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第2章 精霊条約書

魔道竜(第2章、13)

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「キ、キャアァーーーーーッ!!」



明かりの灯されていない、漆黒につつまれた一軒のあばら屋から、野をつんざく悲鳴がひびきわたった。



「逃げて!」



「……ぇ……でも………」



「いいから、早く!!」



「…は、はぃ!」


踵をかえしパッと闇夜のなかへ駆け出す女性。



セイラは刺客の隙をつき、闇よりも暗き【スモック(夜霧)】の呪文を唱え、彼女の姿をくらませた。


このスモックなる呪文は、目眩ましや遁走をはかりたい時に重宝する魔道の初期呪文のひとつ。

その名のとおり、一定時間内、黒い霧のようなものにつつまれるというもので、今夜のような暗闇のなかにあればより効果が発揮される。

これでひとまずは彼女の身の安全は確保されたようなものだ。

あとはただ彼女が安全な場所でじっと身をひそめ朝陽がのぼるのを待てばいい。

今晩を無事しのぎきることさえできれば彼女は邪蛇の呪いから解放されるはずだ。


「さて」


セイラは勝手口の前に立ちはだかるかのようにして仁王立ち、懐から短めの錫杖を取り出して前に構え、刺客に全神経を集中させる。



「…………」



気をたどると、拍子抜けするほど外にも内にも気配はたったお一人様のみ。


よほどの手練れ、かと思えば実はそうでもない。


呼吸の仕方も肩を上下させるほど荒く、気配さえもおしころすでもなく散漫で、対峙したときに感じられる相手方との力量の差においても何にも伝わってこない。

明かに手練れのそれとは雲泥の差。本職のかたに申し訳なくて顔向けできないほどお粗末すぎた。

 これが最凶最悪の邪神・邪蛇がよこした使いかと思うと残念な気もするが、邪蛇の真意は別として、これも刺客に違いない。

セイラは気を取り直して刺客を見据える。


「…………」


なぜ仕掛けてこないのか。ならば遠慮なく。


じりじりと、足下に散乱した障害物を慎重に避けながら前進。

隙あらば呪文はいつでも唱えられるよう心の準備はできている。


それは先ほど犯した失敗に起因する。


さっきは完全なる失態だった。


『そこでね、セルティガにティアヌの一喝がはいったのぅ』


などと、あばら家の女主人と軽い世間話などの談笑中、突如、部屋に乱入したのがこの刺客。


完全に気を抜いたオフ状態だった。気が動転して彼女を逃がすだけで手一杯だった。


本来ならば彼女とともにスモックにまぎれ、あばら家を脱出してもよかった。


だがセイラはそうしなかった。理由はいたって明朗簡単。


いくら談笑中とはいえ、ドアを開けられるまで侵入されたことにすら気づけなかった。それもずぶの素人相手に。


封印術をほどこし、現在最善と思われるありとあらゆる術を幾重にもほどこしてあるにもかかわらず、だ。


セイラとてそれなりに精霊召還術士として経験を積み、ティアヌほどではないが、そこそこのレベルだと自負していた。


傷つけられた自尊心から、腸が煮えくり返って仕方がない。


「さっきはずいぶんと派手に登場してくれたじゃないのさ。邪蛇のお使いがあなたにできて?」


返答はなかった。挑発にのってくるかと思いきや、予想外の無反応。

或いは図星なのか。


「あらあら、邪蛇はあなたにどんなご褒美をくれるのかしら、準備はできていて?」

邪蛇がくれるご褒美とはつまり"死"以外のなにものでもない。


それにしても、こんな素人に簡単突破されるような柔な術はほどこしはしない。


侵入経路はどこ? 


 ドア?  


それともいづれかの窓?


誰かが手引きした?



