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≪過去②≫
8 女って本当お喋りだよね
しおりを挟むその日一日文香は星田とのんびり部屋で過ごした。
もう二度とあの店には近寄らないことを約束させたが、果たして効果があるのかは分からない。
文香は犯罪にさえ手を染めなければ、他人のプライベートには基本的に寛容である。
寛容というよりも無関心だ。
星田の場合はあまりにも危なっかしく、見過ごすことができなかった。
ついつい口煩く、厳しいことを言ってしまう。
それに、どう見てもあの店は違法だろう。
風俗経営などまったく知らない文香だが、あの店の闇が深いことぐらいは分かる。
むしろ星田のようにあの危険な男に心酔していない分より冷静な目で見ることが出来た。
怪しい薬を使って客達を洗脳しているのではないか。
そんな不穏な想像すら浮かぶ。
文香もそれなりに悩んだが、結論はやはり変わらない。
「とにかく、もう二度とあの店に近寄っちゃダメよ?」
「……」
「星田さん? 返事は?」
「…………はーい」
いつの間にか床の上で正座する星田とそれにくどくどと説教する文香という図が出来上がっていた。
文香は本心から星田のことを心配している。
それが伝わるからこそ、口が達者で生意気な星田はもごもごと反論することもできず、最後は観念したように頷いた。
他の利用者と違い、星田はこれでもあの店への執着心、依存が低い方だ。
それはつまり、さくらからの関心が低いということだ。
もちろん今の星田も文香もそのことを知らない。
今の星田は痺れた足を揉み解したくて仕方がなかった。
険しい顔をした文香はそんな星田に不安を抱きながら、仕方なくその言葉を信じることにした。
そしてその後の二人はずっと一日中部屋で過ごした。
文香からすれば落ち着かなくなるぐらい怠惰な一日だ。
もう辞表届を出した星田は今後もしかしたら一生文香に会えなくなるかもしれないからと、何故か文香を勝手に着せ替え人形にし、普段の文香が絶対に着ないような服を着せたり、化粧をしたりして楽しんでいた。
無邪気な星田に絆され、文香は時折嫌がりつつも、基本的に星田のされるがままにじっとしていた。
星田に三つ編みされ、伊達眼鏡をかけられ、更にコスプレ用だというセーラー服を着せられたときは色々と心を削られたが。
爪を磨かれ、ネイルを施されたときは少しだけ子供の頃に戻ったようにわくわくした。
いい歳した社会人が、こうして一日部屋に籠って女の子遊びをしている。
普段の文香ならば呆れるだろうが、今の文香はそんな時間に癒されていた。
ゆったりと流れる時間。
このまま、全てを忘れてしまいたいと思った。
もちろん、そんなことはできない。
誰よりも現実から逃げたい文香が、誰よりも逃げたくなかった。
くだらないプライドが文香に逃げるなと吠えたてる。
その声に押されながら、昼を過ぎた辺りになって文香は漸くスマホを手に取った。
充電しすぎた機体は文香を責めるように熱くなっている。
もちろん、ただの錯覚だ。
案の定、大量の着信履歴とメールやアプリの知らせが来ている。
その全部が優が送って来たものだ。
留守電も含めて確認するのが億劫になるほどの数。
手始めに使い慣れたアプリを起動すれば、昨夜の優がいかにテンパり、文香のことを気にしていたのかが分かる。
連絡のない文香を心配し、今すぐにでも知り合いに片っ端から電話をかけて行きそうな優の様子に、文香はため息を零す前に短く素っ気ないメッセージを送った。
心配しなくてもいい。
ちゃんと寝たし、ご飯も食べたからと。
「……」
それよりも、優の方はどうだった?
