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≪過去①≫
9 まだ、後戻りはできるはずだった
しおりを挟む生活のすれ違いでぴりぴりしていた夫婦生活が漸く以前のような空気感を取り戻し始めた頃。
志穂の手作りお菓子を食べたあの日以来、優はますます志穂に惚れこみ、執着ともいえる感情を抱き始めた。
不思議なことに、この段階でもまだ優は志穂との関係に危機感を抱かなかった。
互いが既婚者であり、家庭があることは理解している。
それを踏まえた上で優は自分達の関係がどういったものなのか、分かっていなかった。
いけないことをしているという自覚はあったが、具体的に何がいけないのか、そこまで考える理性がなかった。
志穂というかけがえのない存在を得た優は我が世の春を謳歌していたのだ。
志穂のおかげで文香とも上手くやっている。
全てが良いことづくめだと思ってさえいた。
それほどまでにごく自然に、当然のように優は志穂に惹かれたのだ。
互いを包む空気があまりにも青臭く、プラトニックなものだった。
だからこそ、その下に隠れた裏切りという事実が目に入らなかったのかもしれない。
優が自分が文香を、妻を裏切っているのだと気づいたのは、志穂への執着を抱いたその後すぐのことだった。
ケーキのお礼を伝えたときに、心の底から嬉しそうに笑う志穂に優は我慢できず抱きしめた。
志穂からは甘く美味しそうなお菓子の匂いがした。
誰がいつ来るか分からない。
今はそのスリルをスパイスにする余裕もないほど、優はただ志穂の唇を、その全てを味わいたくて堪らなかった。
強過ぎる衝動に優は戸惑ったが、必死に答えようとしてくれている健気で一途な志穂を前に呆気なく本能に身を任せることにした。
息の合間に零れる甘い吐息や白い頬が桃色に色づき、目を潤ませる志穂の色香に優は夢中だった。
「ん、優、くん…… だめ、人が…… きちゃ、う」
人妻とは思えないほど、幼く懇願する志穂。
なのに、その色気は性欲に関して淡泊なはずの優の理性をじりじりと焦がしていくような、強烈な引力があった。
文香には決して感じなかった、そんな蠱惑的な志穂の魅力。
(なんだこれ……? 喉が、乾くみたいな、腹が減っているような……)
この、燃えるような下半身の熱は。
疼きは一体何なのだろうか。
女の肌に戸惑う初心な男のように、それでいて初めての性欲に盛る少年のように。
優は志穂が涙を零しているのも構わず激しくその華奢な身体を抱き締め、熱く深い口づけをした。
「ゆ、う……?」
はふはふと息を整える志穂。
唇から伸びる銀の糸、唾液でてかてか光る唇を見るともっと欲しくなる。
何をもっと欲しているのか。
優は本能でそれを覚っていた。
「はぁ…… ど、うしたの……? 優君、変だよ、今日……」
喘ぐように、それでいて優の胸にもたれるようにして志穂はぼそぼそと言葉を紡ぐ。
胸に感じる志穂の体温に、優は熱い溜息を吐いた。
「ごめん、俺も分からないんだ…… こんな気持ちになるの…… なんでこんなに志穂を滅茶苦茶にしたいのか」
「……優君」
「初めてなんだよ…… こんな風になるの」
優は戸惑っていた。
それは文香には決して感じなかった衝動のせいだ。
文香と何度も寝た。
他に比べると性欲よりも食欲、睡眠欲が強い優とはいえ不能ではないのだ。
ごく当たり前に文香に欲情し、ベッドになだれ込むことがある。
だが気づけばここしばらくは文香と寝ていない。
ベッドは相変わらず二人で使っていたが、腕枕をすることも向かい合って寝ることも少なかった。
唯一手を握りしめたあの夜以来、身体の温もりとは裏腹に心は相変わらず距離があったことに優は気づいた。
仕事で疲れてぐっすり眠る文香は夫婦の夜の営みがないことに何も思わないのだろうかと、今更ながらな疑問が優の頭を過ぎる。
それはすぐに腕の中にいる志穂の擦れた声で消え失せてしまった。
「わ、私も…… こんな、情熱的なキスを、されたのは…… 初めて……」
ぎゅっと志穂の繊細な指が優のスーツに皺をつくる。
「優君には初めてのことを、いっぱい教えてもらってる…… 心からほっとするのも、楽しいと思うのも、笑い方も…… 全部優君が教えてくれた」
「志穂……」
「っ……き、キスも…… こんなに気持ちがいいなんて、知らなかった……」
先ほどまでの淫らなディープキスが嘘のように優と志穂は初々しい恋人同士のように顔を赤らめた。
上目遣いで見つめて来る志穂の大きな瞳。
そこに込められた情欲に、優は唾を呑み込む。
