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第肆念珠

#039『返済』

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 今を去ること四半世紀も昔の、1995年7月31日の月曜日。

 ヒデトさんは、当時まだ15歳の少年であった。
 夏休みを謳歌する怠惰な高校生らしく、前日深夜までたっぷりとゲーム三昧を楽しみ、正午近い時間帯におっとり起床したという。

 外からは蝉の声。雨戸の隙間をくぐり抜けた一条の日差しが、枕元まで明るく伸びていた。
 ・・・・・・ああ、よく寝た。
 そろそろ起きるか。

 大あくびを吐き出しながら、ムクリと身を起こす。

 夏休み開始から3日目までは「もっと早く起きなさい!」「規則正しい生活をなさい!」「どうして朝ご飯食べないの?!」・・・などとガミガミうるさかったお母さんも、この頃になるともはや諦めの境地に達していたのか、ヒデトさんの朝寝坊をことさらに咎めることはなくなっていた。
 それでもお昼ご飯は一緒に食べないと小言を聞かされる気がしたので、何となくヒデトさんも12時までには起きるように努力をしていたという。
 ・・・それが『努力』と言えるかどうかは微妙なところであるが。

 そんなわけで、その日もお昼前にはちゃんと寝床を出ることが出来た。

 寝ぼけ眼を擦りながら廊下に出て、洗面所に向かう。ジャバジャバ冷水で顔を洗うとたちまちスッキリしたので、リズミカルに歯磨きを終えてリビングへ向かった。

(呆れ顔のおふくろ様にご挨拶と参りますか)

 リビングの戸を開け、「おはよーっ」と声をかけた。本当は「こんにちは」だが、起き抜けに親に向かって「こんにちは」もないだろう。

 ガスコンロを使っているお母さんと目が合った。
 お母さんが、眉をハの字にして「まったくこの子は」といった顔をした。



  次の瞬間、自室の布団の中で目が覚める。



「・・・・・・ ・・・・・・  え?  
 ――う、うぁっ?!!」


 ガバッと敷布シーツをはね除けた。
 わけがわからず、周囲を見回す。
 今さっき、俺は目を覚まして顔を洗って歯ァ磨いて、リビングでおふくろに会って・・・ アレ??
 ああ、そうか。夢か、さっきの!!


 だが、安堵の息は出なかった。

 何故か心臓が、早鐘のようにバクバクバクバク、凄まじいまでの鼓動を刻んでいる。

 時計を確認してみると、11時を少し回ったくらい。最近よく目覚める時間帯である。
 と。 時計の近くに掛けている、日めくりカレンダーにも目が行った。

 一瞬、息が止まった。

 暦の紙面は、7月31日 月曜日。
 だがヒデトさんには、日めくりを朝起きてからめくる習慣がある。

 すなわちその日は、8月1日 火曜日だった。


  ※   ※   ※   ※


「ふーむ、なるほど。つまり、まるっと一日分 時間が〝跳んで〟しまったわけですね?」


 この話の電話取材の途中。ここまで体験談を聞いた私は、受話器の向こうの体験者・ヒデトさんに向かって、そんな問いを発していた。
 同じような話は既に何回か取材しており、中には発表に至ったものも少なくない。果たしてこれが全国的に「ありふれた不思議体験」であるかどうかは与り知らぬところであるが、ままあるケースであることは確かだろう。


「うーん、時間が〝跳ぶ〟ですか。なるほど、そうですね・・・」


 対するヒデトさんは、私の表現に対して少し難色を示されたようだった。


「〝跳ぶ〟、というより。7月31日の記憶をまるっと私が喪失してしまった・・・と考える方が、しっくり来るように思えるんですよ」


 言われてみれば尤もである。〝時間が跳んだ〟といった場合、〝その間の記憶を失ってしまった〟と言い換えることもまた可能であろう。
 しかし、何故そう表現した方がヒデトさん的に〝しっくり来る〟のだろうか?


 「私、思い出していくんですよ。
  それから今に至るまでの25年間、
  少しずつ 少しずつ。
  7月31日のことを」


  ※   ※   ※   ※


 初めて〝思い出した〟のは、夏休みも佳境に入った8月末頃だった。

 やりたくもない英語の宿題に手をつけながら、一向に捗らないことに心倦みまくり。何気なく窓の外の青空を眺めた時、

(そう言えばあの時の昼飯は揚げ物だったなァ)

 と。
 自分の置かれたシチュエーションに全然関係のない事柄が、不意に脳裏を過ぎったのであった。


 ――ややあって、「ん?」と心に引っかかる。

 今の感覚、何だ?
 〝あの時〟って・・・ もしかして、7月31日の あの日のことか??!


