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第十二章

邪推

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「――スポルス、起きろ」

 自分一人であればきっと、諦めていた。
 けれどルキウスを慕い、他に頼る者もいないスポルスがいる。ルキウスの庇護者として過ごした彼が残された場合、処遇に温情は期待できない。

 ひとまず、逃げることが最優先だった。この状況ではもう、エジプトに渡ることも難しい。
 ならば一旦身を隠し、ほとぼりが冷めた頃を見計らって、ヴェスパシアヌスを頼ろう。
 ほんの一年前、惜しげもなくコリントス地峡のための労働力を送ってくれた。彼には、他の元老院議員にはない、忠誠心がある。

 あるように、思える。

「……ネロさま……?」

 ルキウスに付き合い、日中を慌ただしく過ごしていたスポルスは、すっかり寝入っていた。深夜に起こされ、眠そうに目元をこすっている。
 可愛いスポルス――彼のおかげで、どれだけルキウスの心は救われただろう。

「疲れているだろうが――すまない。逃げるぞ」

 潜伏生活の中、再会した時と同じような状況にさせてしまうかもしれない。その日の食事にも困り、風呂にも満足に入れず、汚い身なりで街をさまよう可能性もあった。
 それでも、置き去りにはできない。共にあれば、なんとか乗り切れるはずだ。

 スポルスが寝ぼけた目を向けたのは、わずかな間だった。ルキウスの低い声と真剣な表情で、事態を理解したのだろう。すぐに顔を引き締め、首肯する。
 外套を羽織り、少しの金だけを持って、セルヴィリウス庭園を後にした。

「――ふふっ」

 街中に紛れ込んでしまう方が、おそらく目立たないだろう。使われていない空き家もあるはずだし、ああそう言えばガイウスの住んでいた館は無人のまま残されているはずだと思い出す。
 考えを巡らせ、スポルスの手を引きながら走る中で、ふと笑みが零れた。
 窮地の中、急に笑い出せば不思議にも思うだろう。怪訝な表情のスポルスに、いや、と苦笑を返した。

「懐かしいと思ってな。初めて会った時も、こうやって二人で走ったなと思い出して」

 本当は、すでにいないガイウスを、それでも頼りに考えてしまう自分への自嘲だった。
 もっとも、口にしたのも嘘ではない。ローマを襲ったあの大惨事の時、火と煙が広がる中二人で逃げたことが、ほんの数年前の出来事のはずなのに、遠い昔のように懐かしかった。
 あの時は、ガイウスも一緒に居たか。
 思考が沈む前に、スポルスがああ、と笑った。

「ネロさまのことを、お姉ちゃん、なんて呼んだんですよね、僕。――でも、あの時は女の人に見えて」

 ごめんなさい。薄く笑っての謝罪に、頭を振る。
 実際、ルキウスは女なのだ。そう見抜いたことがスポルスを気に入る一因となったのだから、謝られる必要はない。
 再会してから、一年程だろうか。さらに身長が伸びたスポルスは、もうルキウスとほとんど変わらない。
 こうやって繋いでいると、大火の時の小さな手が思い出されるが、今ではルキウスよりも大きくなっている。

 やはり男と女は違うのだと、改めて認識させられた。

 もっとも、思い出に懐かしく浸っていられる場合ではない。スポルスと連れ立って走るルキウスの耳に、喧騒が聞こえてくる。
 それ程遠くはない。慌ただしい足音だけではなく、ネロは何処かと怒鳴る声も聞こえた。
 決して、好意的ではない。敵意――殺意すら込められた、声。

「そう、僕はあの時、あなたに助けられた。再会して、拾ってもらって――また、助けられた」

 スポルスが、ぴたりと足を止める。手を繋いでいたから進むことができず、ルキウスも前のめりに躓くような形で止まった。
 けれど、その手も振り払われてしまう。

「――スポルス……?」

 逃げなければならない理由は、わかっているはずだ。物事を理解できない程幼い子供ではなく、それでなくともスポルスは人一倍賢明なのだから。
 立ち止まっている暇などないのが、わからないはずがない。

 訝しく振り返ると、スポルスはにっこりと笑った。

「今度は、僕の番だ」

 眉間に寄った皺は寂しげで、それでも唇を飾る笑みは何処か嬉しそうで――

「今までありがとうございました。ネロさまはこのまま進んで下さい」
「私は? お前はどうする。まさか――」

 囮になるつもりか。
 続けかけた言葉は、くすりと笑う声で遮られる。

「まさか。僕を助けると思って、先に行って下さいと言っているのです」
「どういう意味だ。莫迦なことを言っていないで――」
「僕は、ネロさまではありません」

 随分走ったのに、スポルスは軽く息を乱している程度だった。
 ルキウスは、足を止めた途端に汗が流れ出してくる。呼吸も辛い程、心臓が嫌な悲鳴を上げていた。
 男女の差だけではない。若さと、何より酒に溺れ、鍛錬を怠っていた結果だろう。

 ――なんと、情けないことか。

「民衆の目当ては、ネロさまです。僕はただの従者、彼らにとって捕らえても何ら得にはならない」

 だから、僕だけなら大丈夫。

 笑みを刻むスポルスの言葉を、鵜呑みにすることはできなかった。
 同時に、納得もする。二手に分かれ逃げた場合、ルキウスとスポルス、民衆が追うのは当然ルキウスだった。
 一緒に逃げても、体力の衰えたルキウスが彼の足を引っ張る可能性は否定できない。
 スポルスのために分かれた方がいいのは、事実かもしれなかった。

 理知的な顔を見つめ返す。
 可愛いスポルス――美貌だけではなく、美徳を兼ね備えたこの少年を、誰が害するというのか。

「――わかった。だが、どうか無事で……」
「ネロさまこそ。――ご健勝を、お祈りいたします」

 畏まって頭を下げるスポルスを、本当は抱きしめたかった。込み上げてくる愛しさに、離れ難い想いが湧き起こる。
 けれど感傷を振り切って、ルキウスは駆け出した。

「――ネロだ! ネロがいたぞ!」

 背後で叫ぶ声が聞こえたのは、幾らも進まない内だった。
 もう、見つかってしまったのか。
 考えたのは、一瞬だった。すぐに、声の主を知る。

 ――スポルス。

 この、最後の場面で、スポルスにまで裏切られるのか。

 思わず足を止め、振り返るルキウスの目に映ったのは、踵を返し、今来た道を走って戻るスポルスの背中だった。

「あちらだ――セルヴィリウス庭園の方向に逃げた!」

 道の端に置かれた消火道具を蹴り飛ばし、派手な音を立てて走って行く。

 なんという、愚かなことを。
 自分のためだと言ったスポルスは、やはり囮になるつもりだったのだ。
 喧騒は、確かに近付いてきていた。だからこそ大声で叫んで注意を引き、ルキウスとは逆の方向へと逃げた。
 ルキウスを、守るために。

 なのに、裏切りを疑うとは――なんと愚かで、醜悪なことか。

 すまない、スポルス。
 疑ったこと、そして追っ手を引きつけてくれたこと、謝罪と感謝は筆舌に尽くし難かった。

 追いかけ、共に行きたい。
 気持ちを飲み込んだのは、それこそスポルスの想いを無に出来ないと思い直したからだ。
 二人とも無事に逃げられたら、きっと会える。
 何の保証もなかったけれど、奇跡の再会を果たした二人なのだから、きっと。
 再びその奇跡を祈りながら、ルキウスはまた走り出した。
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