君と地獄におちたい

埴輪

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語り

2.ルナ

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 ルナは一人膝を抱えて俯いていた。
 元は屋敷の侍女の部屋を今は一人で使っている。
 複数人用の部屋は広く、少し高級な宿屋のような様相だ。
 ルナは今見張られている。
 窓と扉に鍵をかけられ、扉の前では見張りの者がいるらしい。
 ここは侍女達の部屋が集められた棟であり、基本的に男は立ち入り禁止だ。
 見張っているのはルナを直接的に攻撃しようとしたミュラー家のあの侍女達だろう。
 ライナスから聞いた通りだ。
 この屋敷の使用人は少し特殊である。
 もっとも顕著なのが両家から集められた侍女達だろう。
 どちらも仕事に対して優秀であるが、雰囲気が違うのだ。
 体格も容貌も、思考も行動も。
 今、ルナを見張っている女達は先ほど出し抜いた女達とはまったく違った。
 彼女達の目には冷徹な殺意があり、ルナが勝手なことをすれば容赦なく暴力を振るうだろう。
 何より恐ろしいのがその暴力が感情によるものではなく、規律を守らない者に対する理性による制裁に近いことだ。
 間違っても逃げ出そうとは思えない。
 
 ルナは先ほどまで延々と泣いていた。
 目が溶けてしまうのではないかというほど泣き喚いたが、首の手当てをされている間も無視され、答えてくれる者はおらず、今はもう諦めて寝台に腰かけている。
 
 どうしてこうなったのだろうとルナは空っぽの頭で考えた。
 ルナは考えることが苦手で、常に誰かの命令によって生きて来たのだ。
 大人は皆ルナを蔑み、暴力しか振らない。
 そんな日常はある日、運命的な出会いによって変わったのだ。
 今でも思い出せる、ルナの人生が変わった日。
 その身に多大な幸運が舞い降りた日。
 
 ルナが生まれれた日。
 
 
 

 
 
 黒目はその日からルナとして生まれ変わった。
 立場も環境も全てが劇的に変わった。
 
 まずは浴室付きの部屋を用意された。
 これは店の人気の娼婦達と同じ待遇だ。
 食事は更に豪勢になり、見るからに高価だと分かる美しい着物や化粧品、キラキラと輝くアクセサリーも全てルナのものとなり、給金まで与えられて見張りをつけるならば自由に店の外を出入りしていいという許可までもらった。
 支配人のルナに対する態度は変わり、専用の召使まで用意されたのだ。
 そして、周りを一番驚かせたのはルナは客をとらなくても良いと支配人が公言したことだろう。
 ルナはあまりの環境の変化に戸惑ったが、しばらくするとそれがあの優しく笑いかけてくれた軍人のおかげだと気づき、嬉しそうにそれを周りに話した。
 ルナは今までまともに人と人との関係を築いたことがなく、周りの娼婦達に聞かれるがままに全てを話し嬉しそうに楽しそうに自分の幸運を自慢したのだ。
 
 美しい笑顔で聞いていた娼婦達の前で何度も自慢した。
 
 娼婦達がルナを妬むのは当たり前である。
 ただ髪と目が黒いだけの大した容姿でもない小娘よりも自分達の価値は低いと宣言されたようなものだ。
 彼女達の不満は相当なもので、それはすぐに憎悪に変わった。
 しかしそこは支配人も分かっていたため、ルナは国の身分高いとある貴族に見初められたこと、その身に何かすればお前達皆を容赦なく罰すると彼女達に言い聞かせたのだ。
 そこでしぶしぶ娼婦達は引き下がった。
 いくら面白くなくとも国の権力者の後ろ盾を持つルナに手を出せば自分達の身を滅ぼすことになるのだ。
 名や身分は伏せられたが、その権力者がかの冷徹冷酷とも称されるミュラー家の御曹司であることは皆が知っていた。
 何故ならば聞かれるがままにルナは無邪気に答えたからだ。
 こんな無知で教養もない小娘だ。
 エアハルトもただの気まぐれですぐに飽きるだろうと彼女達はなんとか自分自身を納得させた。
 
 しかし、その後の長い間店に顔を出さないエアハルトは部下に莫大な金を持参させて支配人にルナを買った金として支払い続けたのだ。
 その見目も麗しいエアハルトの部下は何度か店に来て金を落としている上客で、彼の身分が軍でも高い位置にあることは知られている。
 更に金だけではなく、店では滅多に食べれない菓子やお茶、洒落たドレスに、光るアクセサリーなど女が喜ぶであろうものを土産と称してルナに与えていた。
 そしてその男も決してルナに手をつけないのだ。
 男は手をつけたら閣下に殺されるとお道化る。
 それを店の者達はエアハルトの並外れた独占力によるものだと認識した。
 悔しいが、今のルナに手を出せば自身の身を亡ぼすと彼女達は理解し、大人しくなったのだ。
 
