奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去①≫

12 こんな嘘をつく日が来るなんて思わなかった

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 終電を逃し、同僚の家に泊まったという優の話を文香はまったく疑わなかった。
 不満があるとすれば体調が良くないのに飲みに行った優に対するどうしようもない苛立ちと心配、日付がとっくに変わり陽が昇りかけた頃になってから漸く連絡して来たことぐらいだ。

 簡単な夕飯と昨夜の残り物にラップをかけ、風呂から上がった文香は優の帰りをリビングで一晩中待った。
 連日の疲れが溜まり、ついテーブルに頬杖をつきながら寝てしまった文香はスマホの着信音で目が覚めた。
 慌てて電話に出るとやけに擦れた男の声に出て来て、文香は一瞬誰か分からなかった。

『……文香? もう、起きてたのか……?』
「……優? どうしたの? ずっと、連絡も寄越さないで!」

 素直に心配していたとは言えず、つい怒りっぽくなってしまう自分の素直じゃない台詞に文香は内心で焦った。

『……ごめん』

 優らしくない静かすぎる声に文香は違和感を覚えた。

「具合でも悪いの? 風邪ひいた? 声が擦れて苦しそうだけど……」
『……そ、うか? 起き抜けだからかな。飲み過ぎて、喉乾いてるからさ……』
「……馬鹿じゃないの? お酒弱いくせに、無理して飲むから」
『……悪い』
「もう……! せめて昨日の内に連絡ぐらいしてよ。夕飯も作っちゃったし」

 なんとなく、落ち込んでいるようにも聞こえる優の声に文香の怒りは少しずつ薄れていく。
 弱弱しい優に対する呆れた言葉とは裏腹に文香の浮かべる表情はどこか甘いものだ。

「……ちょっとだけ、心配したんだから」

 どこか困ったように笑う文香に電話向こうの優は言葉を詰まらせた。

『…………』
「……もしもし? 優?」

 突然の沈黙に文香は怪訝な表情を浮かべる。 

『……あのさ、文香、俺…… 俺……、』
「……?」

 優は何を言いかけようとした。
 長い間が空いた。
 横槍を入れることもなく、文香は優の言葉を待った。

『…………いや、なんでもないよ』
「は……?」

 だが、結局優は何も言わなかった。
 どこかぼうっとしたような、心ここにあらずな声に文香の胸に微かな不安が過ぎる。

「……何それ。まだ酔いが残っているんじゃないの? ちゃんと薬飲んだ?」
『ああ、大丈夫だから…… 心配してくれて、ありがとう』

 二日酔いなのか、明らかに元気のない優に文香はついもう一言二言何か言おうと思ったが、まだ記憶に新しい優との諍いを思い出してしまった。

「……もういい歳なんだから、気を付けてよ」
『……うん』
「分かってるなら、いいけど……」

 優の顔が見えないせいか、なんとも会話がぎこちない。
 今日はもう帰らないのだろう。
 そのまま同僚の家から出勤するという優に文香はついテーブルの上に並べられたままのラップをしたままの皿を見た。

(朝食にするしかないっか……)

 優のためにおかずの量を多く作り過ぎてしまった。
 食事にそこまでの楽しさを見いだせない文香はげんなりする。

「もう、こんなだらしのないことはしないでね。昨日と同じスーツで出勤なんてみっともないんだから。シャツと下着とネクタイはコンビニでちゃんと新しいのを買ってよ?」

 結局、煩く小言しか言えない自分に呆れる。
 これでは妻というよりも母親だ。

『……うん、うん。分かった、ありがとう』

 文香の小言に優は律儀に一つ一つ返事をする。
 少しずつ、調子が戻ってきていると文香は思った。
 強張り擦れた優の声が先ほどよりも柔らかくなっている気がした。

 そのことに文香は意外なほどほっとした。
 いつの間にか自分が優との会話で緊張していたことに文香は気づいた。
 優の様子が変だからつい調子が狂うのだと心の中で言い訳をする。
 それが一気に解け、文香は苦笑いしながらそろそろ電話を切ることにした。
 名残惜しかったが、会社の同僚の家に泊まっているのならこんな時間に長電話するのはあまり良くないだろう。

 文香に他意はなかった。
 
「泊めてもらったの人に、ちゃんとお礼言ってね?」

 文香はただ優の言葉をそのまま受け入れただけなのだ。
 何一つ疑わず。

『……………………』
「……もしもし? ねぇ、優? ゆーう?」

 だから、突然黙りこくった優に文香はただ困惑した。

『……ああ、わかっ、た』

 文香の呼びかけに漸く返事した優の声はとてもか細く聞こえた。

『ごめん、文香』

 そう言って、優は電話を切った。
 会話の流れとしては少し強引な終わりに思えたが、電話を切られた途端に急に寒気を実感した文香はくしゃみをした。
 
 パジャマだけでリビングに寝てたからだ。
 しかも髪も乾かさずに。
 そのまま乾いたせいで変な寝ぐせがついてしまった髪の毛を見て文香はため息を吐き出した。
 濡れた髪をそのまま放置する優に何度も注意していた身として少し情けなかった。

