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旧天の筺
傷物のレコード
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密筐院の地下第一階層、人気のない書庫の端。
「すまないね、手伝わせてしまって」
「いえ、そんな。ちょうど暇でしたし」
申し訳無さそうに笑うのは記録管理課の職員、ルィエン。灰髪に碧眼、目鼻立ちの整ったその顔にはしかし、斜めに大きく傷跡が走っている。回収課のエース、三重冠の優秀なエージェント。二年前に発生したインシデント“月海の氾濫”以降、彼のそれらの肩書にはどれも「元」という字がつくようになってしまった。
「レイオット、みんなは元気にしているかい」
「……はい。幸い一人も欠けることなく、なんとか」
ファイリングされた文書の山を運びながら答える。隊長であったルィエンがこの書庫に異動してからも、小隊の面々はよくやっていた。目まぐるしく変わる情勢と流れ続ける時間の中で、不変でいるほうが難しいのかもしれない。
「隊長……ラウさんは最近、どうですか」
「久しぶりに名字で呼ばれたな。名前でいいよ、二人だけだろう?堅苦しいのはそんなに得意じゃないんだ」
「そういうわけにもいきません。階級差が」
「たった一個差じゃないか。さんもつけなくて良い」
頑なに要求され、口を閉じる。少々卑怯な避け方かもしれないが、それほどかつての上司を呼び捨てにするのは気が引けた。
「僕が回収課にいた時から変わってないね。その真面目さも大事だ」
規則を遵守するから。違う、貴方だからこそ呼べないのだ。とはまあ、言えなかった。
「このファイルはどちらへ」
「ああ、そこの三段目、番号が振ってあるはずだから順番通りに」
並外れた身体能力、ほとんどの武器を使いこなしてしまう器用さ、それらが失われたとして、あの指揮能力と豊富な経験は書庫に眠らせておくには惜しいもののはずだ。なぜ彼がここにいるのか。あの事件の何が、彼を前線から完全に退かせたのだろうか。
「レイオット」
ファイルを運ぶ手を止めて、振り返る。
「ここまでで十分だ。午後は召集がかかってるだろう」
ルドベキアの咲いたような不思議な碧色の虹彩。
「詳しいんですね」
未練があるとか?
ルィエンがふと目をそらす。しまった、言うつもりはなかったのに。
「……そうだね」
「え」
「そうだね」?あると言ったのか、未練が。
「レイオット、僕は──」
続くであったろう言葉、それが突然切られる。どさどさと床に落ちる文書の山。脱力し、糸が切れたかのように倒れるルィエンの体。
「どうしたんですか?!」
慌てて駆け寄りすんでのところで彼を支える。魂の抜けたような肉体は想像以上に重く、なんとか頭は打たせずに済んだものの、重さに引っ張られて書架に自分の肩をぶつけてしまった。じんわりと体の芯を喰うような痛み。
「大丈夫ですか、隊長!」
咄嗟に出るのはその呼び方。もう彼は自分の上に立つ者ではないのに。
月海の光景が蘇る。銀糸蝗のむらがる隙間からのぞく生気のない肢体。赤黒い血と白砂に塗れ、力なく横たわるその体。これはもうだめかもしれないなあ、なんて頭をよぎるのに、敬愛する彼の死に際かもしれないのに、疲労した脳はどこか他人事のようにそれを処理する。
「隊長、終わりましたよ……帰りましょう」
自分の吐くその台詞も力ない。底をつきかけている力を振り絞り、銀糸蝗を追い払っていく。隊長は動かない。
もしや、これが彼の最期だろうか。それが認識の薄膜を突き破ってにわかに理解された時、私は半ば放心したようになって、気づけば地に伏せ、動かなくなった隊長の体を抱えて泣いていた。これが最期なら、その温もりの消えぬうちに触れたかった。届かぬ存在の彼が、真に触れられなくなる前に。そして全てを、言葉にならず慟哭と化した感情を伝えたかった。否、ただただ敬愛するその人を失うことが辛かったのかもしれない。
あの時、私は僅かな力と損傷した仮翼でどうしたのだったか。
「あ……はは、困ったな、またか」
ルィエンは笑った。ありがとうと言う声も、どこか繕っているようだった。
生きている。ほっとして弱く、ため息をつく。
「月海での事件以降たまにあるんだ、気にしないでくれ」
……相変わらずだ、この人は。できるわけがない。医師に相談はしたのかとか頻度はどれくらいなのかとか、聞きたいことが沢山出てきたが、それらをぐっと飲み込む。
「立てそうですか」
「ああ。すまない」
立ち上がるのに、手を貸す必要はなかった。ある程度まとまっていて良かった、なんて言いながら落ちた紙の束を拾い、仕分け直して、それからは隊長であった時から変わらない、いつも通りの彼だった。
