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語り
4.誘惑
しおりを挟む「閣下は、娼婦以外の女を抱いたことがないんす」
侍女長は本当に今ライナスが話している内容を記録していいものかどうか悩みながら無心でペンを動かした。
不動の姿勢で正面からライナスの話を聞いているリリーが酷く逞しく見える。
「閣下が今まで抱いた女って所謂玄人ばっかというか…… 初めての相手も親父様からあてがわれた高級娼婦らしいっすよ。閣下も閣下で、性欲強くても淡泊なお人じゃないっすか? 死んだあの女は別として、同じ女を何回も抱かないんすよ。飽きたとかそういうんじゃなくて、そのとき誘われたらとりあえず金払うみたいな? ……不敬になるかもしんない話っすけど、閣下ってヤった女が感じてるとかイったとか、そういうのあんまし気にしないんすよ。痛そうにしてるなら、一応やめるんすけど、基本自分がイったかどうか。しかも相手は娼婦っすから気持ちよくなくてもとりあえずあんあんって感じてるふりするじゃないっすか。よーするに、自信なかったそうなんす。処女の奥様を抱く自信が」
「……」
「閣下って娼館では派手にやってるんすけど、元は真面目なお人っすから貴族の娘とか町の娘とかに誘われても抱いたりはしない。絶対。だからあの人、娼婦でもない素人の女とは未経験なんす。処女でいかにも華奢な若奥様をちゃんと抱ける自信がなくて、そのときかなり真剣に悩んで、見ているこっちが辛かったっす」
「…………」
リリーは黙って聞くしかなかった。
そもそもこの男、ライナスは何故そこまでエアハルトの性事情に詳しいのか。
考えると少し気持ち悪い。
誰も反応を返さないというのに、ライナスは一人でどんどん興奮してべらべら喋り出す。
半分彼もヤケなのだろう。
「で、そこでタイミング良く登場したのがルナってわけっすよ」
「……つまり、あの小娘は奥様を抱く前の練習台に使ったということか」
「そう! 初めは閣下も気乗りしなかったんすよ。でも、ルナの方から誘って来たんで、俺も驚いたっす。あのときは」
「貴様、本当に余計なことしかやらかさないな」
「いやいや。あの時期に黒髪黒目の奥方様と同じ歳ぐらいの女が処女として娼館で売られてたんすよ?こんな偶然、もう奇跡としか言いようがないっす。それに閣下はルナの身辺調査のためにどんだけの金つかったと思ってるんすか? あれはどうみても割に合わない。ルナももう娼館に居場所が無さそうだし一石二鳥じゃないっすか!」
「そもそも理解できないのがお前だ、ライナス。お前は…… 閣下を愛していたのだろう? 何故わざわざ他の女を差し出すような真似をするのだ?」
リリーの最もな疑問であり、不審である。
ライナスを行動させる原理がロゼへの嫉妬ならば、何故エアハルトにルナを抱くよう仕向けるのか。
そもそも男同士だろうがなんだろうが、自分が愛した男に他の女を抱かせる心理が分からない。
分からないからこそ余計に不気味である。
「嫌がらせっすよ」
ライナスはなんでもないかのように吐き出す。
「……嫌がらせに決まってるじゃないっすか? 俺が、どんだけ閣下のこと愛してたか…… どんだけ長い間自分の欲望と戦っていたか…… でも、それでもいいと思ったんすよ。閣下はあのとき血迷った俺を拒絶して、半殺しにしたっすけど、その後も許して側に置いてくれたっす。俺は少しでも閣下の役に立ちたくて、死にもの狂いで訓練して働いて、漸く周囲も認める閣下の正式な副官になったんすよ? そこから閣下に嫌われないように必死に自分を殺して、閣下が抱いた女を抱いたりしてどうにか自分の気持ちを宥めてたっす。……なのに」
ライナスは呪詛を吐き続ける。
「なのに、なのになのに! あの女はっ 公爵家の娘だかなんだか知らない小娘がっ 俺の、俺のエアハルト様と……! いきなり現れて婚約だなんだって言って、エアハルト様を奪って行く! どんな女に誘われててもエアハルト様は靡かなかったのに…… あんな、あんな、ただ顔がいいだけの小娘にっ なんで、あんな、好きだって、惚れてるって…… 無自覚なあの人に、俺が毎日どんな思いで惚気話聞いたと思うっすか!? ふざけんじゃねぇっよ!俺は、俺はアンタが好きだって、知っているのに、あの人はッ 俺に、奥方様を傷つけたくない、夫として可愛がってやりたいって…… そんなくだらない悩みを延々聞かしてくるんすよ? ねぇ、どう考えても俺への当てつけっすよね? あの人、俺がまだあの人のこと好きなこと知ってんのに、ずっとずっと変わらず慕って支えて尽くしてきたって知ってんのにッ!」
