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≪現在①≫
3 車の中でキス
しおりを挟む珈琲をぶちまけ、その結果自身のシャツやズボンにもかかった優に文香は慌てて紙ナプキンを数枚手に取って近づく。
店員に声をかけ、詫びながらも優に火傷はしなかったかと聞く文香に優はただ頷くほかなかった。
混乱しすぎて、何を言っていいのか、どう反応すればいいのか分からない。
戸惑いを全面に押し出した優の姿に、とりあえず店員の視線がこれ以上痛くならない内に店を出ようと文香はその腕を引っ張った。
こんなときですら三年ぶりの文香の手の温度に、優は喜んでしまう。
腕を引っ張られたぐらいで大げさすぎるとも思った。
そもそも、それどころではない爆弾を先ほど落とされたではないか。
『私を、抱いてほしい』
あの、文香が。
『お願い、私とセックスして』
ありえない。
これはきっと都合のいい夢だ。
やはり昨日のあの電話から、今の今まで全ては優の夢だったのだ。
そうでなければおかしい。
そもそも文香は昔からお堅く真面目で、下ネタも嫌いで、潔癖なところがあって、部屋を暗くしないと絶対にセックスさせてくれなかった。
ただ、いやらしい方ではないキスは好きで、新婚生活中は律儀におはようからおやすみまで一日中優とキスをしたがっていた。
本人はそれを悟らせないようにしていたらしいが、案外文香は分かりやすい。
素直でない態度を察して優から仕掛けるようにしていた。
そんな、まさに薔薇色だった過去を思い出している間に、気づけば優は文香に連れられて店の外に出ていた。
今日何回も反応していた店のベル音に漸く優の意識が戻った。
ふいに支払いをしていないことに気づき、青褪める。
混乱していた間に文香が優の分まで代わりに支払ってしまったのだ。
「悪い、今、金返す……」
慌てて財布を探ろうとする優に文香はきゅっと眉を寄せて下から睨みつけた。
相変わらず目つきが悪いと、雰囲気や化粧が変わった今でもそこだけは変わらないんだなと優は何故かほっとした。
「ありえない」
「え」
「ありえない。今気づいたけど、何その薄い身体?」
呆れたというような言い草の割に真っ直ぐ向けられた文香の視線には気遣うような色が滲んでいた。
「顔色もよく見たら悪いし…… 隈だって酷い」
先ほど掴んだ優の腕。
筋肉の衰えを感じたときの驚きと、文香の力で容易く引っ張られる弱弱しい身体に不健康な顔色、病んだような濃い隈。
それら全てが文香の心にさざ波を立てる。
優は上背がある分、体重が落ちると途端に頼りなさそうに見えるのだ。
「まさか…… 病気、とか?」
昔の健康体そのものだった優の姿を知っている分、日の下で改めて見たその痩せ衰えた姿は文香に嫌な想像を駆り立てさせる。
「違う…… ただ、このところ、仕事が立て込んでて…… 徹夜とか無理ばっかしてたから」
「……」
「飯も…… ほら、俺結構面倒臭がりだからさ。つい、疲れると飯食うのもだるくて…… 気づいたら、なんかダイエットしてた」
「……ばか」
必死にこの三年間の不摂生を誤魔化す優に、文香が何を思ったのかは分からない。
呟くような罵倒があまりにも柔らかく、優は目の奥が熱くなるのを感じた。
文香と別れてから、優は変わった。
今まで夢中になっていたものの魅力が分からなくなり、好きだったものが石ころのように価値のないもののように感じるようになった。
煙草を吸う様になったせいか、それとも心因的なものか。
食べることがあんなに好きだったのに、何を食べても美味しく感じなくなった。
むしろ咀嚼すら面倒で、会社の昼食の時間や飲み会は優にとって拷問に等しいものとなったのだ。
それを他人に悟らせないように無理矢理食べ物を呑み込み、気づけばトイレで吐くという繰り返し。
病院に行く気にはなれなかった。
原因など分かり切っているからだ。
*
優の嘘を信じたのか、ただ付き合うことにしたのか、文香はもうその話題には触れなかった。
気にならないはずがなかったが、それでも今の文香には1分1秒でも時間が惜しいのだ。
焦りと共に脳裏を過ぎった影に、文香は唇を噛む。
「じゃあ、身体は大丈夫……ではないけど、特に問題はないのね?」
「あ、ああ。もちろん。ちょっと寝不足なだけだから」
引き攣ったような笑顔を浮かべる優に思わず何か言いかける文香だったが、今は時間がないと雑念を振り払う。
優を心配する気持ちに文香は蓋をした。
優先順位を間違えるなと、自分を叱咤する。
「なら、さっきの話、受けてくれる?」
先ほどの反応を思い浮かべ、乗り気ではなさそうな優に不安を覚えるが、どんな卑怯な手を使っても文香は自分の願いを成就させるつもりだ。
「……さっき、て」
優の声が低く震える。
「そのまんまよ。さっき、お願いしたでしょ?私を抱いてちょうだい」