 しかし、一人だけそれを許すことができない者がいた。
 
 女はこの店の古株で、店を代表する高級娼婦だ。
 その女はとにかく性格が穏やかで、争いを好まず、誰にも優しかった。
 元は没落したどこぞの貴族の娘で、教養があり、滲み出るような知性も備わった才色兼備の娼婦である。
 女は誰からも慕われていた。
 ルナにも唯一最初から優しく接し、よく面倒を看ていたのだ。
 
 だからこそ店の者は皆信じられなかった。
 
 彼女がルナを殺そうとしたことを。
 
 
 
* *
 
 
「階段から突き落とすとか、そんな可愛いもんじゃないっすよ?俺もちょうど現場にいたんすけど、凄いのなんのって。憲兵隊が引くぐらい凄い。ハサミ振り回してルナの髪を切ろうとしたのかなんなのか店中追いかけまわして、最後には素手で飛びかかって首絞めるんすよ。周りに止められて全力でルナから引き剥がしても、ドレスの裾に噛みついて放そうとしない。あれで無理やり剥がしたら前歯折れて美人が台無しになって、見てて本当可哀相で。閣下宛の脅迫状なのか恋文なのか遺書だか分からない手紙まで書いてたから、本気の本気だったんすねあの女」
 
 リリーはその話を途中まで聞いて、その娼婦が誰でなんの目的でルナを害そうとしたか理解してしまった。
 
「あんたも知ってるんじゃないっすか? 閣下と一番長く続いた娼婦っすから」
「……馬鹿なことをしたな」
「ははは…… 気持ちは滅茶苦茶わかるっすよ、俺」
 
 リリーがまだ軍隊にいた頃、何度かエアハルトを娼館に送り届け、そして迎えに行ったことがある。
 そのときにほぼ毎回出迎えていた娼婦の顔も名前もリリーは覚えていた。
 元は名のある貴族の娘ということで、その身のこなしには並の貴族の令嬢では太刀打ちできないであろう。
 娼婦にはとても見えない清楚な女性だった。
 エアハルトは性欲さえ満たされればいいと思っているため、特定の娼婦に入れ込んだことがない。
 その娼館に通うのも国の法律に満たす衛生管理と性病対策を行っていたからだ。
 更にエアハルトは店から用意された避妊具よりも自分で持参した避妊具を使う。
 リリーも男も女もない軍人時代にその避妊具をわざわざ届けに行ったことがある。
 エアハルトがそこまで気を使うようになったのはちょうど三年前であり、当時は一体どんな心境の変化があったのかと疑問に思った。
 それも今ならある程度推測できる。
 三年前といえばちょうど主夫妻が秘密の婚約を結んだ時期だ。
 そして同時にもう一つの事実に気づいた。
 
「三年前か。その娼婦と閣下の出会いは」
 
 リリーの言葉ににやにやとライナスは笑って続けた。
 ライナスも当時は気づかなかった。
 
「そう。閣下がもっとも長く付き合って、ルナを殺そうとした女は元貴族令嬢。争いを好まず、誰にでも分け隔てもなく優しい、まるで女神のように麗しく…… まぁ、閣下が無意識に選ぶのも無理はないんじゃないっすか?」
「……」
「その女も、哀れっすよね~ 閣下みたいな冷たい美丈夫に自分だけ毎回指名されて出迎えも許可してくれるってなったら誤解しちゃうっすよ。しかも閣下は身分もめちゃくちゃ高くて、地位も財産も将来性もピカ一! 年下の青年将校に身請けされることぐらい考えてたんじゃないっすか? 無謀にも」
「…………」
「それなのに、いきなり出て来たガリガリの小娘にあっさり奪われて、自分なんかとは比べものにならないぐらい特別に扱って……って目の前で見せられたら、嫉妬で気狂うっすよね。当のルナはただ自慢して嬉しそうにするだけ。おまけに周りは閣下との付き合いを知ってたから、捨てられた女って目で同情されるっていう地獄。歳も歳だしって若い女に負けたのも内心では悔しかったかもしれないっすね」
「………………」
「おまけのおまけで、自分が閣下に気に入られていた理由とか知っちゃったら、本当に遣る瀬無いっすよ」
 
