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第十章

絶望

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「話をした結果、ペトロニウスは君の言ったことを認めた。よって、自決を申し渡した。おそらく今日にでも、死亡の報が届くだろう」

 翌日の午後、不安げな顔をして現れたティゲリヌスに、何食わぬ顔で告げてやった。
 ルキウスにとって、大したことではなかったからだ。確かにガイウスとの別れは辛い。けれど自決が狂言だと知っているのだから、これから多岐にわたるであろう彼の幸せを願う気持ちの方が、強い。
 案の定、ティゲリヌスの顔には安堵と共に笑みが浮かぶ。
 ガイウス・ペトロニウス死去の知らせを持った使者が現れたのは、嬉々としてティゲリヌスが退室した直後だった。

「で? 彼の最期はどうだった」

 何気なしに、問いかけた。自殺したように見せかけるため、彼がどのような手段を使ったのか、知りたかったからだ。
 使者は、表情を暗くしたまま語り始める。

「会食を開き、饗宴の最中に手首の血管を切り裂かれました。ご友人達と談笑しながら、眠るようにお亡くなりになりました」

 それでは、身代わりを立てることもできないではないか。
 愕然とする。
 そして使者ははっきりと口にした。死亡したのは、ガイウス・ペトロニウスだったと。

「では――それでは、彼は本当に死んだのか……?」

 声が、掠れる。
 思わず発した問いかけは、愚鈍だった。死に本当も嘘もないだろう、訝しげな顔が使者の気持ちを表していた。

 急激に乾いた口の中で、嘘だと小さく繰り返す。
 ルキウスは言ったはずだ。死んだことにして、何処かに逃げてくれと。
 なのに、死ぬはずがない。あのガイウスが、ルキウスとの約束を破るはずがない。
 どうか、幸せになってくれと言ったはずなのに。

「ペトロニウス様から、陛下宛ての手紙をお預かりしましたが――」

 困惑した表情の使者が差し出す手紙を、ひったくる。
 皇帝にあるまじき、不作法だった。けれど使者の目を気にする余裕もなく、震える指先で手紙を開く。
 うまく力が入らない。他者の目に触れないようにと考慮されたのか、幾重にも折られた紙は、ともすれば破ってしまいそうになる。
 けれど、もたもたと開いた手紙の内容を読むのは、ほんの一瞬で事足りた。
 ただの、一行だった。

 お許し下さい、これが私に残された、唯一の幸せです。

 走り書きのような筆跡が、死に瀕した際の物だと物語っていた。

「――下がれ」

 使者に背を向け、呟く。
 重要な言伝を運んで来たのだ。本来であれば、労いの一つもかけてやるべきだっただろう。
 けれど、そのような振る舞いができるはずがなかった。

「陛下……?」
「下がれと言っている! 聞こえないのか」

 震える肩を見て、おそらくは心配したのだろう。か細い呼びかけに、怒鳴り返す。
 はっ、と切れの良い返事には、怒気が含まれていた。せっかく心配してやったのにとでも思っているのかもしれない。

 完全に、八つ当たりだった。
 爆発した感情を、抑えられない。受け止めてくれる人はもう、何処にも居ない。

 肩越しに睨みつけると、使者は必要もないのに正式な礼を返す。皮肉だったのだろうか。
 退室する彼を、呼び止める気もないけれど。
 扉の向こうに、使者の背中が消える。

 ようやく、一人になれた。これで――泣くことができる。

 ガイウスに自決を命じたルキウスが、他者の前で涙を見せるわけにはいかなかった。

 ――これで、とうとう一人になってしまった。

 一人になれた、なってしまった――安堵と絶望が一緒に押し寄せてくる。

 ブリタニクスやオクタヴィア、アウグスタに続いて、ガイウスまでも逝ってしまった。
 ガイウスは言っていた。あなたの傍に居られることが幸せなのだと。それが奪われるのならば、死こそが唯一の幸せだということか。

 ならば何故、もっと抵抗してくれなかったのか。
 離れるくらいならば死んだ方がいい、あなたなしでは生きられない――熱烈に訴えてくれていればきっと、ルキウスは思い直していた。ルキウスとて、決して彼を手放したい訳ではなかったのだから。
 彼に幸せになってほしいからこそ、別れてほしかったのに。何処かで幸せに暮らしている、そう思うことが心の拠り所だったのに。

 幸せになってくれと願ったルキウスへの、最高の皮肉だ。

 あなたは、それでいいのかもしれない。楽になれたのだろう。
 けれど残された私はどうなる?

 もう答えてはくれぬガイウスに、問いかける。愛しさが募り、恨めしさが高まった。
 ルキウスはこれから、この孤独と絶望に耐えていかなければならない。

 ――耐えるだけの価値が、この世の中にあるのか?

 反射的に、護身用の短剣を握りしめた。
 これを喉に突き立ててしまえば、楽になれる。

 死ぬことは簡単だ。けれど――固く閉じた瞼の裏に、ブリタニクスの面影が映った。
 皇帝であることは、彼に対しての義務だ。――もう、呪いに等しい程に、ルキウスには重くのしかかってくる想い。

 ここで死ねば、遺体は検められる。男ではないと、知られてしまう。
 皇帝ネロの名は、歴史の闇に葬られ、自分が存在そのものが消されてしまうだろう。

 これ程、辛く、苦しい思いを抱えて生きてきたというのに、全て幻になってしまうのか。
 オクタヴィアと――ガイウスと過ごした日々が、消える。

 手にした短剣を、机に突き立てた。
 死ぬことは、許されない。理性がわかっていても、感情は伴わなかった。
 逃げたい。政治からも、この世からも。
 ルキウスをその心境に追いやりながら、一人で逃げたガイウスが恨めしく思えて仕方なかった。
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