志穂が何を求めているのか、分かったからだ。
「……もっと、気持ちいいことを、教えて欲しいの」
睫毛を震わせながら、志穂は背伸びして優の首筋にキスをする。
「優くんの……」
ちゅっと、志穂は優の首筋に浮かんだ汗を味わうように日に焼けた肌を吸った。
自分の鼓動が伝わらないかと焦る優。
そして、スカートから伸びた志穂の膝が優の昂った下半身に触れる。
「っ……」
一瞬の刺激だけで優は興奮し、堪らなくなった。
わざとではないのだろう。
志穂がそんな大胆に誘うはずがないと、優は思った。
だが、そんな幻想とは裏腹に腕の中の志穂は身を悶えさせるように身体全体を使って優を煽って来る。
生温かい吐息が優の耳にかかる。
湿っぽい音を立てて開いた唇、そこから覗く小さな舌が優の脈打つ首筋の血管を辿り、プラチナの指輪が映える手がスーツの中を弄る。
「し、ほ……」
「んっ、優くん、ねぇ、優君は…… 今、私に興奮してるの?」
志穂に促されるがままに優はその細い腰を、スカートの上からでも分かるマシュマロのように柔らかい小さな臀部を撫でた。
プラトニックな関係というには生々しすぎる二人の触れ合い。
人目を忍んでいるはずなのに、今の二人はすっかりそのことを忘れていた。
「ああ…… おかしいぐらい、志穂が、欲しい……」
「っぁ、ふぅっ…… ん、う、れしいよ…… ゆうくんに、求められる、の…… 好きに、していいから、ね?」
慈しむように志穂は優の髪を撫で、舌を差し出す。
目の色を変えながら優は獣のように志穂の唇ごと食らいついた。
今思えば、互いに夢中であまりに無防備すぎた二人の行為がまったく誰にも発見されなかったのは奇跡としか言いようがなかった。
まるで、運命的な何かが、奇跡のような力が二人を結ばせようとしているかのように。
そう思うことで一時的に優と志穂は自分達の行為を正当化しようとした。
「んぁ、あん…… い、いいよ、もっと、してっ…… いっぱい、愛して……っ」
「志穂……っ」
近くのデスクに優は志穂を押し倒した。
太ももを擦り合わせながら見上げて来る志穂はどこまでもいやらしい。
なのに、涙を浮かばせた目はぽやっとしていて、穢してはいけない聖女のようにも見える。
志穂は慈しみに満ちた笑みを浮かべていた。
今までの天然でドジな、無邪気でありながらどこか薄幸なオーラを志穂は醸し出していた。
儚げな美貌で、今の志穂は優に一度も見せたことがない慈愛を顔に浮かばせている。
母性溢れる、優の全てを受け入れようとする、そんな笑みだ。
優はもう我慢などできなかった。
今すぐにでも、志穂に甘えて欲望を全てぶつけて、飢えた腹を満たしたいと思った。
文香には一度も感じたことがない、強烈なまでの飢えと渇きは志穂でしか癒せない。
本能がそう告げていた。
「お願い、優君…… 全部忘れて、私のことだけを見て……」
志穂は、至上の幸福に酔い痴れるように、そっと目を閉じた。
「奥さんのことも、全部忘れて…… 私だけを、いっぱい、愛して」
優に食べられるのを、期待するように。
だが。
「…………ぁ」
志穂は選択を間違えてしまった。
*
(奥さん……? 俺の、)
目を瞑っていた志穂はこのとき優がどんな表情で自分を見下ろしていたのか知らない。
優の目は霞み、志穂の姿が彼の視界で少しずつぶれていき、そして若い頃の文香が映った。
それは優の記憶の中の文香だ。
初めて抱いたときの高校生の文香。
恋人として、婚約者として、そして妻として。
文香とのセックスの数は多くない。
多くないせいか、優はその一つ一つを覚えていた。
まさに走馬灯のように、痛みに耐えながら必死に優を受け入れる文香が、照れながらも奉仕する文香が、泣きながら微笑む文香が、頭の中を駆けていく。
「……優君?」
優が志穂に触れないまま離れていく気配に志穂は戸惑いを含んだ声で呼び止める。
「……俺、何やってんだ」
感情のない、呆けたような優の声に志穂は恐る恐る起き上がった。
志穂にではなく、優は自分自身に問いかけていた。
(何、しようとした…… 俺、志穂を、抱こうとしたのか……?)
濡れた自分の唇を信じられないとばかりに触れる。
(待てよ、いくら志穂が好きだからって…… 俺には文香がいるんだぞ?)
鈍器で頭をぶん殴られたような、氷で心臓を貫かれたような。
一気に酔いが覚めたような感覚とでもいうのか。
このときの優は漸くまともに自分がしようとしていたこと、していたことの異常さ、不道徳さに気づいた。
(俺は…… 文香を裏切ろうとしたのか?)
