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第十二章
夢
しおりを挟む飛び交う怒号の間に、聞き覚えのある名前が響く。
ネロは何処だ、こちらに逃げたはずだ――違う、こいつはスポルスだ、ああ、あのネロの情夫か!
スポルスが見つかってしまったのか。
止めかけた足を、それでも前へ進めたのはスポルスがルキウスに逃げろと言ってくれたからだ。
共にいなければ、罪のないスポルスだけならば、害されない可能性はある。
――否、彼らは何と叫んでいた?
スポルスのことを、ネロの情夫と言ってはいなかったか。
勿論、そのような関係になったことはない。
けれど民衆は、醜聞が大好きだった。噂される人物の身分が高ければ、高い程。
真相は関係ない。面白ければ噂は広がり、やがて真実と信じられる。
ならば、邪神とまで罵られたネロの情夫と思われているのであれば――片棒を担いだと誤解されているのであれば、スポルスも危険なのではないか。
我に返った時にはもう、遅かった。
闇夜に響き渡ったのは細く長い断末魔――スポルスの、悲鳴だった。
ああ、もう何もかも終わりだ。
何の希望もない。進む先は、絶望しかなかった。
「――はっ……ははっ……」
不意に、おかしくなる。
足の力が抜け、ガクリと膝を地に着いた。
押し寄せてくる絶望に胸が痛いのに、気分が楽になったような気がするのは何故だろう。
両手で顔を覆って、低い忍び笑いを洩らす。
ずっと、死が纏わりついてきた。
義父、クラウディウス帝の死、ブリタニクス、母、オクタヴィアとガイウス、そして最後にはスポルスまで死んでしまった。
それだけではない。クリストゥス信仰者や陰謀事件に関わった人間など、数多くの命が失われた。
ルキウスが生きる、その代わりに死んだ人々だ。
切なかった。できることならば、不穏な死とは関わりなく過ごせる人生を送りたかった。
悲しかった。ただ、愛しい人と幸せな時を刻んでいきたかった。
あの、幸せだった日々を終わらせたくはなかった。
――ああ、けれどあれは全て、夢だったのかもしれない。
不意に、おかしな考えが浮かぶ。
今、ここに生きている、それこそが誰かの夢なのではないか。
それともこれは私が見ている夢で、明日の朝目覚めたら、全く別の私がいるのではないか。
目覚める方法はただ一つ――この世界で、永遠の眠りを手に入れる事だ。
ゆっくりと開けた目に映ったのは、満天の星だった。
星々に負けじと、弓型の月も皓々と照っている。
妙に、晴れやかな気分だった。
やっとで終われる。辛い日々から解放される。これでようやく、楽になれる。
座り込んでいたルキウスの耳に、怒号が聞こえた。飽きもせずに叫ばれる、嫌悪に満ちた「暴君ネロ」を罵る声が。
やはり今が、決断の時。
罪人とはいえ、自決した遺体を辱めることはない。それがローマの、自ら命を絶った者に対する最低限の敬意だった。
もっともそれはあくまで慣習であって、確実性はない。民衆がネロを心の底から憎んでいれば、話は別だった。通常の罪人のように裸で吊るされ、見世物にされる可能性も否定できない。
念には念を入れる必要がある。重石を抱いて海に沈む方が、確実だった。
もし数カ月後に発見されても、水死体は顔や体の判別がつきにくい。女であることは知られても、ネロだとは思われないだろう。
くすりと笑みが洩れる。命からがら、逃れてきたのがオスティア港だったのは、無意識の内に死に場所を求めていたからだったのか。
もう、思い残すことはない。愛する者のいない世界には、何の未練もなかった。
――否、無念はあった。
結局、神になることができなかった。それどころか、死の直前に罪人にまで貶められてしまった。
オクタヴィアを地獄から救い出し、天国へ導くことができなかったのだ。
だけど大丈夫。私も、すぐに行くから。
一度は反故にしてしまったけれど、今度こそ約束を果たそう。
ずっと傍に居る――いつも隣りに居て、地獄の業火から君を守ってあげる。
大好きだよ、オクタヴィア。
思う傍らで、愛しているのはガイウス、あなた一人だと付け加える。
私は、気が狂れてしまったのだろうか。
「――ネロ」
自嘲が笑いを引き起こした時、背後から声がかけられた。
びくりと身が竦む。
喧騒はまだ遠いと思っていたのに、これ程近くにいたのか。
愕然とした理由は、それだけではない。聞こえた声に、覚えがあった。
忘れるわけがない。
振り向かなくとも、誰であるかはわかっていた。
それでもあえて振り返る――複雑な笑みを刻んで。
「久しぶりだな――オト」
もう何年も前に別れた、かつての親友。オクタヴィアを汚し、ルキウスに不幸の種を植え付けた張本人だった。
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