 寒さで震える身体を抱き締め、時計を見て文香はもうひと眠りしようと思ったが、きっとあまり寝れないだろうとも思った。

 優のいないベッドは広すぎる。
 つい寂しくなるぐらいに。

 
 くしゃみがまた出た。
 これで本日二回目だ。

「風邪、ひいたかな……」

 先に風邪薬を用意した方がいいかもしれない。
 気だるい身体を引きずりながら文香は薬箱を探し始めた。
 ついでに優のために二日酔いの薬も出しておこうと思いながら。






 真っ暗になったスマホの画面に目を落しながら、優はひどく虚ろな顔で座り込んだままじっとしていた。
 ホテルの一室に漂う事後特有の匂い。
 ぐちゃぐちゃに乱れて汚れたシーツ。
 そして、静かなシャワー音が今途切れた。

「……大丈夫だった?」

 優以上に擦れ、痛々しい声。
 気遣う様に、志穂はバスタオルを羽織ったまま、ゆっくりと近づいて来た。

「電話…… 奥さんと、ちゃんとお話、できたの……?」

 優の顔に苦悩が滲み、なるべく志穂の姿を見たくないのか、不自然なほど視線を向けない。
 志穂の濡れた髪からぽつぽつと水滴が落ちる。
 優のそっけない態度に傷ついた志穂は、その水滴の跡を見て、まるで自分の心が泣いているように思えた。

「……ゆ、うくん」

 恐る恐ると腕を伸ばし、何か言おうと唇を戦慄かせる志穂は立つのもやっとなほど下半身を中心に全身が気だるく、そしてなんともいえない満足感にかつてないほど艶めかしく肌が潤んでいた。
 だが、昨夜の激しすぎる行為のせいか、志穂は腰から力が抜けたようにその場にへたり込んでしまう。

「志穂……!?」

 バスタオルが解けそうになり、志穂は慌てて胸元に引き寄せた。

「志穂、大丈夫か……?」
「優、君」

 急に倒れたように見える志穂を無視することなど優にはできなかった。
 小柄で華奢な志穂は余計に弱弱しく見える。
 どこか怪我をしていないかと確認する優に、志穂は薄っすらと目を潤ませてはにかんだ。

「やっぱり…… 優君は優しいね」

 その言葉に、優の顔は途端に強張る。
 そして少し冷静になってから視界に映る志穂のどこか気だるくも艶めかしい姿に目を逸らした。
 バスタオルで隠しただけの無防備な肢体を優は一晩中貪ったのだ。

「俺は、優しくなんてない…… 最低な、男だよ」
「……どうして、そんなこと言うの? 優君は何も悪くないよっ、私が、私が無理矢理…… 迫ったから……」

 自嘲する優を志穂は必死に慰めようとした。
 全ては優を誘惑した自分がいけないのだと、バスタオルが床に落ちて胸や下腹部が見えるのも構わず、志穂は懸命に優に縋り付く。

「全部、私がいけないの…… 私が、弱いから、優しい優君につい甘えてしまって…… いけない事だって、分かってるのに……」
「……志穂」
「……奥さんに、…… 私、優君と奥さんに、本当に申し訳ないことをしたって…… 思ってる」

 自分のせいで、自分のために善良で愛妻家の優が妻に嘘をついた。
 罪悪感に打ちひしがれるかのように目を潤ます志穂の目に映った優はひどく顔色が悪く、それでいていつも以上に逞しく精悍に見える。
 それだけ二人の情交は罪深く、堪らなく気持ち良かったのだ。
 二人ともあんな激しく情熱的な夜は初めてだった。
 恋か、罪の意識か、とにかく信じられないほど二人は燃え上がり淫らに快楽に溺れたのだ。

 思い出すだけで志穂の下半身がまた濡れそうになる。
 あんなに荒々しい行為だったのに、志穂の身体は不思議と気だるさ以外の痛みや後遺症はなかった。

「どんなに謝っても、許されないって分かってる…… でも、……私は、何一つ、後悔していない」

 上半身裸の優に志穂はそっともたれる。
 汗とそれ以外の色んな匂いが混ざった優の身体。
 どんな香水よりも志穂には好ましく魅力的に思える。
 この、立派な腕で、厚い胸に自分は強引に激しく抱かれ、全てを暴かれて奪われたのだと思うと、堪らない。
 濃厚すぎる記憶が蘇り、つい、艶めかしい吐息が零れてしまう。
 志穂の甘やかな息が伝染したように、優もまた思い出していた。
 互いの鼻腔を擽る匂い。
 ひどく、甘く、そして生々しい匂いはより鮮明に記憶を蘇らせる。

