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≪過去①≫
21 そして、屍を殺した
しおりを挟む連休明けの会社はどこかざわついていた。
楽しそうな、或いは興奮した社員の会話が耳を素通りしていく。
今の優には別世界の出来事にしか思えず、まったく関心も抱かなかった。
だから優は同僚に声をかけられるまで気づかなかった。
「おいっ、香山! 聞いたか? 渡辺さんが辞めたって話!」
「…………え?」
「何、ぼけっとしてんだよ? 大ニュースじゃん! ああ~、俺ファンだったのに、せっかくの癒しが…… ちくしょー、家庭の事情がどうとかって、やっぱ人妻に夢持っちゃ駄目なのかな……」
志穂が、会社を辞めた。
ざわざわと優の心が騒ぐ。
そして頭の片隅で納得する自分もいた。
あの恭一が今まで通り志穂をこの会社で働かせるわけがない。
常識的に考えても、それが当たり前の選択だ。
志穂のデスクに物が無くなっていることに、他の社員はすぐに気づいた。
なのに、優はまったく無関心だった。
文香のいない朝に戸惑い、憂い、そのことばかりを考えていた。
なんて、自分は薄情だろうと思った。
あの後、志穂がどうなたのか、まったく考えていなかった自分が。
空っぽのデスクを見て、漸く優は志穂に罪悪感を抱いた。
「でさ、表向きは家庭の事情って理由らしいけど…… どうやらうちの女子の何人かが実は渡辺さんを苛めてたんじゃないかって、上でちょっと揉めてるらしいぜ?」
「……それ、誰が言ってたんだ?」
「え? いや、噂の出どころは知らないけど……」
優は同僚の話にありえないと心の中で首を振る。
上司に頼まれ、優は会社で志穂やその周りを注意深く見ていた。
志穂に敵意を持つ女性陣の顔も把握していたし、この所の忙しさで彼女達が志穂に構う余裕もなかったのを知っている。
(誰が、そんな噂を……)
そして、同僚の話通り、優が密かに監視していた志穂に悪意を持つ何人かの女性社員が上司に呼び出されて行った。
優はてっきり自分も呼ばれると思った。
志穂の世話枠兼監視役を任されたのに、こんな結果に終わったのだ。
叱責は覚悟の上だったが、一向に呼ばれる気配がない。
自分から上司のもとへ出向けば、どこかくたびれた顔で一瞥された。
「ああ、渡辺のことか。気にするな、元々社会見学、お遊び気分でうちに来たようなものだ。むしろ、勝手な都合で辞めたことに向こうの方が頭を下げてな。案外、これで一つ貸しが出来たと上の連中も喜んでいる」
「そう、ですか……」
「……まぁ、厄介な置き土産は残されたが」
相当疲れているのか、首を回しながら高橋は優を見た。
「さすがに、あの忙しい中じゃ、俺もお前も全部に気が回らん。学生じゃあるまいに、女がこそこそ裏で何かしているなんて…… こっちは構ってられんよ」
意味深な愚痴に、優は曖昧に頷くほかなかった。
高橋に呼び出された女性社員数人が顔色を悪くしているのを見ても、優はそれほど関心を寄せなかった。
確かに彼女達の志穂に対する態度は感心できないし、嫌悪感すら湧く。
それでも、優と志穂の関係が始まった頃から優はごく自然に彼女達を志穂から離し、その悪意が届かないようにさせていた。
自然と彼女達の志穂への興味も減ったのを知っている。
志穂が辞めた原因とは無関係なのだから疑いも晴れるだろうと思った。
それよりも優が気になったのは、何故自分が何のお咎めもなくこうして普通に働いているかだ。
恭一が会社に志穂との不倫関係を告発しなかった。
それがとても意外であり、会社に来るまでそのことに危機感も抱かなかった自分の間抜け加減に溜息も出ない。
今の優は罰として解雇された方が気持ち的に楽だとも思った。
志穂の匂いが多く残る会社は優にとってひどく居心地の悪いものとなったせいもある。
優は無意識に罰を求めていた。
優を知る誰もが優を責めず、親し気にいつも通りに接する。
罪人には相応しくない生温さの中、優は息をすることすら苦しかった。
自分から、全て暴露したい願望さえあった。
(文香……)
それでも優が自暴自棄にならなかったのは、文香にこれ以上軽蔑されたくなかったからだ。
別離の間、優は再び文香に相応しい男になれるように努力しなければならない。
居心地が悪いから会社を辞めたいなど、死んでも言ってはならないのだ。
(文香、俺…… 頑張るから)
何を頑張ればいいのか分からない。
再び文香に会うとき、夫として会うとき、優は恥ずかしくない姿でいたかった。
それでも、誰も出迎えてくれない我が家に帰るのは苦しかった。