ただ少し、あの気道の閉まるような冷たく苦しい思いが、私の底から戻ってきて私を緩く締め付けた、それだけだった。
「すまないね、手伝わせてしまって」
「いえ、そんな。ちょうど暇でしたし」
申し訳無さそうに笑うのは記録管理課の職員、ルィエン。灰髪に碧眼、目鼻立ちの整ったその顔にはしかし、斜めに大きく傷跡が走っている。回収課のエース、三重冠の優秀なエージェント。二年前に発生したインシデント“月海の氾濫”以降、彼のそれらの肩書にはどれも「元」という字がつくようになってしまった。
「レイオット、みんなは元気にしているかい」
「……はい。幸い一人も欠けることなく、なんとか」
ファイリングされた文書の山を運びながら答える。隊長であったルィエンがこの書庫に異動してからも、小隊の面々はよくやっていた。目まぐるしく変わる情勢と流れ続ける時間の中で、不変でいるほうが難しいのかもしれない。
「隊長……ラウさんは最近、どうですか」
「久しぶりに名字で呼ばれたな。名前でいいよ、二人だけだろう?堅苦しいのはそんなに得意じゃないんだ」
「そういうわけにもいきません。階級差が」
「たった一個差じゃないか。さんもつけなくて良い」
頑なに要求され、口を閉じる。少々卑怯な避け方かもしれないが、それほどかつての上司を呼び捨てにするのは気が引けた。
「僕が回収課にいた時から変わってないね。その真面目さも大事だ」
規則を遵守するから。違う、貴方だからこそ呼べないのだ。とはまあ、言えなかった。
「このファイルはどちらへ」
「ああ、そこの三段目、番号が振ってあるはずだから順番通りに」
並外れた身体能力、ほとんどの武器を使いこなしてしまう器用さ、それらが失われたとして、あの指揮能力と豊富な経験は書庫に眠らせておくには惜しいもののはずだ。なぜ彼がここにいるのか。あの事件の何が、彼を前線から完全に退かせたのだろうか。
「レイオット」
ファイルを運ぶ手を止めて、振り返る。
「ここまでで十分だ。午後は召集がかかってるだろう」
ルドベキアの咲いたような不思議な碧色の虹彩。
「詳しいんですね」
未練があるとか?
ルィエンがふと目をそらす。しまった、言うつもりはなかったのに。
「……そうだね」
「え」
「そうだね」?あると言ったのか、未練が。
「レイオット、僕は──」
続くであったろう言葉、それが突然切られる。どさどさと床に落ちる文書の山。脱力し、糸が切れたかのように倒れるルィエンの体。
「どうしたんですか?!」
慌てて駆け寄りすんでのところで彼を支える。魂の抜けたような肉体は想像以上に重く、なんとか頭は打たせずに済んだものの、重さに引っ張られて書架に自分の肩をぶつけてしまった。じんわりと体の芯を喰うような痛み。
「大丈夫ですか、隊長!」
咄嗟に出るのはその呼び方。もう彼は自分の上に立つ者ではないのに。
月海の光景が蘇る。銀糸蝗のむらがる隙間からのぞく生気のない肢体。赤黒い血と白砂に塗れ、力なく横たわるその体。これはもうだめかもしれないなあ、なんて頭をよぎるのに、敬愛する彼の死に際かもしれないのに、疲労した脳はどこか他人事のようにそれを処理する。
「隊長、終わりましたよ……帰りましょう」
自分の吐くその台詞も力ない。底をつきかけている力を振り絞り、銀糸蝗を追い払っていく。隊長は動かない。
もしや、これが彼の最期だろうか。それが認識の薄膜を突き破ってにわかに理解された時、私は半ば放心したようになって、気づけば地に伏せ、動かなくなった隊長の体を抱えて泣いていた。これが最期なら、その温もりの消えぬうちに触れたかった。届かぬ存在の彼が、真に触れられなくなる前に。そして全てを、言葉にならず慟哭と化した感情を伝えたかった。否、ただただ敬愛するその人を失うことが辛かったのかもしれない。
あの時、私は僅かな力と損傷した仮翼でどうしたのだったか。
「あ……はは、困ったな、またか」
ルィエンは笑った。ありがとうと言う声も、どこか繕っているようだった。
生きている。ほっとして弱く、ため息をつく。
「月海での事件以降たまにあるんだ、気にしないでくれ」
……相変わらずだ、この人は。できるわけがない。医師に相談はしたのかとか頻度はどれくらいなのかとか、聞きたいことが沢山出てきたが、それらをぐっと飲み込む。
「立てそうですか」
「ああ。すまない」
立ち上がるのに、手を貸す必要はなかった。ある程度まとまっていて良かった、なんて言いながら落ちた紙の束を拾い、仕分け直して、それからは隊長であった時から変わらない、いつも通りの彼だった。
ただ少し、あの気道の閉まるような冷たく苦しい思いが、私の底から戻ってきて私を緩く締め付けた、それだけだった。
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