と、続けて送りそうになった一文は削除した。
優を心配していることを知られたくなかったのだ。
それは文香の意地だった。
「……子供みたい」
返信した瞬間、すぐにアプリを消した。
一瞬で目に入った既読の文字を無視する。
速攻で帰って来た優からの返信を無視しようとする自分はどうしようもなく子供で弱い生き物に思えた。
ずっと優を子供っぽい男だと思っていたが、それは文香にも言えることなのかもしれない。
「旦那さんですかー?」
「っ……!?」
にょっと背後からスマホの画面を覗いて来る星田に文香は肩を震わせる。
「うわー…… すごい履歴…… え、ヤバくないですか? やばっ、こわっ…… キモっ!」
うぇーと気味が悪そうな口調と裏腹に、気になって仕方がないと言わんばかりに文香をキラキラと好奇心に満ちた目で見て来る星田。
「なんて書いてありました? やっぱり反省してるとか、許してくれとか、復縁を迫られる系ですか?」
わくわくとゴシップを楽しむような星田の言動に文香はそれほどイラつきはしなかった。
ただ、ほぼほぼ星田の予想通りの内容で全部を確認していない手前妙に落ち着かない。
全て見透かされているような気がした。
「……別に、大したことじゃないわ。ちゃんと寝れたのかとか、ご飯は食べたのかって…… そういう普通のことよ」
「ふーん。なんか、未練がましいですね」
出来れば星田といるときだけは優のことを忘れたかった。
優を知らない星田ならば文香を責めないだろうという安心感があったのかもしれない。
今の星田は確かに文香を慕ってくれている。
だが、文香は知っているのだ。
どれだけ親しくしていた人も、いざ優を知ると途端にあの人の好さそうな、陽だまりのようなオーラに、温厚な性格に惹かれていくのだと。
学生の頃から、社会人になった今でも。
文香はずっと優に敵わない。
人間力の差、人望の差といえばそれまでだ。
もう既に諦めた。
どうあっても、結局文香は優に釣り合わない。
周囲の人々と、何よりも文香自身一番そのことにコンプレックスを抱いている。
「先輩の旦那さんって、ちょっと怖いですね」
ぽつんと呟いた星田の一言は悶々と悩める文香の耳には入らなかった。
「ちょっとっていうか…… 結構ガチでヤバそう」
*
しばらく別居して冷却期間を置くつもりだという文香に星田は不満気に顔を顰めた。
「えー? それって別れないってことですか? ふみちゃん先輩ならスッパリキッパリ浮気した糞男なんて見限って捨てちゃうと思ってました」
「何、そのイメージ……」
「だって、先輩って潔癖でしょ?」
星田の中で一体自分はどんなイメージなのかと悩む暇もなく、星田はどこか無垢ともいえる真っ直ぐな目で文香を見つめる。
「先輩が家出するほどってことは、誤解でもなんでもなく、マジもんの浮気だったってことでしょう? 優しくてイケメン、素敵な旦那さんだって評判は聞きましたけど。誠実そうな印象を裏切って、先輩を騙してたってことじゃないですか? 誠実どころか、そんな糞みたいな男、真面目な先輩には似合わないですよ」
星田の話を否定しようと思った。
だが、不思議と文香の口はからからに乾き、何を言えばいいのか分からなかった。
これでは、星田の話を肯定しているみたいだ。
そもそも、否定できる要素が見つからない。
「先輩はまだその旦那さんのことが好きっぽいですけど、ぶっちゃけ言いますよ? その旦那さん、先輩に似合わないです。つり合っていないです。浮気するような男に先輩はもったいないです」
断定するように言う星田に文香は本気で戸惑った。
文香が想定する彼女の知り合い達なら絶対に言わないことを星田は堂々と捲し立てる。
完全に止めるタイミングを見逃してしまった。
「先輩、なんだかんだまだ若いし、美人だし。まぁ、色気なくてモテないですけど、それでも美人だし。とっとと次の男に行きましょう? 浮気されても、されまくっても健気に尽くす系のイケメンもこの世にいるんですから。そういう便利な彼氏、忠犬系な男を捕まえましょう? まあ、先輩はなんでかモテないから前途多難かもしれませんけど。でも美人だし」
「……所々で褒めてるんだか貶してるんだか分からないんだけど」
「やだなぁ、褒めてますよ~ もう、気楽に考えましょうよ~ 今時バツイチなんて珍しくないんですから。もう思い切って離婚してやればいいんです! 先輩、意外と甘いところあるから、旦那さん甘えてるんですよ。そんな男は捨てましょう」
やたらと離婚を勧めて来る星田に文香は怪訝な表情を浮かべる。
理由を聞けば星田は悪気もなく笑顔で言い切った。
「だって、離婚した方がスッキリするじゃないですか? 先輩じゃなくて、私が」
「すっきり……?」
