●鬼巌島●

喧騒の花婿

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第五噺『王の没落(後)』

四【春日童子対鈴鹿御前】

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 月夜草を予防として事前に飲んでいたため狂月病の心配はないが、ただ純粋に刀術に対しての不安が残っていた。


 焔夜叉のように強いわけでもないので、ここは少し怪我を負うことも覚悟しなければならない。


 振りかざした刀は一匹の犬の腹を抉ったが、致命傷にはならなかった。


 春日童子は再び刀を振ろうとしたが、左腕に咬み付かれてしまい痛みで思わず刀を離してしまった。


 刀は無常にも地面に落ち、からりからりと乾いた音を立てた。


「くっ」


 歯を食いしばったが、咬まれた場所が燃えるように痛い。


 その隙に、他の犬たちも春日童子を咬みに襲いかかってきた。


 すでに血まみれになった刀の切れ味は鈍り、再び刀を掴んで力を込めて犬を斬り付けようとするが、その太刀筋は揺らいでいた。


 もっと刀術を真面目にやっておけば良かったと今更後悔しても遅い。


 すでに数ヶ所咬まれてしまった春日童子は、庭によろめいて倒れ込んだ。


 咬まれた傷から血が滲み、頭がくらくらした。失血死は避けたいところだ。


「弱いな。先程の赤鬼とは雲泥の差だ」


 ふと、鈴鹿御前の隣に立った武人が、春日童子を見下ろした。


 春日童子は彼を見上げ、睨み付ける。あれが坂上か、とその姿を忘れぬよう食い入るように見つめた。


 刀を振り、ようやく一匹だけ倒すことが出来た。


 刀を杖代わりにして自らの身体を支えると、未だに威嚇している犬に見向きもせず、鈴鹿御前を見据えた。


 鈴鹿御前はそれに気付いて犬笛を構える。


 春日童子が走り出すと同時に、鈴鹿御前が犬笛を吹いた。


 鈴鹿御前に向かって走る春日童子を追うように犬が走っていたが、咬み付かれても構わずに一直線に鈴鹿御前の元へと春日童子は走った。


 血飛沫が軌跡となって春日童子の後方を象る。


 坂上は驚いて鈴鹿御前から犬笛を取り上げ、大きく吹いた。すると犬たちは何故かその場から去って行った。


 あまりにも素早い犬たちの退散に、春日童子は目を見張った。


「守護隊、出陣!」


 襖が開き、多数の人間たちが現れた。このために犬を退散させたのだ。


 刀を構える者、そして大豆を大量に掴んでいる者、それぞれが春日童子に向かって飛び掛ってきた。


 人間はともかく、清めの豆に当たるとまずい。


 刀を刀で防ぎ、春日童子は彼らを避けながら裏切りの鬼の元へと走る。


 だが、投げられた清めの豆に肩を当てられてしまい、焼けるような痛みに思わずその場に倒れ込む。


「うっ……」


 肩を押さえ地面に転がり、痛みを和らげようともがく。肩からは細い煙が上がっていた。


 清めの豆に当たり過ぎると肉と皮が溶け、爛れてしまう。


 春日童子は豆に当たらないよう、気合いを入れて立ち上がると、鈴鹿御前一点を見据えた。


 目に自分の血が流れ込み、春日童子の視界を曇らせた。


 鈴鹿御前は、春日童子が近付いてきたことに驚いて屋敷の奥へと逃げるように後ずさった。


 人間の投げた豆がいくつか当たった。その度に肉から細い煙が上がったが、今は気にしている場合ではなかった。


 彼女をかばうように坂上も前に出てきたが、春日童子の狙いはたった一つだけだった。


「退け、人間。ボクの刀の軌道に入ってくるな。でないとお前共々斬るぞ」


 息を整えながら静かな声で春日童子が呟く。それでもなお坂上は退こうとはせず、その代わりに刀を構えた。


「武の達人と云われる私に立ち向かうなどと、おこがましいものよ。かかってきなさい、弱き青鬼よ」


 構えた刀は今ある刀のどれよりも輝きを発していた。かなりの名刀だと見受けられる。


 春日童子は片腕の全てに自分の力を込めると、刀を構え直した。


「我が名刀『そはや丸』よ、私と共に鬼を倒そう」


 坂上は刀を大きく上に掲げたと思ったら、春日童子に向かって斬りかかってきた。


