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#087 『わすれ傘』

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 長年 中学校の女性教諭として教壇に立ってきた花田さんが、四半世紀ほども前に離島に勤務していた頃のお話。

 ある夏の日。いつも通り出勤しようと 汗ばむような海沿いの道を、彼女がカモメの声を聞きながら歩いていると、

「おーい、先生さん、先生さんよーィ!!」

 道の向こうから、聞き覚えのあるダミ声に呼び止められた。
 見れば、花田さんの教え子の一人のお父さんで、漁師をされている方だ。家庭訪問の際にお会いしたことがある。
 何やらひじょうに真面目なお顔で、大きく振り上げた腕で手招きをしている。

「おいおい、よせよ。人まで呼んで見せるようなモンか?」
「ばかたれ。学のある人に見てもらうんだ。アレが何か、気になるだろ?」
「そうは言っても、あまり縁起の良いもんじゃねぇんじゃねぇかな・・・」

 漁師仲間と思しき数人と、そんな内輪話をされているようだ。
 どうしたんですか?と花田さんが小走りに駆け寄ると、「いや、時間は取らせないですから」「ちょっと見ておくんなさい」 興奮気味に誘われる。

 事情を尋ねると、「あっちの方にヘンな傘があるんだが、俺達にはまったく わけがわからない。どういう物なのか教えてほしい」とのこと。
 意味不明な説明だったが、ちょっと興味をそそられた。余裕を持って職員寮を出てきていたので、時間の方は大丈夫。

「どんな傘です?直ぐ近くですか?」

 笑顔で応えると、「ほれ、あっち」と 少し離れた大通りの方を指差される。
 そこには、数人の島民の方々が 一本の電信柱を囲んでそれを見上げ、しきりに首を捻ったり 何やら議論を戦わせたりしているような光景が目に入ってきた。

 何をやってるんだ?花田さんの視線は、彼らと同じように電柱の頂上へ向かう。
 そこにあったのは、
 ひとつの 開いたコウモリ傘。


 ――ん。傘。
 ――え、傘っ??!!


 思わず駆け寄った。

 「ああ、花田先生」「先生、ありゃ何ですか」 そこに集った方々から、口々に質問攻めを受けた。あまり広い島ではないので、ほとんど皆、顔見知りのようなものなのだ。

「10分前くらいに見つけたんだがね」
「ずっと、あの調子なんだよ」
「誰の傘かもわかんねぇし」
「・・・動いてるんだよな、何でかな」

 高い電柱のいただき、そこにちょこんと立つようにして乗っかった黒いコウモリ傘。
 なるほど、それが ゆっくり ゆっくり。燦々とした陽光を受けて、開いたり 閉じたりを繰り返しているのだ。
 機械仕掛けのような規則正しさがあったが、同時に生き物の呼吸のような 生命の片鱗を感じさせる不思議なリズムもあった。

 花田さんは、すっかり呆気に取られてしまった。
 しばらくそれを、魅入られたかのように無言で見つめていたのだが、

「・・・先生様、何がどうやって、ああなるんですかい?」

 一人のご隠居さんから尋ねられ、慌てて我に返った。
「うーん、何でしょう・・・」
 曖昧な言葉しか、出てこない。

「ふむ。本土から来た先生様が知らないんだから仕方がねぇ。おい誰か身軽な奴、ちょっくら柱ァ上って、あのケッタイな傘を取ってこいや。燃しちまおう」

 ええっ、それでいいの?! 花田さんは心底ビックリしてしまったが、案の定、「それなら自分が・・・」と名乗りを上げる勇気ある者は、誰一人現れなかった。
 血気盛んな漁師さん達も、無言で仲間の顔を眺め合いながら一様に苦笑いを浮かべておられたという。

「・・・何だぃ、だらしねぇナ。そんなら誰か、駐在さん呼んでこいや」

 どうやら、このご隠居さんが 場を仕切っているようだ。
 話が込み入ってきたので、花田さんは お暇することにした。
 「おぅおぅ、そうだ。先生にゃ学校がある」「花田先生、子供達をよろしくお願いします――」・・・子供さんのいない人からも頭を下げられ、恐縮しながら学校へ向かった。


