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最終章 ひとりの魔女の物語
第137話 トルロスの技術顧問
しおりを挟むトルロス漁業組合の大会議室。
「――先生、そのタービンというのは?」
「流体の持つエネルギーを回転に変換したものだ。だが今は気にするな。まずは、蒸気機関を目指すのだ」
教団に立つロゼは、生徒達に教鞭を執っていた。
「先生! そんな回りくどい事をせずに、発電機とやらを山ほど買うのはどうでしょう?」
「それよりも先生! 異世界から優秀な人材を確保しましょうや!」
「いや、むしろ我々が異世界に!」
「異世界の船を見たいです!」
生徒達は勉強熱心ではあるが、その本性は血気盛んな海の男だ。意見が違えたり言いたい事があると、言い合いから取っ組み合いに代わり、最終的には賭け事が始まる。
「なにおう!」
「いいぞー! やっちまえ!!」
「勝って異世界に行こうぜー!!」
「はぁ……またか」
『座学は自分がやるからロゼ先生は夢のある授業を』、そうハルシウルに頼まれたのは数日前の事だった。数学や物理学を何に使うのか分からないまま勉強するのは苦痛だったらしい。ロゼの授業は好評だった。
にしても、荒々しい男達だ。
ハルシウルはこの状況に慣れているのか、ニコニコとしながらその様子を眺めていた。もちろん、賭け事を止めようともしない。
「ロゼ先生、お疲れですか?」
「ハルシウル、我はただの猫なのだ」
「とんでもない。我がトルロスの新たなラクリマス様でもあれば、技術顧問でもありますよ。彼らは定期的にこうして発散しないと駄目なのです。お気になさらず」
ハルシウルは穏やかにそう告げた。
そうは言っても、こうして何度も授業を止められてはどうにもやり辛い。ロゼからも喧嘩以外で伝えたい事は沢山あるのだ。
「先生! 白猫ちゃんはどこですかぁ?」
「愛を見せて下さいよぉ! 愛してるって言ってくださいよぉ! チュチュ!!」
「――突然だが、小テストを行う」
「「えええぇぇええ!!?」」
全員が悲鳴を上げた。
「ええぇじゃない! 出来なかったら再テストだ! だが、最も出来た生徒には蓼科ポイントを加点する!」
「「うおおおおぉぉぉ!!」」
悲鳴が歓声に変わった。
蓼科ポイントとは、ハルシウルが作ったやる気向上のシステムだ。このポイントを集める事で魔道具と交換したり、蓼科一泊二日旅行と交換出来たりする。海の男達にとっても、異世界旅行という未知の体験は味わってみたかったのだ。
何よりも、その旅行先にいる宿の主は自分達の国を作った親のような人物。生徒たちは急に真面目な顔になり、配られた用紙に目を通し始めた。
「ふ、現金な奴らめ」
「ロゼ、少し外の風に当たりましょうか」
「む」
ロゼはハルシウルの誘いに乗り、テストを事務の人間に任せて漁業組合を出た。
◆ ◆ ◆
1人と1匹は、トルロス島を散歩する。
「女神の宿はいつ完成するので?」
「まだ何も準備していないぞ。庵は粉々に砕け散ったままだ」
「一人目の宿泊者は私ですよ?」
「自分でエスに頼み込め」
ハルシウルは相変わらず、異世界に興味を示している。ニィっと微笑み、散歩しながら頭の中で計画を立て始めた。
トルロスの街は以前と変わらない活気がある。競りや商人の掛け声も同様だ。ここで生活をしていると、ネクロマリア大陸での出来事は現実の事のように感じないのかもしれない。
だが、以前と違う点もいくつかあった。
まず、ここ最近はネクロマリア大陸の港市国家から頻繁に船が訪れていた。物流はもとより、観光についても規制が緩和され、宿が足りないほど活況になっていた。
そこでハルシウルは考えを巡らせ、蓼科のキャンプ道具に目を付けた。ネクロマリアの受け入れ先として準備していた場所を『女神の野営場』と名付け、海の見えるキャンプ場に作り替えたのだ。もちろんその目的には、キャンプ道具のPRも兼ねている。
その女神の野営場は、市街地のすぐ傍にあった。ロゼは歩きながら、横目で眺める。
