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≪過去②≫
37 諦めろよ 前
しおりを挟む「しかし、さくらが人間と暮らすと聞いたときは驚いたなー」
「ただのなりゆきだよ。僕だって今も信じられないからね」
鳴海はしみじみとそう零した。
対するさくらの返事は素っ気ないが、特に気分を害している風もない。
むしろ、どことなくそわそわしているような口振りだ。
細かすぎる変化だが、鳴海にとっては非常に分かりやすい。
これはもっとその話題に触れて欲しいというさくらの無自覚のサインだ。
それを無視したり揶揄ったりするほど鳴海は意地悪ではない。
鳴海は悪魔視点からすると聖人に等しいほど優しい男なのだ。
あくまで悪魔視点という注釈はつくが、基本鳴海は大人な男である。
「で? 普段の生活はどうしてるんだ? 上手くやれてるか?」
鳴海としては性格に難のあるさくらが例の彼女に迷惑をかけていないかと軽く探るつもりの問いだった。
ゆとりを持って自由奔放にさくらを構ったり突き放したり甘やかしたりしていた自覚があるため、鳴海は自分の育て方が少しだけまずかったかもしれないとちょっぴり申し訳ないと思っている。
少しさくらをのびのびと育て過ぎたかもしれない、なんて。
ただ言い訳をするのなら、これでもさくらはかなりお行儀の良い常識的な淫魔である。
穏健派の鳴海の懐にいたこともあり、無暗に人をぶっ壊したりもしないし、少食で偏食の気はあるが下品な食べ方もしないし、食べ物を粗末にもしないのだから。
違法スレスレの隠れレストランとはいえ、人間社会にギリギリ紛れ込んで上手く下僕を使ってやりくりしている点を見ればその優秀さが分かると言うものだ。
もちろん全ては弟バカな鳴海の評だが。
そんなさくらに甘すぎる鳴海でも例の彼女には同情している。
自らの魔力を注いだこともあり、妙な親近感を抱いているせいもあった。
事故に遭った見ず知らずの人間に輸血をしてやったような、その後の安否が気になり、どうしてか他人事に思えなくなるような、そんな感覚だ。
もちろん、それ以外の理由もある。
(これはアレだな。『召使としてはまだまだだけど、まあまあ及第点だよ。僕って優しい』とかなんとか、そんな感じの天邪鬼…… いや、ツンデレというのか? とにかくそんな感じのあれみたいな話が続くんだろう。どうせ)
鳴海は内心で冷静にさくらの次の台詞を予想した。
なかなかに失礼なことを考えているが、鳴海に他意はないし、嫌味もない。
ただ、それを口に出さない分別のある大人なのだ。
「あまり、彼女に我儘や無理難題を言うなよ? 相手は人間だ。ゆっくりじわじわ追い込みたいなら慎重に優しく大事に接してやりなさい。人間は硝子細工よりも壊れやすいからな」
それでもついつい諭すような口調になるのは職業柄か。
それとも兄心か。
「なにそれ。まるで僕が日常的にあいつを困らせてるみたいじゃない」
怪訝そうな眼差しを鳴海に向けるさくらに、鳴海は曖昧な笑みを浮かべる。
なるほど、無自覚か。
これは相当手強いな、と失礼なことを心の中で呟いている鳴海に気づかず、さくらは眉間に皺を寄せて脚を組み替えた。
「人間が…… あの女が壊れやすいガラクタだってことは僕が一番よく分かってるよ」
さくらの視線が鳴海から外され、何もない宙に向けられる。
「すぐ壊れるくせに…… 本当、腹が立つぐらいに脆いくせに……」
どこか苛立つような、苦々し気な声に鳴海は内心で首を傾げる。
予想外の反応だ。
夢見るような飴色に艶めく琥珀の瞳が気のせいか今は暗く濁っているように見える。
頭が痛いとばかりに額に手を当て、さくらは俯いた。
無意識にさくらの口から零れた溜息に鳴海は首を傾げる。
「何かあったのか?」
「……」
鳴海の悪意も他意もない問いに、さくらは自嘲するように唇を歪ませた。
とにかく堂々と自身満々に生きて来たさくらには似合わない表情だ。
「あの女は僕を疲れさせる天才だ」
先ほどの、男を優先するけしからん奴隷に対するああだこうだの嫌味とは違い、疲れがどっと一気に押し寄せて来たようなさくらの低く擦れた声に鳴海は更に首を傾げた。
ちょい不細工寄りな角刈り黒光りマッチョの全裸男と疲れた顔すら色っぽく見える色白の美男が隣り合って座る様は今更ながら違和感しかない。
しかし、この場でまともに意識があり、意思疎通ができるのはこの半淫魔兄弟の二人だけだ。
鳴海の傍から見るとちょっとぞっとするような仕草に呻く者もいない。
「もう、とにかく面倒臭い。僕に迷惑をかけることに関しては本当に上手いよ。この前なんかね……」
*
さくらは愚痴った。
文香という女がやらかしたこと、そしてそれをフォローした自分の苦労を非常に不本意そうな顔で回想する。