 リリーは無言を貫いた。
 侍女長は手を止めずに万年筆を動かしている。
 彼女達はひたすら無言を貫いた。
 
「それで、憲兵に捕まるんすよ。最後は大人しく連行されてたんですけど、ルナが本当に馬鹿で。なんで自分が殺されそうになったのか、なんで憎まれているのかわかんないからって、せっかく落ち着いて来た女の前に出ちゃったんす。なんで自分を殺そうとするんだって、あんなに優しくしてくれたのにって餓鬼みたいに泣くんすよ。まぁ、餓鬼だったけど。そしたらあの女、最後に折れた歯で血まみれの顔で狂ったみたいに笑って、役立たずの憲兵を振り払って、店の大理石の柱に頭をどーん! って……もう血まみれで何日かあの店営業できなかったんすよ。もう一年以上経ってると思うと懐かしいっすね」
 
 一年前というとリリーはもう退役してミュラー家の侍女として修業の毎日を過ごしていた。
 まさかその時期にそんな事件があったとは知らなかった。
 
「あの店はこの国の上層部やら貴族やらの御用達の娼館っすから。そこはもう金やら身分をばらしたくない貴族とかのコネで見事事件は有耶無耶。ルナも一応無事なんで解決ってことに……は、もちろんならなかったっす」 
 
 
 
* * * 
 
 
 ルナは泣いていた。
 この店でいつも自分を慰めてくれていた優しい女が恐ろしい顔で自分を追いかけて殺そうとしたのだ。
 どうしてあんなことをするんだと、ルナは泣く。
 その姿を見た、傷の手当てをしていた娼婦の一人が小さく言った。
 
「本人に聞けばいいのよ」
 
 その娼婦の憎しみの籠った悪意にルナは気づかなかった。
 気づいたときには、優しかった女は血まみれとなっていたのだ。
 
 死体は貧民街にいた頃から見慣れていた。
 無惨にも殴り殺された男や全身の骨を砕かれた老人、犯されたまま全裸で路上に捨てられた女。
 それらはただの風景でしかなく、死体に何か金目のものや食べ物、使えそうな服があれば剥がしていた。
 最初から身ぐるみを剥がされた死体を見つけると先を越されたと悔しく思うぐらいだ。
 
 なのに、優しかった女の血まみれの顔と笑顔がずっと頭から離れない。
 そして店にいる全ての者が自分に憎しみを向けている気がする。
 誰も何も言わない。
 皆はどうしてルナが殺されそうになったのか知っているというのに。
 誰も、ルナを慰めてはくれない。
 
 ルナが事件のせいで塞ぎこんでいることを知ったエアハルトとその部下ライナスが店に来た。
 
 二度目の逢瀬に、ルナは美しく着飾られ、身体中に香油を塗られる。
 ルナはそのとき今度こそエアハルトに抱かれると思った。
 しかし例の部屋に案内されるとエアハルトは一人ではなく、その側にライナスがいたのだ。
 戸惑うルナに、エアハルトは例の事件のことについて尋ねた。
 ライナスからある程度聞いていたが、本人から直接話を聞きたかったのだ。
 
 ルナは、その質問に何も答えることができなかった。
 そしてまたぽろぽろと泣いた。
 ルナの黒い瞳から大粒の涙が流れると、エアハルトはそっとハンカチを差し出す。
 意外だと思い、ルナの涙は止まった。
 ルナが話せないことをエアハルトは責めない。
 やはり、この軍人は優しいとルナは思った。
 そして周りの反応からこの軍人が優しいのは自分にだけなのだと思い、今まで以上の幸福感を感じたのだ。
 ルナは支配人に今ここで贅沢ができるのはエアハルトのおかげだと言われた。
 せいぜい媚を売って感謝しろと言ったその言葉通りにルナはエアハルトに感謝の言葉を述べる。
 自分で言っている内にルナはいかにエアハルトに大事にされているか実感し、顔が真っ赤になった。
 そして自分が今差し出せるものは何かと考え、エアハルトとライナスの前で躊躇いもなく服を脱いだのだ。
 紐を一本ひけば簡単に全裸になれる。
 エアハルトは特に顔色も変えなかったが、ライナスは鋭い眼差しをルナに向けた。
 
「だ、抱いて、ください」
 
 ろくに言葉も知らないルナは散々仕込まれた店の決まり文句を口にした。
 エアハルトの目に妖しい光が宿る。
 緊張で目を瞑っていたルナは気づかなかった。
 全裸になって震えるルナを見つめるエアハルトの無機質な、ただ物体を観察するだけの熱のない視線に。
 そして少し離れた場所からエアハルトとルナの姿を見つめて薄く微笑むライナスの姿を、二人は知らなかった。
 
 
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