  (何でいまさら――)


  ❖   ❖   ❖   ❖


 〝あの日〟。母親に「おはよう」の挨拶をしたヒデトさんは、「おはようじゃないでしょ、まったく・・・」と軽い愚痴を叩かれながらも、昼食の用意をして貰ってそれを食べた。

 トンカツだった。

 「うぇっ、起きたのっけにトンカツはねぇだろ」と不満を漏らすと、「こんな時間に起きてくるあんたが悪いんじゃない!」「いらないなら別にいいのよ。夕飯の時に、チンして食べさせちゃうんだから」と 当然とも言える応酬を食らった。


 ちぇっ、それでも親かよ! 結局ヒデトさんは自分の不徳を棚に上げてブチブチとぼやきながらも、存外美味しくトンカツを平らげたわけだが・・・そういうことはどうでもいい。
 問題は、今まで何故 それをすっかり失念していたか、ということだ。

(完全に一日忘れちゃったわけじゃねぇのかな・・・)

 何故か、あの日の目覚めの際と同じく 激しい動悸と不安を感じた。
 意味がわからなかった。


  ❖   ❖   ❖   ❖


 次に続きを〝思い出した〟のは、一年後の大晦日、つまり1996年12月31日の夜だった。

 家族揃って紅白を見ながら、「今年もいろんなことがあったなァ」というお父さんの呟きを聞いた瞬間、


(そう言えばあの時、田辺に電話したけど用事があるって断られたんだよなぁ)


 再び、まったく場の空気とそぐわぬ思い出が心の中に浮き上がってきた。

 その年に起こった出来事でもない―― 昨年の夏休み、例の失われた一日に関する記憶の断片を思い出したわけである。


 〝あの日〟。昼食を食べてお腹いっぱいになったヒデトさんは、自室に戻ってしばらくゲームの続きをプレイしていた。
 が、一時間ほどで何となく集中力が切れてきたので、友人の田辺くんと何処かへ遊びに行こうかと不意に思いついたのである。

 家の備え付け電話まで走り、田辺くん宅の電話番号をプッシュする。当時は携帯電話を個人所有していない学生も多かったのだ。

 親が出たら取り次いで貰おうと思っていたが、幸いにも田辺くん本人が出た。
 しかし、「今日は今から用事があるから遊べない」とのことだった。
 何だ、つまんねぇ・・・と思って電話を切り、部屋へ戻った。
 どうやって時間を使おうかしばし考えたが、結局またゲームを起ち上げたのだった。


(そ、そうだった。そこまで俺、覚えてたんだ・・・ いや、ってコトなのか? 今さっき!!)


 再び、動悸と不安を感じた。
 家族に気取られ、心配されたらまずいと思ったので そそくさと自分の部屋へ戻り、落ち着くまで横になっていたという。


  ※   ※   ※   ※


 後は、これの繰り返しなのです―― ヒデトさんは言う。

 まったく不意に、意識すらしていない時に限って、彼は失われた7月31日の出来事を 少しずつ少しずつ、 思い出していくらしい。

 だいたい一度に思い出すメモリーは30~90分間くらい。一度思い出してから次にまた思い出すまでのスパンもまちまちで、だいたい2、3ヶ月から1年くらいの間が一番多い。3年ほど音沙汰が無かったので「もうこれで終わりなのかな?」と安心し始めていたらまた思い出した、ということもあったという。

 『思い出し』には、決まって動悸と不安感が伴う。
 それが少年時代のヒデトさんを憂鬱にさせ、(当たり前ながら)何かの病気なのかも知れないとすら思わせたそうだ。

「でも何か、20歳を超えたくらいになると 俺はこの後、何を思い出していくんだろうって・・・ドキドキするような興奮を抱くようにもなっていったんです」

 まさに『怖い物見たさ』といったところだろうか。
 これが病気だったとして、もし治療によって続きが見れなくなったらつまらないな・・・と感じた。もしかして世界レベルで考えても、自分と同じ不思議体験をしている人は皆無なのかも知れない。だとしたら・・・