「……優君は、後悔してる?」

 強張ったままの優の身体を労わるように、志穂はそっとその腕に手を滑らせる。
 どこか無邪気な仕草だ。

「……分からない」

 答える優の声には深い苦悩が滲んでおり、志穂は顔を曇らせた。

「……最低なことをしたって、許されないって、分かってるんだ。志穂との関係はもう終わらせるべきだって。ただの同僚に戻らなきゃ、文香に、妻に申し訳ないって…… 昨日、ずっと思ってた」
「……優君」
「でも…… 志穂の声を聞いたら、顔を見たら…… どうしようもなく、まだ惹かれているんだって気づかされた。志穂の泣いている姿を見て、守りたいって思ったし、心の底から志穂を傷つける旦那に、怒りが湧いたんだ……」

 優は自分の目の奥が熱くなるのを自覚した。
 もう自分の気持ちがどこかにあるのか、それすらよく分かっていない。
 ただ、優は文香を裏切ったという一点は変わらない。
 自分の意思で志穂を抱き、そして文香に意図的に嘘をついた。

「だからって…… 文香がいるのに志穂を抱いていいはずがない」
  
 誤魔化しようもなく、それは裏切りだ。

「どんな言い訳したって、浮気したってことに変わりはない……」

 不貞行為以外の何物でもなかった。

 それなのに、冷静になった今でも優ははっきりと自分が後悔しているのかしていないのか分からなかった。
 会社で志穂を押し倒した寸前に正気に戻ったとき、優は確かに後悔していた。
 文香に申し訳なく、そして志穂を傷つけたことにも嫌悪していたのだ。
 だが、実際に志穂を抱き、改めてその存在がどれほど魅力的かを優は再認識した。
 あんな素晴らしい一夜はなかった。
 本能を剥き出しのまま、優は乱暴に志穂を抱いた。
 文香にあんなことをしようなんて一度も思ったことはない。
 それなのに、志穂には我慢できず理性を捨てて貪りついてしまう。

 優はどうしたいのだろうか。
 文香に謝りたいのか。
 このまま黙って全てを無かったことにするのか。
 
「……私は、一番じゃなくてもいい」

 それとも。

「言ったでしょう……? 優君の二番目でいいって…… 優君の一番は奥さんのままでいいの。私は、二番目で十分だから」

 志穂と関係を続けるのか。

「奥さんには、申し訳ないことをしているって分かってる。こんなのただの私の我儘だって…… でも、少しの間だけでいいから、毎日のほんの一瞬だけ…… 奥さんのことを忘れて、私を愛して欲しいの」

 志穂の長い睫毛が濡れていく。
 寒いのか、それとも優の反応に怯えているのか。
 裸の志穂は心細く震えていた。
 優の胸で震える志穂に優は呼吸をすることすら忘れた。

「それは……」
「……世間から見たら、きっと私は最低な女だと思う。でも、どうしても優君の傍にいたいの……! 優君がいなきゃ、私はもう一人じゃ立ち上がれない…… お願い、絶対に迷惑をかけないから…… 私の、我儘をきいて……っ」

 志穂のあまりにも真剣で、純粋なまでの想いに優は深く考え込むように目を閉じた。

「…………俺は、文香を裏切りたくない」

 もう既に裏切ってしまったからこそ、優の声は弱弱しい。

「でも、このまま志穂を…… 傷ついた志穂を投げ出しくない。自分の意思で志穂を抱いて、無理をさせた…… 志穂に対する責任が、俺にはあると思う」

 優はどこまでも優しかった。
 

「……志穂を一番にはできない」
「……いいの。私はいっぱい優君に救われた…… だから、優君が何か悩んでいるとき、苦しんでいるとき、支えてあげたい…… 奥さんが支えきれないところを、私が代わりに手助けする。それで…… いいの」

 志穂はどこまでも健気で、優には逆に痛々しく見えた。
 文香と別れないと言う優に、志穂は儚げに微笑む。
 全てを諦めているような、受け入れているような、そんな笑顔に優は胸が痛んだ。

「ごめん、志穂…… 我儘なのは、俺だ。傷つけてばっかで、ごめん」
「ふふふ、変な優君…… 優君はちっとも悪くないのに」

 こんなときですら可憐に微笑む志穂に、優は少しだけ笑顔を取り戻した。
 まだまだ硬く強張った不自然な笑顔だが、確かに優は微笑んだのだ。

「優君の一番はずっと奥さんのままでいいの。優君の家族想いなところが、一番好きだから」

 一途なまでに笑う志穂を、優はそっと抱き寄せた。

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