「……街中よりも人が多いな」
「えぇ、嬉しい悲鳴ですよ。有難い事です。風情はありませんがね」
「それでも楽しそうだ」
観光客はもとより、地元住人らしき姿も見える。市場で買った魚を焼いて、いかにもキャンプ場らしい煙が上がっていた。
そこから住宅地を抜けて傾斜のある道を上ると、トルロスの大広場が現れる。ロゼは大広場の前で、ふと足を止めた。
最も大きく変わったのは、この子供達だ。
「――これを割ると、2π^2」
「正解です」
「ゼロで割れないのは何故でしょう?」
「いい質問ですね。では例えば、リンゴが10個あったとします。そこから――」
青空の下で、子供達が数学の勉強をしている。
今までのトルロスの学習カリキュラムに、異世界の学問が加わったのだ。数学だけに限らず、異世界の道具や料理、道徳、スポーツ、芸術や音楽や文化など、あらゆる知識をこのトルロスで学ぶ事が出来るようになっていた。トルロスは今、漁業の国から学問の国へと変わろうとしていた。
ミアの翻訳はまだ途中だ。だが、その功績はとても大きかった。
「……大人達よりも真面目ではないか」
「はは、トルロスの未来は明るいですよ。ミア様にも頭が上がりません」
ハルシウルは空を眺め、問いかけた。
「蓼科は、どんな未来になるのです?」
ロゼは一瞬、答えに詰まった。
面白い質問だ。
その答えは誰にも分からない。
だが、こうあって欲しいと思うものはある。
「――たらふく食べ、しこたま飲み、色々な事で喜怒哀楽を味わい、風呂に入って寝る。そんな平和な日々を続けるために、人々が頑張る世界になるのだ」
「それは……」
ロゼの答えは、今のトルロスと同じだ。
ハルシウルは表情を変えず、静かにロゼを見下ろした。
「生きていれば、本来それだけで十分に満ち足りるものなのだ。平和に慣れると忘れてしまうが、何気ない日常こそが本当に大切なものだ」
「……猫も人も、同じ考えなんですね」
「全てにおいて平和以上のものは無い」
「ふふ、同意見ですよ」
ハルシウルとロゼは、再び歩き出す。
広場を抜けて坂を上ると、トルロス山の窪地が現れる。この窪地を利用して作られているのが、トルロス政府だ。
トルロス山は死火山のため噴火は無く、島を一望できる場所でもある。ハルシウルはトルロス山の一角にある、展望用のベンチに腰掛けた。ロゼも隣に座る。
青く、美しい海だ。
海鳥の鳴き声も心地良い。
「――トルロスは最高の国でしょう?」
「ふ、自分で言うか」
「しかも、国民達が自らの手でもっと良い国に変えようとしているのです。文句を言いながも、お互いに意見をぶつけ合い、未来の子供達のために国を作っているのです。私はこの時代に生まれてきて本当に幸せですよ」
ハルシウルは海を眺めながら、嬉しそうにそう言った。そして、懐から一通の手紙を取り出した。今朝届いたばかりのものだ。
「女神様からです」
「聞こう」
「はい。『ご苦労様です、ハルシウルさん。こちらの学校に関する資料を送りますので、参考にして下さい。あと、そろそろ庵を作るのでロゼを返してもらえますか?』以上です」
ハルシウルは手紙を畳む。
ロゼはふっと笑った。
「そろそろという程、お借りしていませんが」
「エスは気まぐれなのだ、許せ」
「いえいえ、許すも何も我が国の大恩人です。それで、いかがいたしますか?」
エスティはついこの間まで、死ぬほどぐうたらさせろと言っていたはずだ。だからこうしてトルロスに来たというのに、この気持ちの変わり様。
いつもの事だ。
それが可笑しかった。
「我が主は、早く家が欲しいらしい」
ロゼはベンチを降り、ハルシウルを見上げた。そしてハルシウルは何も言わずに、手に持っていた【時空のビーコン】を使用した。
この男なら舵取りは間違えない。
ロゼはそう感じて、ふっと微笑んだ。
「世話になったな、ハルシウル。また来る」
「えぇ、またのお越しを」
現れた転移門に、ロゼは飛び込んだ。
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