人外のさくらの記憶力は凄まじく、その精度はとても高い。
「特にあの女に関することはよーく覚えてるよ。忘れたくても忘れられない。無駄に頭に残ってるから、本当イライラする」
鳴海はイライラと指で膝を叩くさくらを無言で見守った。
「最近だと、あれだ。真昼間の公園」
さくらはまるで目の前に巨大スクリーンがあるように宙を指し示す。
鳴海もなんとなくその指を追った。
さくらは語った。
あれは、無駄に日差しの強い夏の日だ。
日課となった奴隷の散歩に仕方なく、本当に仕方なく、その日もさくらは付き合ってやった。
「いい天気ね」
穏やかな話口調も最近では珍しくなくなってきた。
出会った当初の、あの冷たく激しい雷雨のような激情に染まった女と、さくらのために懸命に日傘を持とうとする女が同じとは俄かに信じられないぐらいだ。
そのくせ、さくらがもっとも堕としたいと思っている面倒なあれやそれはあの頃とまったく同じだ。
根となる性格や精神。
人外のさくら達にしか分からない、魂の色、形、匂い。
あれだけこねくり回して、蜜で煮立たせるようにとろとろにしてやっているのに。
女から香る精気は、未だ青く、清い。
そのことにさくらがどれだけ苛立ち、プライドを傷つけられ、煽られているのか。
ちっとも気づかず、自覚もない女に腹立たない方がおかしい。
「何?」
「……別に」
見下ろすさくらの視線に映る奴隷の横顔。
薄っすらと汗をかき、シャツに染みていく様をさくらはじろじろと眺めた。
その視線に気づいた奴隷が首を傾げる。
日傘がつられるように傾き、慌てて位置を元に戻そうとする女にさくらはいつものように鼻で嗤った。
その昔何を考えているのか分からない、いつも怒っているように見えると言われて落ち込んだことがあると目の前の奴隷が何かの話の最中にぽろっと零していたが、さくらはただ奴隷も含めその周囲の人間共が無駄に鈍感なだけだとしか思えなかった。
初めてその存在を知ったあの夜から、さくらの前にいる女は実に分かりやすく、
「間抜け面め」
そしてムカつくぐらいに不器用で、こんなにも分かりやすい。
実際にほとんど化粧もしていない今の奴隷の顔は出会った頃の他者を寄せ付けないように怜悧で知的な顔貌とは随分と印象が違う。
元々派手な化粧、派手な女は趣味ではないさくらからすれば悪くはない。
ただ、さくらが珍しくも、また少しだけ愛着が沸いて来た奴隷の白い肌がこの凶暴な日差しに焼かれるのが癪で、外出の際は必ず日焼け止めと日傘を持たせている。
しかし、当の奴隷は何を勘違いしたのか日傘をさくら専用のものだと勘違いし、こうしてわざわざ従者の真似をしていた。
そんな献身的な奴隷を見下しながら、さくらは内心で不満気に口を尖らせた。
さくらの美意識的にTシャツ姿の奴隷はNGだ。
初めて見るポニーテールはまあまあ評価してもいいが。
(うなじか……)
表には出さず、さくらはどうすれば目の前の間抜けな奴隷が見苦しく見えなくなるかを考えた。
全てはさくらの美意識のためだ。
誇り高きエリート淫魔(仮)の自分と同棲している奴隷がこんなダサくてイモくて質素な恰好をしていることが許せないだけである。
(やっぱりワンピースだな。色は白)
決して、目の前の奴隷に自分好みの白のワンピースを着せたいとか。
見たいとか思っていない。
「飲み物買って来るわ」
公園の入り口脇にある自動販売機を見つけて財布を取り出す奴隷をさくらは黙って見ていた。
勤勉な奴隷はもう既にさくらが何を飲みたいのか分かっている。
「熱中症になったら大変……」
そもそも人外のさくらが熱中症になると本気で思っているのか。
特に訂正するつもりはない。
さくらは真面目すぎて時々妙にズレたことをする奴隷を少しだけ楽しんでいた。
「待ってて、今買って来るから」
まめまめしい態度に、日傘を預けられたことをさくらは寛大に許してやることにした。
公園のベンチで近くのコンビニで買ったお菓子をつまんだり、こうして自販機で売られてる飲料水を飲んだり。
目的もなく、ただの散歩の合間に二人で空を眺めたりすることもある。
ムカつくぐらい平和だ。
「平和ね……」
そんなさくらの内心を知らないはずの文香の口からほっとしたような台詞が零れたとき、さくらはなんだか胸の辺りを掻きむしりたくなるような、それでいて撫でて宥めてやりたくなるような、妙な感じを抱いた。
「……相変わらず婆臭い」
そんな自分を誤魔化すようにさくらは奴隷が買って来た炭酸に口をつけた。
台詞もさることながら、奴隷が手に持つ緑茶缶が妙に似合っている。
「……」
「……」
妙な沈黙が続いた。
けど、嫌なものではない。