 春日童子にしたら、人間の刀術など別に怖くはないのだ。ただ恐ろしいのは向かってくる彼の、鬼に対する深く激しい憎悪の心だった。


 春日童子は軽く刀を振った。大きな音を立てて坂上が後方に飛ばされるのを見た。


 いくら武の達人と囃されようとも、鬼にとっての敵ではないのだ、人間などは。


「馬鹿だな。人間が鬼に腕力で敵うはずがないのに」


 刀を持ち直すと、鈴鹿御前に向かって対峙した。


「坂上様!」


「安心しなよ、峰打ちだから。肋骨くらいは折れたかもしれないけどさ」


 さすがに神命以外で人間を殺めたら天狗が神に報告し、罰せられてしまうかもしれない。そんな怖い賭けは嫌だった。


「さてと、邪魔者は消えた。鈴鹿御前、覚悟!」


 刀を持ち直し、今度は鈴鹿御前の額の上にある一本の角に向かって刀を振った。


 彼女は大通連を構えることをせず、諦めたように目を閉じた。


 鈴鹿御前の額からは折れた白皙の角がごとりと鈍い音を立てて畳の上に転がった。


 体制を崩して畳に倒れた春日童子だが、すぐに立ち上がって目にかかる血を着物の袖で拭いながら刀を構えた。


 この際身体中から湧き上がる痛みは忘れることにした。


「いやあ!」


 鈴鹿御前は先程まで角があった場所を押さえ、痛みに耐えるように畳の上に倒れ込んだ。


「貴様、鈴鹿に何をする!」


 起き上がった坂上が、そはや丸を抜き取り構えたが、それほど恐ろしいとは感じなかった。


 斬りかかってきた坂上の刀を軽くあしらうように片手で跳ね返すと、再度坂上は後ろに吹き飛んで障子を何枚か壊した。


「あーあ。今度は背骨をやったかな。お大事に」


 春日童子に何十人もの人間が斬りかかってきたが、全て一匹で軽く打ちのめした。


 人間たちは打ち身で全員が畳の上に転がった。


 人間の刀術よりもむしろ彼らの投げる清めの豆が恐ろしいのだが、そんなことを丁寧に人間に教えてやる義務もなかった。


 落ちた角を手探って、鈴鹿御前は額を押さえて苦しそうにしている。


 そんな彼女の元に立ち、春日童子は彼女の額に刀を当てがった。


「よせよせ、見苦しい」


 春日童子の額から、血が滴り落ちて睫にぽたりと垂れた。


 身体のあちこちに豆をぶつけられ、火傷をしたように熱く痛むのを感じる。


 目に垂れた血を拭い、鈴鹿御前を見下ろす。


「角は、私の角はどこでございますか……」


 消え入るような声に、春日童子はしゃがみ込んで彼女の顎を持ち、こちらに向けさせた。


「鬼の象徴は今後の君にとって最も必要のないものだろう? 感謝して欲しいくらいだ。これで君はどこから見ても人間らしい外見になったじゃないか」


「ひどい……」


「人間が好みそうな、綺麗な外見になったじゃないか。ボクとしては、鬼の頃の君程魅力は感じないけれど」


 苦しそうに笑みを浮かべ冷たい声で言い放った春日童子を、懇願するように大きな目で彼女は見つめた。


「私の角を、お返し下さい……」


 春日童子は地面に転がっていた彼女の角を拾い、自分の額に当ててみた。


「ボクは君のことを殴りたいけれど、女性に対して失礼にあたるから、だからこの角を頂いていく。鬼としての尊厳は君にはもうない」


 言い放った春日童子に、鈴鹿御前は彼を睨み付けるように見上げた。


「もしも心変わりをしたとき、再び鬼側に戻れないように?」


 その言葉に春日童子はぴくりと眉を動かした。


「春日童子様は、私が人間に飽きても、もう鬼ヶ島に戻ることのないよう、そういう処置をされたのですか?」


「そんな軽い覚悟で人間側に付いたわけでもないのだろう?」


 春日童子は呟いた。


「君の合理主義は嫌いじゃない。長いものに巻かれるのは、賢い生き方なのだろうね。特に、鬼ヶ島ではろくに仕事のない女性の鬼は。でも、信念を貫く者にとって君は少々ぶれているんだよ」


 春日童子は呉葉の顔を思い浮かべながら言葉を紡いだ。


焔夜叉を踏み台にし、その上何の代償もなく幸せに暮らすことなどは許せなかった。

*続く*
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