いや、考えるまでもなくどこからでも侵入可能なあばら家だ。みあげれば月と無数の星が見える。風もふきこみほうだいで。


これほど外壁から守られない家というのも珍しい。
頼りなくて、まるでパンツをはき忘れたような心もとなさ、不安感がある。


天井も外壁も破壊されたままで、外から中の様子をのぞき放題、侵入し放題。変態にとってこれほど親切な家はないだろう。



こんな安息をえられない家において、若い女性の一人暮らしというのは、何度考えたところでいささか不信感をおぼえるが、今はそれどころではなかった。


「……包丁?」


セイラは常人より夜目がきく。


刺客の手にしたエモノが包丁よりも異様に長い牛刀であることがわかる。


言わずと知れた肉切り包丁。しかも一頭まるまるさばくための大ぶりな包丁だった。


自身は、ほの白いゆったりとした上衣のようなものを羽織っており、膝丈まであるそれは、糊のききすぎにより刺客の動きにあわせてカサカサと音がする。パッと見、まるで医者か獣医。だがこんな粗雑で尊敬の欠片もない不法侵入者にはらう礼儀はセイラにはもちあわせていなかった。


きついお灸をすえてやろう、そう思って見据える。


ーーと、しだいに刺客の表情までもがくっきりと見えだす。


五十前後と思われる男性。調理人のかぶるコック帽のようなものを被り、膝丈の白い長靴をはいている。見るからに魔道の魔の字もかじったこともないような、どこにでもいるおじさん。


なぜ、調理人が?


と疑念が浮かべど、今は死闘をかけた闘いの場だ。
手加減など一切不要。


呪文をとなえようとして、、、、ふっと思いとどまった。


「?」


月明りを背にした刺客は、面妖にも苦悶にみちた表情にも見えた。



そこには迷いと葛藤がみてとれる。


が、その瞬間、ひゅんと振り下ろされる刃に、わずかばかりの殺意と狂気がいりまじるや、その後むやみやたらと当てずっぽうに振り下ろされる。


「……っと!?  」



それを錫杖で受け流しながら、すかさずテーブルの上のトレイをとり、楯がわりに敵にかざした。


カキィィィン!  金属音が鳴り響く。摩擦によって金属は不快な異音をたて、トレイをはねのける。



「ぁ」


トレイが足下に弾かれた。じん、として痛む手首。



力業なら負けない、というわけだ。


考えるまでもないが、華奢なデザインのトレイ。同族である金属製でありながら、用途も違うし鍛えあげられ方もまるで違う。研ぎ澄まされた刃に耐えられるはずもない。無惨に床に転がる姿はボコッと凹凸がきざまれ形も半円形に変形している。


なめてかかったら、やられる。



セイラは身をひるがえし刺客との間合いをとる。



しかしかわした先は暖炉の前だった。状況は悪化する。



チッ…と思わず舌打ちがもれる。



玄関と勝手口、どちらに移動しようにも刺客の横をかわさねば辿りつけない。



刺客の得物は、見るからに手入れの行きとどいた牛刀、その長さ、およそ三十cm。



振り回されればそれだけでもひとたまりもない。



セイラは小さな窓に目をやるが、ティアヌならともかく、大人の色香が隠しきれない妖艶なるセイラの体躯ではとても通り抜けられそうにない。



これで退路は絶たれたも同然だ。



悪条件ばかりがあいまって、使える魔法もかぎられてくる。


ゴーレムを一体、召還しでもすれば簡単にかたはつく。が、あばら家は廃墟と名をかえることになるだろう。ならば。


セイラは口の内で呪文を詠唱する。



「悪く思わないでくれ。こうしないと私の娘が今夜ニエにされてしまうんだ」


「!?」



刺客は黒光りする牛刀を頭上高くかかげる。


セイラは耳を疑った。



「……娘が……ニエ?」



あばら屋の女主人ではなく?



ジリジリと暖炉へと後退をよぎなくされるセイラ。



準備万端の魔法を発動させるばかり。



だが壁づたいに横にとびのく。



しかし刺客はそんなセイラの腕をムンズと鷲掴んだ。



つづけざま、柄をふりおろす。



「スマン!」



ドン…と鈍い音が聞こえた。



「…………ッ……!?」


にぶい音がしたあと、ズキズキと痛む後頭部。



セイラは、その場にくずおれる。



薄れゆく意識。



遠ざかる意識のむこうで、かすかに心からの謝罪の言葉を聞いた気がした。



""……本当にスマナイ……""



そこで完全にセイラの意識は途絶えた。



「怨んでくれるなよ」


そう呟いた刺客の切なる言葉はセイラの耳にとどくことはなかった。



やがて、ズルズルとセイラの体が運び出された。


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