「このまま流れに身を任せて、少しずつ思い出していこうと思いました。少年時代の私を記憶喪失にしてしまった〝何か〟が、7月31日のある時を境に発生する筈ですから。それを想像するだけで、二十代の頃はしょっちゅうワクワクしてたというか。おっかな半分に何かエキサイティングな展開を期待していたというか・・・・・・」


 思い出す時の苦痛が、快感に変わっていたという。


 また、いつしか こうも考えるようになった。
 
 そしてその何者かは、
 ――まるで長期契約のローンを分割返済していくように――
 長い時間をかけて、拝借した記憶を返してくれているのではないのか、 と。

「我ながらバカバカしい発想ですが、何だかドラマティックでしょ。映画か漫画みたいじゃないですか ・・・ソレに酔ってたんですよね。いま考えると」


 だが、現実はそれほどドラマティックではなかった。

 ちょっとずつ、ちょっとずつ思い出していく7月31日の記憶は―― 早く言ってしまえば、ヒデトさんが夏休みじゅう毎日毎日繰り返していたルーティーンな日々と、何ら大差の無いものだったのである。


 ――朝寝して昼方近くに目を覚ます。
 ――昼ご飯にトンカツを食べる。
 ――友人を遊びに誘い、断られる。
 ――仕方ないのでゲームをする。
 ――三時のおやつにどら焼きを食べる。
 ――夏休みの宿題を開く。10分でやめる。
 ――気分転換に近くのコンビニへ行く。
 ――帰宅後、買ってきた雑誌を読む。
 ――日が暮れかけた頃、風呂に入る。
 ――そして夕飯。焼き魚と麻婆豆腐。
 ――23時近くまでテレビ鑑賞。
 ――その後、またゲーム・・・・・・


  ※   ※   ※   ※


「まぁ、今のところ 九割方は返ってきたんですよ。記憶」

 複雑な表情を浮かべながら、ヒデトさんは仰る。
 何でも、三十代の後半くらいから記憶を思い出すドキドキが減退していき、 今ではまた少年時代の頃のように、漠然とした不安のようなものだけが募っているという。


「なるほど・・・ 若い頃のヒデトさんは、自分が何か非日常的な事件か何かに巻き込まれて記憶を失ってしまったのではないかと期待していたんですものね。それが、23時を過ぎても何も起こらないということは・・・・・・」

 おそらく、ヒデトさんの記憶を奪った出来事は最後の最後―― 彼が寝床に入った後に起こる筈である。
 しかも、動悸や不安感を余韻として残すほどの強烈なだ。想像を絶するほどに恐ろしい怪奇現象の類いであるに違いない。

「短期間にもの凄いストレスを刻みつけるであろう出来事を思い出すのは、やはり良い気持ちにならないでしょうね・・・ 心中お察し致します」

 安っぽい同情の言葉しか出てこなかったが、それでもヒデトさんは「ありがとうございます」と薄い笑みを浮かべて返して来られた。

 ――だが。

 彼が一番恐れているのは、そういうオチではないという。


「松岡さん。私がもっともイヤなのはね、 
 ことなんです」


 え?
 どういう意味だろう・・・私は絶句した。
 ヒデトさんは続ける。


「だってそうでしょ?一日の記憶がまるっと失われているんだ。1995年7月31日には、何かが起こっていて然るべきじゃないですか。 でも、いざすべてを思い出してのだとすると―― どうして私は記憶喪失になってしまったっていう話ですよ。どうして平々凡々な一日の記憶をわざわざ喪失してしまい、それを何故に四半世紀に渡ってチビチビと思い出していったっていうんですか」


  そもそも、
  今まで分割返済された記憶の数々は
  本当に、正真正銘
  本物の私の記憶だといえるんでしょうか?
  誰が保証してくれるっていうんですか??
  誰が・・・・・・・・・・・・


  ※   ※   ※   ※


 学生時代の夏休み。ヒデトさんは夜の静寂を一心にゲームに費やし、午前4時くらいに いつも就寝していた。
 いま思い出している記憶は、午前2時を少し回った頃まで。

 おそらく四十代の半ばくらいまでにはすべてを思い出して一つの答えが出ることだろうが、 しかし今後どんな展開を見せても結局 厭な結果を見るような気がして あの動悸と不安感が襲ってくるのが切実に怖いという。


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