二人はいつの間にか近くの駐車場まで移動していた。
文香は喫茶店に入る直前に見覚えのあるその車を発見していたため、当然のように駐車場に向かった。
文香の背中について行く形となった優は、自分の車を前にして思わず足を止め、俯く。
「……どういう、つもりなんだ?」
文香が冗談でこんなことを言うはずがない。
だからこそ余計に優は文香の真意が読めず、混乱する。
どうすればいいのか、分からない。
「冗談にしては、悪趣味だ」
そして、情けないほど動揺する優の様子を見た文香は一つの賭けに出ることにした。
「お願い、理由は聞かないで」
「だから、何を言って、」
「言えないの。……言えないし、言うつもりもない」
頑なな文香の態度に優は不審に思うよりも心配になった。
本当に、何かとんでもないトラブルに巻き込まれているのではないのか。
あの文香が自分からこんなことを言うはずがない。
(俺に、抱いてほしいなんて……)
ありえないと、優は断言できる。
今だって、何度も悪夢を見るのだ。
気持ちが悪いと、優の全てを汚らわしいとばかりに拒絶した文香を。
だからこそ、ありえなかった。
浮気が発覚した後、優に抱かれることを拒みに拒んで、そして別れた文香が。
こんなことを言うなんて。
「頼むよ、何があったのか教えてくれ…… 誰かに脅されたのか? 俺に出来ることなら、文香を助けられるなら、なんでもするから……!」
文香の肩を掴み、縋る様に優は声を震わす。
その姿に、文香は苦しそうに、喘ぐように拒絶した。
「……分かった。もう、優には頼まないから」
低く、温度のない声だ。
文香は優を見上げる。
今日は、優のためにそれなりのお洒落をしてきた。
優の好みをなるべく意識して、恥ずかしさに耐えながらこんな格好をしてきたのだ。
ここで、諦めるわけにはいかない。
諦めの言葉とは裏腹に、文香は意地でも優に抱いてもらうつもりだ。
どんな手を使ってでも。
「私を抱く気がないってこと。よーくわかったから」
この歳で初めて自分から男を誘う。
果たしてこれが誘惑になるのか分からない。
「……なら、別の男の人に頼む」
誘惑ではなく、これはきっと挑発なんだろうなと思いながらも、文香はそれ以外の方法をこの場で思いつくことができなかった。
* *
聞き間違いではないのか。
先ほどから優の耳が可笑しくなったようだ。
「何を、自分が何を言っているのか…… 分かってるのか?」
カラカラに乾いた喉から絞り出した声は自分で聞いてもとても耳障りだと思った。
文香はどう思っただろう。
こんな、情けない元夫の姿を。
文香の言動に情けないほど翻弄される哀れな男を。
「優が、私を抱きたくないのなら…… 抱く気が起きないのなら、他の人を探す。誰でもいい、私を抱いてくれるなら」
文香の唇からすらすらと零れたその台詞に、優は一瞬で頭の中が真っ赤になった。
気づけば優は車のドアを開け、助手席に文香を押し込んでいた。
目を白黒させている文香を横目に、優は運転席に乗り込み、乱暴にドアを閉める。
そして、スカートを気にする文香ににじり寄る様にして顔を近づけた。
目を大きく見開く文香の瞳に怒りに染まった優の顔が映り込む。
「……二度と、そんな馬鹿なことを言うな」
優がこんなに怒っているのを見るのは初めてだ。
純粋に怖いと、文香は思った。
だが、何かを耐えるようにして、言葉を呑み込んだ後、優は荒く息を吐き出してから文香に謝罪した。
「悪い、頭に血が昇ってた」
落ち着けと自分に言い聞かせるように額を手で押さえる。
「もう、帰ろう。このまま、家まで…… 駅まで送るよ」
別れた夫に自宅を知られるのは嫌かもしれないと思った。
このまま、訳も分からない状態で文香を帰したくはなかったが、今の冷静でいられない自分は文香の言動に過剰に反応しすぎてしまう。
もしかしたらこれが本当の最期なのかもしれない。
優と文香の関係の。
「怖がらせて、ごめん……」
弱弱しく謝りながら、身を引こうとする優。
その様子に文香は焦った。
このときの文香の脳裏を過ぎった、いや蘇ったものを優は知らない。
「……私は、本気だから」
優の顔が強張る。
一方、文香は初めて見る優の苛立った姿に本能的に怯える自分を無視して挑発することを選んだ。
それ以上言うなと、睨みつけて来る優が怖い。
げっそり痩せたせいか、より一層不気味だ。
だが、今の文香はそれよりももっと怖いことを知っている。
ここで臆するわけにはいかないのだ。
それも、こっちから別れを切り出した昔の男なんかに。
怯えている暇などない。
「私を抱く気がないのなら、今日のことはもう忘れて」
文香は既に覚悟を決めていた。
これはチャンスだ。
冷静さを欠いた優を揺さぶる、絶好のチャンスなのだ。
「優の本音はよく分かった。ようするに、私を抱く気がないんでしょう? まぁ…… 離婚した元女房なんて嫌だもんね」
