管していた王印は奪われ、父子の惨殺死体が残された。

 王太子を支えた重臣は死に、私だけが奇跡的に生き残った。
 有能な者よりも、勇敢な者よりも、私を生かすことが優先された。

 アルマニャック伯の死後も、王太子を擁する勢力はアルニャック派と呼ばれ続けた。
 アルマニャック伯をしのぐ指導者があらわれなかったからだ。

 ブルゴーニュ派は狂人王と王印を確保し、王都パリを手中に収めた。
 アルマニャック派の残党は、若いだけで取り柄のない王太子を確保し、フランス王国政府を名乗る体裁だけは保った。

 デュノワ伯ジャンは王太子の身代わりを務めたあと、消息が途絶えた。
 ジャンの両親はとうに亡くなり、異母兄シャルル・ドルレアンは虜囚の身だ。
 後見人だったアルマニャック伯が死ぬと、傍系王族の庶子を気にかける者はもういなかった。

 私は小さな箱庭のような宮廷で生まれ、修道院に幽閉されて育った。
 見える視界と知っている世界はとても限られている。
 私は、私のために流された血と足元を埋め尽くす死体をまだ見たことがなかった。

 あの日の記憶がよみがえる。
 ジャンが言いかけた言葉が、私の耳もとで繰り返しささやく。

「本当はうすうす知っている。気づかないフリして、考えないようにしているだけでしょう? 王太子を守るためにどれだけの人が……」

 ——どれだけの人が死んでいると思っているんですか。

 過去の記憶は、宝石箱に収められたガラス玉のようだ。
 ふとした瞬間、キラキラとまばゆい光をまとって降ってくる。
 慈雨のように優しく透き通っていて、それでいて鋭利な刃物のようでもある。
 触れようと手を伸ばせば、たちまち指先は切り裂かれ血がにじむ。
 無数の痛みを抱えながら、私はそれでもなお生きなければならなかった。






(※)第七章〈王太子の都落ち〉編、完結。
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