 その日の学校が終わり、帰り道にちょっと寄って くだんの電柱を見てみたが、もうその頂上に 黒い傘は無かった。

 とりあえず解決したんだなぁ、とホッとしたという。


  ※   ※   ※   ※

 それから数日後。
 いつも通りの朝の日差しの下を花田さんが学校へ向かっていると、例の黒傘事件の時 野次馬になっていたおばさんの一人と 道ばたでバッタリ再会した。

「あらー、花田先生。おはようございます~」
「あ、おはようございます!今朝も暑いですねぇ」

 二言、三言 世間話を交わし、「そう言えば、あの時のおかしな傘はどうなったんですか?なくなってるみたいですけど」と何気なく尋ねてみた。

 おばさんの表情が変わった。
 きょろきょろと周囲を気にするような仕草をし、私が喋ったって誰にも言わないでよ・・・と、神妙な顔で耳打ちされる。

「先生、それがですねぇ・・・・・・」


  ◎   ◎   ◎   ◎

 花田さんが、あの後 学校へ向かって間も無い時分だという。
 漁師さんのうち脚自慢の一人が、近くの交番まで駐在さんを呼びに行った直後、その場にチリン、チリーンと 風鈴のような涼しげな音が鳴り響いた。

 え、何、何?? 一同は〝謎の音〟の正体を確かめようと周囲を見回す。

「あ、あそこ!!」

 それはお坊さんだった。

 30代はじめか、もしかするともっと若いかも知れない。ぼろぼろの僧衣を着た一人の若年僧侶が、〝おりん〟をチリンチリンと鳴らしつつ 海方うみがたの道から歩いてきている。
 肩掛けした頭陀袋に、薄青い坊主頭。無精ひげが口周りに薄く見えている。
 あまりにもリアルに時代がかった格好なので、皆 言葉を無くして見守るしか無かった。


 お坊さんは何やらお経らしきものをモゴモゴと唱えながら、電柱の前に立つ。


 そしてその頂を見上げるや、一際大きく、お鈴をチリ――ン!と鳴らした。


 コウモリ傘が、ぴょいん、と跳ねた。
 開いたまま、ゆっくりとパラシュートのように下りてきて、お坊さんの傍らに落ちた。
 ほおおおおぅ・・・と 妙な歓声が上がった。

 お坊さんは、お経を止めてお鈴を懐の中に仕舞い、足下の傘を拾った。
 自分を呆然と見守る観衆に向き直る。そして、

「おわすれなさい」

 一番近くの、ご隠居さんに向かって静かに言った。
 そして次に、その隣に居た若い漁師さんに視線を移し、

「あなたも、おわすれなさい」

 そして、次々に視線を一同に巡らせてゆき、


「おわすれなさい」
「おわすれなさい」
「おわすれなさい」
「おわすれなさい」


 全員に そう言い含め、黒傘をさしたまま 山の手の方へと去って行った。

 全員 狐に抓まれたような顔になり、しばらく一言も発することが出来なかったという。


  ◎   ◎   ◎   ◎


「しばらくして駐在さんが来てね・・・皆に、どうしたんだ、何があったんだ って。しつこく尋ねてきたんだけど・・・誰も知らぬ存ぜぬで通したわよ。だって、」

 だって、『おわすれなさい』って言われたんだもの。

「・・・・・・誰も知らないお坊さんだったわ。あり得ないでしょ、この狭い島で」

 先生だから話したんだ、だけど 早くわすれた方がいいですよ、とおばさんは言い残し、そそくさとその場を後にされた。


  ※   ※   ※   ※

 しばらくは、「不思議な話だなぁ」と思って素直におばさんの言うことを信じていた花田さんだが、島で日を暮らすうちにだんだん、「・・・もしかして担がれてしまったんじゃないのか?」と疑いの念を抱くようになってしまった。

 もともと、島の外の人間には少し排他的な土地柄である。自分は教師だから一目置かれているんだろうと思ってはいたが、もしかすると 陰で後ろ指を指され、バカにされているのかも知れない。

 そう思いはじめてしばらく経った頃、 あの時のご隠居さんと島の販売所でお会いした。

 そこで疑念を晴らすべく、「ご隠居さん、あのコウモリ傘の出来事を覚えていらっしゃいますか?」と思い切って尋ねてみた。

「私、実はあの後 用事で引き返して、皆さんの一部始終を目撃しちゃったんですけど」

 睨むような表情で、カマをかけてみる。自分をバカにする算段をやっていたのなら、何らかのリアクションを示される筈だ。

 だが、

「先生も、あの坊さんをご覧になったんですか!!」

 ご隠居さんは、目を丸くして言った。

「だったらあなた、本当に、早くわすれた方がいい。だって、」

 あの時の坊さんと傘には 影が無かったですからな――



 それからも何人か、あの時の野次馬のうちの一人と出会う度、同じカマをかけてみた。
 全員から「先生もわすれなさい」と言われたが、お坊さんと傘に影が無いことに気付いていたのは ご隠居さんだけだった。

 いまでは あの人たちが嘘を言っていたとは思えない、という。
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