「はい。全然仲良くなくて、どうでもいい奴なら勝手に悩んで苦しんでれば?ってなるんですけど。先輩のことは好きですし。その先輩が浮気されて、別れずに我慢しているんだと思うともやもやするんですよね~ 傍から見たら浮気するような男はもう二度と信用できないのに。先輩、仕事もしてるし、給料も結構貰ってるじゃないですか? そんな浮気男に尽くす必要ないですよ。まだ二十代なんですから、もっと自分の人生をエンジョイした方が絶対にいいですよ!」
「……」
「もったいないですよ~ わざわざ気持ち押し殺して人生を棒に振るなんて~ 見ててモヤモヤするどころかイライラします」
星田の幼稚ともいえる言い分に文香はなんだかおかしくなった。
誰かと話をしていて、こんな風に心が軽くなって行くのは初めてだ。
何一つ問題は解決されていないのに、星田が好き勝手言ってくれるだけで文香の悶々とした気持ちが晴れていく。
きっと、文香はこんな風に誰かに肯定してほしかったのだ。
誰かに、第三者に優を批難してほしかった。
それは決して綺麗な感情ではないが、そうしなければ文香はきっと独りで自分を責めた。
あの優が浮気するなんて。
もしかしたら、文香に何か落ち度があったのではないか。
優の心が離れていく原因は文香にあるのではないか。
そんな風に、きっと遅かれ早かれ自分を責めていただろう。
だからこそ、星田の素直で明け透けな意見は新鮮で、安心できた。
もちろん、星田が優を知らず、一方的に文香の話を聞いているため客観性は薄いのかもしれない。
「えー? 確かに私、先輩が浮気されたってことしか知りませんけど。でも浮気された方に何か原因があるってただの言い訳ですよ」
きっぱりと、星田は文香が驚くほどきっぱり断言する。
「浮気経験者の自分が言うのもなんですけど、なんか嫌になったなら浮気しないでさっさと別れちゃえばいいんですよ。そうしたら自由に堂々と他の奴とヤれるじゃないですか~」
「そういうものかしら……」
「そういうものです。だって、私、特に深刻に悩んで浮気してませんもん。あ、でも彼氏と喧嘩したーって悩み相談と称して男を漁ったりはしますよ~」
「……」
「頼られる系シチュに弱いんですよ。男って」
馬鹿ですよね~とけらけら笑う星田に文香はどう返せばいいのか分からなかった。
夫に浮気されて悩んでいる自分によく臆面もなくそういうことが言えるなと感心するべきか呆れるべきか怒るべきか。
「浮気したってことは相手がいるってことですもんね~ 旦那さん、優しいって話が本当なら私みたいな女に騙されたんじゃないですか~? やめましょうよ、そんな馬鹿みたいな男は」
「それは、分からないけど……」
文香の胸に苦い感情が蘇る。
初めて見た夫の浮気相手、不倫相手は女の文香から見てもとても可憐で儚く美しかった。
いかにも弱弱しそうな彼女がどういう経緯で優と関係を持ったのか。
寂しかったのだと、そう囁く彼女の声が今でも文香の耳に残っている。
そして、冷静さを欠いて、感情的になった自分の言動を思い出し、文香はぎゅっと唇を噛んだ。
あのときの自分はどうかしていた。
決して言ってはいけないことを、言ってしまった。
あんなのが自分の本音だと思うと、自己嫌悪でどうにかなりそうだ。
「そんな男、優しいんじゃなくて、ただ調子がいいだけじゃないですか。八方美人の男とかキモイだけですよ」
そんな文香の心境を、いざこざを知らない星田には遠慮がなかった。
「浮気して苦悩してるって奴は、そういうのが楽しくて興奮して仕方がないだけですよ。そこまで自分に酔える奴なんて気持ち悪いじゃないですか? 先輩の旦那さんがそうかは知りませんけど、相手の女はそっち系かもしれませんよ?」
星田は悪戯っぽく文香を脅す。
「バレたってことは、浮気相手と別れたってことですもんね。気を付けた方がいいですよ? 彼女持ちならまだしも、結婚してる男と付き合うような女は何するか分かりませんから。先輩に逆恨みしてるかも」
「逆恨み……?」
文香は記憶の中の優の不倫相手、渡辺志穂を思い出す。
今にも消えそうなほど、俯いていた彼女。
自分がいけないのだと、優は悪くないと、ひたすら自分自身を責めていた彼女を思い出すだけで負の感情が湧き上がる。
だが、あんな硝子細工のような繊細そうな彼女が文香を恨み、誰かを憎む姿は想像できなかった。
「既婚の男と浮気できるような女ですよ? 神経図太くないとできませんもん。自論ですけど、そういう女ほど妄想が激しくて、都合のいいことしか考えてないんですから~」
しみじみと語る星田に、彼女の過去に一体何があったのかと問いただしたくなった。
経験則だと、自分を含めた友人達の過去の修羅場の数々を思い出しているらしい星田に文香はどう反応すればいいのか分からない。
だから、あまり真剣に聞いてはいなかった。
「逆恨みで、後ろからずどんって刺されるかも」
星田も、きっと冗談で言ったのだろう。
実際に文香は別に刺されてはいない。
刺された方が、むしろマシだった。
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