「……やめろよ」
感情が消え失せた優の呟きに、文香はばくばくと心臓の鼓動を悟らせないように必死に平静を装った。
「どうしたんだよ? お前が、文香がそんなこと言うなんて絶対に可笑しい」
「……可笑しくなんてない。私はまともだし、言っていることも全部本音だから」
自分でも、よくもまぁ、こんなにぺらぺらと口が回るものだと感心する。
「……もう、私相手じゃ勃たない?」
「っ、なに、を」
一体何を言っているのだと青褪める優に文香は鼻で笑った。
文香自身も、咄嗟とはいえこんな言葉が自分の口から飛び出たことが信じられなかった。
自分のことを見栄っ張りで自尊心が高いと自覚しているからこそ、余計に。
「気にしなくてもいいよ。例え優が私とセックスしたくなくても…… してくれる人は他にいっぱいいるから」
「……」
痛々しい沈黙が車内に落ちる。
優が今何を思っているのか分からない。
「知ってるでしょ? 大抵の男の人は女の誘惑に弱いの。皆、気持ちいいことが大好きなんだから」
この挑発が不発に終わっても、優をよく知る文香は他の方法を試すつもりだ。
過去の不倫を盾に脅してもいいし、泣き落としという手もある。
最悪文香相手だと萎えてしまうのなら目隠し耳栓をしてくれてもいい。
「恋人がいようがいまいが。独身か既婚者かなんて関係なく、ね」
なんだ、私も結構言えるじゃないと、場違いにも笑いたくなった。
「……優だって、そうだったでしょう?」
別れた夫に、どう思われようと関係ない。
せいぜい、感情のまま冷静さなどかなぐり捨ててくれと文香は願う。
* * *
三年ぶりの文香とのキスは荒々しいものだった。
文香がわざと優を怒らせようとしていたことに優は気づいていた。
だが、気づいていたとしても、文香の口から紡がられる言葉は燃え盛っていた優の怒りに油のように注がれ、理性を容易く燃やし尽くしてしまった。
怒りと悲しみと、後悔と、絶望で優の心はぐちゃぐちゃだ。
文香には優を詰る権利がある。
むしろ、もっと自分を責めて欲しいと願っていた。
だが、これは違う。
文香は本気で優を蔑んでいるのではなく、ただ優から冷静さを奪おうと過去を利用しようとしている。
それが許せなくて、でも自分にそんなことを詰る資格もなくて。
そして文香自身の口からこれ以上彼女自身の品性を落すようなことを言って欲しくなかった。
結果、優は文香の挑発に乗った。
優以外の男に抱かれようとする、自分自身を粗末に扱うようなことを言う文香が許せなくて、でも今の優には文香の貞操を守ることも、男関係に苦言を呈することもできないことが悔しい。
わからない。
文香の真意が、気持ちがまったく分からなかった。
ただただ、痛い。
心臓の一番深い場所に氷の刃が刺さったような。
「んっ、んん……」
そして、今だ文香のことを愛している優は自分のままならない男としての性が憎いと思った。
文香の身を案じて一度は拒んだはずなのに。
「はぁんっ、ふぁ、んっ」
「っ、ふみ、か」
凍り付いた心臓と裏腹に、文香に触れた薄皮一枚一枚が熱く昂る。
キスだけで、もうこんなにも興奮している。
愛しているからこその激情と苦悩は、容易く甘やかなものへと変わってしまう。
別れたからこそ、より愛しく、ずっと求めていたのだ。
もう一度、会いたいと何度も思った。
「っぁ、はぁっ、ゆう、」
もう一度、抱きしめることができたなら。
「……もっと、」
もう何もいらないと。
この三年間、ずっと文香を抱きたいと、触れたいと、優は願っていたのだ。
渇望していた。
「文香……」
「……ねぇ、もっと」
首に回された文香の腕に、その濡れた唇と、赤くなった頬に。
「もっと、キスして?」
とろりと、かつてないほど蕩けた文香の笑みに。
嗅ぎ慣れない香りに。
「優」
甘やかな懇願に、優は抗うことができなかった。
* * * *
「その気になって、くれた……?」
「……文香が、他の男のとこに行くのは、嫌だ」
痛みを耐えるように重々しく呟く優に文香は罪悪感よりもほっとする気持ちの方が強かった。
「……駅の近くに、ビジネスホテルがあったでしょ?」
懐かしい優との口づけに、かつてないほど文香は安堵し、そしてこれから優に抱かれるのだという事実に心から歓喜した。
「そこに、部屋を借りてるの」
身体を強張らせる優に自分から身を寄せる。
しばらくして、優は恐る恐る文香の背に腕を回した。
薄くなった優の身体に、過ぎた年月を思いながら、文香はうっとりと微笑む。
(そう、それでいいの。難しい事なんて考えなくていい……)
昔のことも、今抱えている葛藤も戸惑いも、世間の常識や倫理なんて忘れていいから。
全部忘れて、私だけを見て。
そして、今だけは私に溺れてちょうだい。
優。
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