独りの我が家がこんなにも広く、寒いものなのだと優は初めて知った。
文香はずっと、こうして独りで優を待っていたのか。
優の裏切りを知った後は、どんな気持ちで孤独に耐えていたのだろうか。
文香の気持ちを考えただけで、優は罪悪感で吐きそうになる。
自分を殴り殺したくなる。
そんな中で食欲など湧くはずもない。
学生の頃に戻ったような旺盛な食欲も一気に枯れ、どんな料理を見ても美味しいとも、食べる必要があるとも思えなかった。
それでも、きっちり三食ご飯を食べ、睡眠もよくとるようにと文香は優に約束させた。
それと、寝坊は絶対にするなと言われたことを思い出し、優は少しだけ心が温かくなった。
どこまでも文香は文香だった。
今の優の唯一の心の拠り所は、夜のほんの一、二分の文香との電話だ。
それは優が必死にお願いしたものだ。
いくら別居したとはいえ、なんの音沙汰もないのは気が引けた文香はそれを了承してくれた。
『……もしもし、優? そっちは、どう?』
「……変わらないよ、いつも通り。今、飯食ってる」
「何、食べてるの? ちゃんと野菜摂ってる?」
「う、うん…… えと、カレー食ってる、さ、サラダも、作ったから……!」
初めは緊張してなんの話もできなかったが、今は少しだけ嘘をつくことができるようになった。
いけないことだと知りながらも、優は伸びて不味くなったカップラーメンをぐちゃぐちゃと箸で掻き回した。
文香にバレていないかとドキドキしながらも、心の中でバレて欲しいとも思った。
少しだけ叱って欲しかった。
『そう、よかった』
ほっとしたような声色に優の目の奥が熱くなる。
最近の優は涙腺が緩い。
文香の声を聞くだけではなく、文香の残り香を感じるだけで込み上げるものがあった。
(好きだ……)
文香が好きだ。
優は文香が好きで好きで仕方がなかった。
『……優?』
何も言わず黙っている優の耳に伝わる文香の声は優しかった。
文香を裏切った優を、それでも捨てきれずに心配する文香が愛しくて堪らなかった。
「ふみか…… 好きだ」
『……』
「……こんなこと、言うのは卑怯だって分かってる、でも…… 好きなんだよ」
『…………』
文香の呼吸音だけが聞こえる。
心臓の音が煩すぎて、文香の声が聞こえなくなるのではないかと優は心配した。
『……ごめん』
それが何に対する謝罪か、優には判別することができなかった。
もしかしたら文香もよく分かってないのかもしれない。
「……いや、俺の方こそ、ごめん」
謝るなと言っていた文香のことを思い出し、咄嗟に口を手で塞ぐがもう遅かった。
文香はそれに気づかないふりをした。
『……睡眠は、ちゃんととってね』
「……うん」
『アラームのセット、忘れないで…… 朝、弱いんだから』
「……うん」
母親みたいな小言を言う文香に返す優の声に湿り気が帯びる。
文香がそれに気づかないはずがない。
『……おやすみなさい』
それが二人の会話の終了の合図だ。
*
よく寝るようにと言った文香の言葉とは裏腹に、優は眠るという行為に対して苦手意識を持つようになった。
文香の匂いも消えてしまった寝室。
独りでベッドを使う虚しさもあったが、それよりももっと嫌なことがあった。
夢を見るのだ。
誰かが言った。
夢とはその人の深層心理だと。
優は文香の夢を見る。
だが、それはとても良い夢とはいえなかった。
夢の中の文香はいつも哀し気で、とても寂しそうに、ときには泣いている。
優はそんな文香に触れたくて、横たわるその身体を抱き締めたくて堪らないのに触れることができない。
それならせめて、声をかけたい。
文香の声が聴きたい。
悲しませて、ごめん。
それでも好きだ、愛してる。
どうか、許してくれ。
もう一度、俺を見てくれ。
伝えたいことがたくさんあるのに、まるで溢れ出て来る自分の想いに溺れるように優は何も言うことができなくなる。
ただ、苦しかった。
きっと、覚悟が足りないのだ。
本当の意味で文香と一生を添い遂げる覚悟が。
そして、ゆっくりと眠りにつく文香を見守った後、優は何度も決意した。
もう、文香を哀しませないように。
優の全部を文香にあげたい。
優は文香だけのものだと、身も心も魂も人生も全部あげたかった。
いや、あげるなんてあまりにも押しつけがましい。
優は受け取って欲しかった。
自分の、自分だけの誠意を。
そう、決意した途端、もう一人の優が嘲る。
「お前に、それができるのか?」
* *
そして目覚めたとき、優は自己嫌悪で叫びそうになるのだ。
自分の下半身のどろどろとした感触と匂い。
こんな歳になって夢精を繰り返す自分に呆れたのではない。
(なんで、なんで…… 俺は……!)