ただ、なんとなくさくらの尻の座りが悪くなるというか、もぞもぞしてしまうような落ち着かない感じがする。
対して人間の奴隷である女の顔色は変わらず、ただぼんやりと少しだけ太陽が雲に隠れて日差しが弱くなった空を見上げていた。
その横顔にまたさくらのイラッとポイントが溜まる。
イラっとした原因は分からない。
ただムカつく。
間違いなく隣りに座る奴隷のせいだし、それなら償ってもらわないといけない。
そう考えると先ほどのイラっとした感情がどんどん小さくなり、代わりにどうやって苛めてやろうかという悪趣味な想像が湧いて来る。
そんなことをさくらが考えていることなどもちろん知らない奴隷はお茶を啜りながら、ぼーっと空を見上げた。
自分の隣りに座る、真昼間の平和な公園にまったく溶け込んでいない美貌の男がじーっと木陰を見て「青姦…… 露出……」と呟いていることにも気づいていないぐらいにはぼーっとしている。
ベンチは日陰になっており、日傘は畳んであった。
遊具といえる遊具もなく、あるのは小さな砂場だけ。
それでも広場と呼べるぐらいには広い空き地があり、何組かの親子の姿が見える。
しばらくするとユニフォームを着こんだ少年達が騒がしく入って来た。
「……夏休みか」
ただの奴隷の独り言だ。
さくらはそんな呟きに近い奴隷の独り言を完全に捉えていたが、特に反応はしなかった。
「野球部かしら……」
さくらに話しかけている風でもなく、ぼんやりと独り言を呟く奴隷にまた何故かイラっとしたか、反応するのが癪でまた無視した。
さくらの頭の中で奴隷が嫌がりそうなこと、とても性的で厭らしいことが渦を巻いている。
奴隷が知れば悲鳴をあげそうなことばかり考えていた。
けど、当の奴隷はそれに気づかない。
「練習……?」
しかもその関心はさくらではなく視線の先にあるどこかの学校の野球部員達に寄せられている。
「……ここって、ボール禁止よね。注意した方がいいかしら」
青々とした天気と裏腹に、さくらの機嫌は急降下した。
ベンチから腰を半ば浮かせ、そわそわとキャッチボールを始めたらしい一団を見る奴隷に舌打ちしそうになる。
無視すればいいのに。
妙なところで真面目というか、無駄に正義感が強い。
面倒な女だ。
「君がわざわざ行く必要はないだろう」
「でも…… 小さい子もいるし。看板にもキャッチボール禁止って書いてあるわ」
さくらは思う。
この奴隷、この女は、やっぱり変わっていない。
さくらは知っているのだ。
一見、柔らかくとろとろにさくらの蜜に溺れている女がその実まったくちっとも柔らかくなっていないことを。
頑固で、真面目で。
無駄に正義感が強くて、倫理観が固い。
悪魔であるさくらとは決して相容れないくせに、妙に堕としたくなる、そんな女なのだ。
気づけばそんな女に一年近く振り回されている。
「……だからさぁ、」
すぐ行って、すぐ戻って来ると、今にも駆け出しそうな奴隷の腕を掴む。
「だから、君は行かなくていいから」
華奢な手首を掴み、さくらは本気で面倒臭そうに嘆息し、仕方なく腰を上げようとした。
(ああ、くそ……)
面倒くさい。
ああ、面倒くさい。
(なんで僕がこんな面倒なことしなくちゃいけないんだ)
本気で、なんて迷惑な女なんだ。
立ち上がろうとするさくらに気づきながら、その意図が分からず怪訝な表情を浮かべているところも含めて本気でムカつく。
そもそも夜が似合うさくらがわざわざ奴隷に付き合ってやっていることをもっと感謝してほしい。
(まぁ、散歩も飼い主の義務って言うし……)
内心でそんなことをぐちぐちと零していたさくらは今までまったく興味がなかったが、今この瞬間は心底苛立つ野球少年達を視界に収めようとした。
その瞬間。
「あ」
バットにボールが当たる音が長く甲高く響いた。
宙を見上げた奴隷の口からそんな間抜けな声が飛び出るのを聞いて、さくらも顔を上げる。
人外のさくらの視界に一気に色んなものが飛び込んで来た。
その全てを一瞬で処理する。
離れた所から焦ったように騒めく少年達。
さくらの隣りで目を丸く見開き、眩しそうに宙を見上げたまま間抜けな声を上げる奴隷。
ボールに気づいているくせに、ちっとも避けようとしない。
その瞳に野球ボールの影が映るのをさくらは見た。
それでも奴隷は咄嗟に目を閉じることも避けることもしない。
全ては、ほんの一瞬の出来事だ。
さくらはぼんやりとしたままその顔面にボールを受けようとする奴隷の姿を見て物凄くイラッとした。
俗にいう堪忍袋の緒が切れるというよりも、破裂したような。
「本当、ふざけてる」
その直後である。
平和な公園に似つかわしくない破裂音が轟いたのは。
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