混乱の極致にいる優はそもそも今までの志穂との触れ合い全てが文香に対する裏切り行為に他ならないという事実にまで頭が回らなかった。
ただ、今初めて優は自分が文香を裏切ろうとしたことに気づき、愕然とした。
優は文香を愛していた。
文香を嫌になったから、飽きたから志穂に目移りしたのではない。
ただ、優にとって志穂は魅力的すぎたのだ。
「ねぇ…… どうしたの? わたし、何かいけないこと…… した?」
泣きそうになりながら、優に近づこうとする志穂。
心細そうな顔は優の罪悪感を大きく刺激した。
今すぐにでも抱きしめて慰めてやりたい。
手を伸ばしたくなるのを、優は拳を握りしめて耐えた。
爪を掌に食い込ませ、優は青褪めた顔で首を振る。
「ごめん…… 俺、どうかしてた……」
「……どういうこと?」
きょとんと首を傾げる志穂は戸惑いと不安に満ちた目で優を必死に見つめる。
甘く淫らな空気はもう霞のように消えていた。
今はただ重たく、地に沈みこむような静寂に満ちている。
部屋の外から聞こえる他の社員の足音や会話音に、優は更に愕然とする。
こんな、会社で。
誰にいつ見つかるか、聞かれるかも分からない場所で。
自分は、自分達は一体何をしようとしているのか。
正気とは思えなかった。
「……もう、やめよう」
「え?」
「こんなの、間違っている、間違ってたんだ…… 俺はどうかしてた…… 俺も、志穂にも…… いや、渡辺さんにも旦那がいるのに、なのに…… こんなこと、していいはずがない……っ」
「……な、んで、そんな…… いまさら、どうして……?」
今更。
そうだ、今更すぎる話だ。
志穂の呆然とした台詞に優は自己嫌悪の嵐に襲われた。
自嘲が漏れる。
優に似つかわしくない、暗い笑みだ。
「本当に、今更だよな…… 俺は文香も、渡辺さんも傷つけた。最低だ」
「……ゆ、うくん?」
「……悪い、今は俺も混乱してる。何を言うべきか、どうしたら渡辺さんに償えるのかもわかんないけど…… 頼む、今は一人にしてくれ」
最低な物言いだと分かっている。
志穂の気持ちと身体を弄び、期待させた。
どんなに謝罪しても足りないだろう。
だが、それ以上に今の優は文香への罪悪感でいっぱいだった。
「や、だ…… そんな、こと、言わないでよっ」
「…………ごめん」
謝ることしかできない。
静かに嗚咽を洩らす志穂を前に、優はどうすれば自分の罪が償えるのか考えた。
どこで自分は間違えたのか。
それが分からないままでは志穂を説得することも、文香に罪を告白することもできない。
この場に長居しすぎては怪しまれる。
志穂から逃げようとしている自分がいることを察しながらも、優はこれ以上志穂の側にいてはいけないと思った。
このまま志穂に泣いて縋られてしまえば、優はまた理性のない獣になってしまうという予感があった。
泣いたままの志穂にもう一度頭を下げ、優は志穂を置いてその場を立ち去った。
* *
志穂は結局休憩時間が終わってもデスクに戻らなかった。
「渡辺さん、また早退だって」
「どんだけ身体が弱いんだって話よね。いい迷惑~」
志穂を目の敵にしていた一部の女性社員の立ち話を聞いてしまった優は、一人憂鬱な気持ちを抱えた。
(ごめん、志穂……)
もう、志穂と呼んではいけない。
一度はスマホを取り出し、連絡しようとも思ったが、結局止めた。
むしろ、もう志穂との関わりを絶つためにもそのデータを削除するべきなのだ。
だが、優は志穂との繋がりを削除することができなかった。
マンション近くの公園で優は一人遅くまで自己嫌悪と絶望に堪えていた。
「昨日、随分と遅かったね」
翌朝、一睡もできなかった優に文香は心配そうに声をかける。
何気ない文香の気遣うような視線に優の罪悪感が更に刺激された。
「あ、ああ…… 残業でさ…… その後、飲み会に誘われて……」
「大丈夫? お粥作ろうか? それよりも少しだけでも寝た方がいいよ…… そんなソファーで寝ることなかったのに」
文香に世話をされながら、優は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
慌てて薬やお粥の準備をする文香に、優は自分と志穂のことを伝えるべきか伝えないべきか悩んだ。
抱いてはいない。
だが、キスしてずっと隠れて連絡を取り合っていた。
浮気なのだろう。
冷静でなくても、少し考えれば分かることだ。
志穂との関係をいけないことと定義しながら、優は本当の意味で分かっていなかった。
そんな自分がひどく怖ろしい。
文香がいるのに、既婚者である志穂に惹かれたことも。
更に、秘密の関係を持ったことも。
あと一歩。
あのとき、文香のことを思い出さなかったら、優は間違いなく会社で志穂を抱いていた。
自分の行為に吐き気がしそうだ。
(言える、わけないだろう…… 文香に、そんなこと……)
結局、優は文香に何も言わずに出社した。
そして、志穂が無断欠勤したという話を上司から直接伝えられたのだ。
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