夢の中ですら文香を裏切り続ける自分に絶望する。
(どうして、志穂の夢を見るんだよ……っ)
文香の夢を見た後。
決まって優は志穂の夢を見る。
夢の中で彼女を激しく、抱く夢を。
(俺は文香が、文香が好きなはずだ…… なら、なんで……)
これが、自分の深層心理なのか。
自分が求めていることなのか。
冷たいシャワーをどんなに浴びても、優の頭が晴れることはなかった。
誰にもこんなこと言えない。
相談する相手がいないことがより一層優を追い詰めた。
どうしても、夢の中で志穂を抱くことを止めることができなかった。
志穂が嬉しそうに自分に手を伸ばす。
それだけで優は彼女が欲しくて堪らなくなる。
もう一人の自分がそんな自分に囁くのだ。
仕方がない。
だって、お前には志穂が必要なんだから。
(違う、俺が…… 俺が必要なのは、文香だ)
だがいくら目覚めた優が夢の中の自分を否定したところで、志穂を抱いた夢を忘れることができない。
志穂の夢を見れば見るほど、もう一度だけ、せめて後一回だけ、志穂に会ってその華奢な身体を貪り抱きたいと思う自分がいる。
分からなかった。
理性と本能が優の中で鬩ぎ合い、優は自分の気持ちが分からなくなった。
出会ってから文香とこんなに離れたのは初めてだ。
文香の気配が、残り香がどんどん消えていく。
代わりに無意識に志穂のことを考える時間が増えていく。
愛と恋は違うと言う。
自分は文香を愛し、そして志穂を恋しく思っているのか?
様々なことを考えた。
でも正解が分からず、そんな揺れ動く自分の心理がまったく理解できず優はひたすら苦しんだ。
苦しみながら、夢の中で志穂を抱き続けた。
夢と現実の境目が分からなくなるほど。
だから、優はこれも夢だと思った。
家の玄関先に立つ志穂を夢だと思った。
* * *
夢の中で何度も会った、抱いた志穂は相変わらず儚く美しかった。
その白い肌が月のように淡く光っているように優には見えた。
「お願い、最後だけ、私を抱いて…… 優君」
自分の胸の中に飛び込む志穂を。
文香との寝室のベッドに横たわる志穂を夢だと思った。
現実感がまったくなかった。
鼻腔を擽る志穂の甘ったるい匂いに陶酔感で満たされる。
「私が愛しているのは、貴方だけ」
例え夢でも、ここで抱くのはいけないと必死に止める自分がいる。
ここは、優と文香の、夫婦の家だ。
その寝室で、こんなことをしてはいけない。
だが、一方で、これが最後なのだと拒絶できない自分がいる。
志穂を抱く、最後のチャンスなのだと狂喜する自分がいるのだ。
「ずっと、言えなかったけど…… 私ね、優君の、子供が欲しかったの」
ぽろっと涙を零す志穂に誘われるように。
そして夢の中の自分が煩く叫ぶ。
我慢なんてするな。
仕方がないだろう。
今後ずっと文香を愛するためにも、これはお前に必要なことだ。
これで最後なんだ。
後はずっと文香を愛して、大事にしよう。
今は仕方がない。
本能なんだ。
割り切って、楽しめ。
「愛してる。私の全部を、優君に捧げたいの」
なら、有難く貰っちまえ。
それはまさに悪魔の誘惑だ。
これは裏切りだと拒絶する自分がいる一方で、どうせ夢なのだからと受け入れようとする自分がいる。
後に目が覚めたとき。
優は後悔して後悔して、死にたくなると分かっていた。
だが、抗えなかった。
志穂を抱くことこそが自分に課せられた使命だと、運命だと思ったからだ。
優は志穂を貪った。
何もかも忘れて、ただ目の前の甘い肢体の全てを味わい尽くそうとした。
* * * *
そして。
「……何、してるの?」
文香の声が耳に入ったときにはもう遅かった。
気づけば優は、夫婦の寝室で志穂を抱いていた。
志穂が果て、優が何度目かの射精をした後のことだった。
灯りのついていない暗い寝室。
今だ振動するベッドのスプリング。
吐き気を催す性交の匂い。
甘い鳴き声をあげる志穂の汗に塗れた白い裸体。
息を整えることもできないまま、優は呆然と寝室の扉の前で佇む文香を見た。
絶望に揺らめく文香の目を、優は忘れることなどできなかった。
きっと、永遠に。
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