縄で椅子に固定されているライナスは、それでも全身を興奮させてガタガタと椅子を鳴らした。
口の中が切れているのに興奮して叫びすぎたのか、途中で苦しそうにむせた。
ライナスは唾液と血を吐き出して正面のリリーを睨みつける。
いや、ライナスはリリーではなく、今はいないロゼかエアハルトの虚像を睨んでいるのだ。
ライナスはただただ嫌がらせがしたかったのだ。
ロゼに、そしてエアハルトに。
*
まさかルナ本人から抱いてほしいと言われると思わなかったエアハルトは目の前に曝されたルナの全裸を観察した。
全体的に骨っぽい身体というのが率直な感想だ。
だがこれでもルナは前よりも太った方である。
ただの孤児が、いやただの娼婦どころか下町の娘でも一生食べれないだろう贅沢な食事をして、仕事をすることなく一日休んでいられる環境を与えられたのだから。
まだ肋骨が少し浮いているが、胸などはだいぶ大きくなったとルナは思っている。
だからこそ、ほんの少しの自信のもとでエアハルトの前で裸になったのだ。
エアハルトがその身体に欲情したかといえば、まったくしなかった。
抱こうと思えば抱けるが。
目を瞑って、顔を真っ赤にして震えるルナの姿を観察し続ける。
やはりどうしても目につくのはここ最近油を塗られるようになり、艶を出した黒髪だ。
以前と少し違う、丸くなった頬や健康的になった顔色。
エアハルトが払い続けた無駄金が効果を出しているらしい。
だが、それももうすぐ終わるだろう。
エアハルトが齎した一時の富はルナに味わうはずのない幸福と小さな心の傷を残した。
店の娼婦に嫌われ憎まれようと、そこまでエアハルトは面倒がみれない。
その考えは今も変わらないが。
(ルナか……)
エアハルトはふと、自身がルナにつけた「ルナ」という名に思いをはせた。
この名前を思い出したのはたまたまだ。
意味は特になく、ただルナの黒髪と黒目を見てロゼを思い出し、そのときロゼが嵌っていた浪漫小説の主人公の名前が浮かんだのだ。
もちろんルナは自分の名づけの理由を知らない。
エアハルトは思った。
ロゼと同じ、自分の未来の妻と同じ色彩を持つ目の前の娘をこのまま見捨てていいものかどうか。
『私、主人公が一番好きです。とても勇気があって賢くて、最後は幸せになってほしいですわ。なのに、色々と恋敵や障害があってなかなか上手くいかないんです』
と、小説のことを楽しそうに語っていたロゼの顔がちらちら浮かぶ。
ロゼが好きだと言っていた架空のルナと、エアハルトがルナと与えた娘。
今日は支配人にもうルナを拘束する気はないと、今後金の支払いはもうしないと告げるつもりであった。
だが、しかし……
「閣下。ルナもこう言ってるんすから。お望みのもの与えていいんじゃないすか?」
「ライナス」
お前は黙っていろとばかりに睨むエアハルト。
不穏な空気が流れ、目を瞑ったままのルナは更に身体を震わす。
「でも、黒髪に黒目で処女っすよ? 娼婦なんすから抱かれるのが本業。本人も閣下に抱いて欲しいそうじゃないっすか。もうちょっと、例の日までは面倒看てやっても罰はあたらないっす。いや、これはもう偶然じゃなくて運命っすよ。運命」
ライナスの軽い言い方にエアハルトを眉間に皺を寄せながら考えた。
もう一度、ルナの全身を観察する。
頭から胸、肋骨に、まだ何も生えていない下腹部へ。
「……ルナ」
「はっ、は、はい」
エアハルトはため息をついた。
脳内ではロゼの無邪気な笑みと、それとは裏腹に日々美しさと色気が増してくる肢体がくるくる踊っている。
ロゼのあの見るからに細そうな腰や最近大きくなり始めた胸など。
艶やかな表情をすることも多くなり、今まで以上に男から声をかけられる。
エアハルトが牽制していても、だ。
美しすぎる成長をしている自分の未来の妻の笑顔を思い浮かべながらエアハルトは観念した。
「契約をしよう、ルナ」
「け、けい、やく?」
「……とりあえず服を着て、支配人を呼んで来てくれ」
それが、嵐の始まりとは知らず。
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