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第九章
陰謀
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ルキウスを悩ませる問題は、山積みだった。
そのような中、救いとなる出来事が起こる。統治初期に起こったアルメニア戦争が、終結を告げたのである。
もっとも、戦いに勝った、という訳ではない。ルキウスが派遣したコルブロという男は、任地に着くなり和平交渉を始めたのだという。
そもそもの始まりは、紀元前にまで遡る。幾代も戦い続けた、難儀な相手だ。
一世紀前、カエサルと並び評されるポンペイウスでさえ苦労した敵。ようやくローマ領にしたけれど反抗は止まず、しかもそこに、パルティア王国まで絡んできたのだから、事態は大変だった。
元々のアルメニア王、ラダミストゥスは戦争の混乱の最中、行方不明になったのだという。おそらくは、何処かで殺されたのだろう。
王が不在となったアルメニアに、パルティア王、ヴォロゲセスは弟を送りこみ、王国を支配してしまった。
秩序に欠け、また、道理的にも許されざる行いをした相手を、倒す。理はローマにあった。
けれど、過去の偉大なる英雄達が挑み、なお屈服させられなかった相手と、更にややこしい事態になっている今、正面きって戦うのは得策ではない。
穏便に事を収めようとしたコルブロの判断は、賢明だった。
ヴォロゲセスの弟、ティリダテスをアルメニア王と認める代わりに、王冠授与式をローマで行うこと。
皇帝ネロの前において、初めて正式の王となること――この条件を、ヴォロゲセスは飲んだ。
パルティアは実を、ローマは名誉を受けるという、折衷案だった。
確かにアルメニアは魅力的な土地ではあるが、それ以上にパルティア王の友情を得る方が得策である。
ローマを訪れたヴォロゲセス、ティリダテスの両王を、下にも置かぬ歓待で迎えた。そして、街をあげての大祝祭としたのである。
二人の好意を得るのとはまた別に、ローマ市民に祭りを提供する目的もあった。
非情な皇帝と誹りながらも、遊興を与えれば市民達は浮かれ騒ぐ。物欲を刺激してでも人気を保つ必要があることに、ルキウスも気付いてはいたのだ。
その目論見は、成功だった。
ヴォロゲセスとティリダテスはルキウスに、多大な感謝と好意を惜しげもなく表した。
市民達も、昔の呼称――「アポロンなるネロ」と歓呼した。
大火の前も後にも、問題は起こり続ける。アルメニア戦争終結は、ようやく見え始めた光明だった。
――だがそれも、長くは続かなかった。
ある日の明け方、一人の男がルキウスの宮殿を訪ねて来た。
建設中を大火で焼かれたあの宮殿の代わりに建てられた、黄金宮殿とも呼ばれるルキウスの新居に、だ。
もっとも、以前の宮殿もそのまま残してある。しかし、オクタヴィアやアウグスタと過ごした所にいると、どうしても面影を追ってしまう。
増して、形ばかりの妻とはいえ、ポッパエアとそこで暮らし続けるのは心苦しかった。
オクタヴィアとの思い出に浸りたい時だけ、あの場所に戻る。そういう生活を続けていた。
こうやって、政治的な尋ね人もある。せっかくの思い出を、汚されたくなかった。
男の名は、ミリクス。元老院議員のスカエヴィヌスに仕える、解放奴隷だった。
本来であれば、皇帝との面会が通る人物ではない。けれど彼にとって幸いなことに、ガイウスの訪問と重なった。
ミリクスが訴える、「皇帝の命に関わること」との発言に、話を聞いてみてはどうかと促されたのだ。その結果、こうやって目通りが叶ったのである。
「この剣を、ご覧下さい」
床に跪いたまま、ミリクスは短剣を捧げ持つ。
刃物を持つ人間を皇帝に近付けるわけにはいかない。説明するまでもなく、仲介の役割のため、取りに行ったガイウスから短剣を受け取る。
よく研ぎ澄まされたいい剣だった。柄に施された装飾もまた、豪華である。
だが、そこそこに高価な物ではあるのだろうが、特筆すべきものもない。矯めつ眇めつした後、ルキウスは首を傾げてミリクスを見る。
「主人、スカエヴィヌスは、恐れ多くも皇帝暗殺を目論んでいるのです」
また、陰謀事件か。
命に関わる、などと言っていたから、そうだろうとは思っていた。だがはっきりと口にされると、やはり気が滅入る。
「証拠はあるのか?」
溜め息を吐いた後、問いかける。
ミリクスはしっかりと頷いて、頭を上げた。
「その短剣は、主人に渡された物です。大事なことに使うのだから、しっかり研ぐようにと命令されました。主人は、その――以前より皇帝陛下を快く思っておりませんでしたので。その上で大事な事とは、陛下の暗殺に使われるのではないかと――」
「それは真実か? それとも憶測か」
話を聞いている限り、ミリクスは直接、暗殺計画を知らされたわけではない。
違っていてほしい、そう願う気持ちが問わせた事柄だった。
質問に、ミリクスは黙り込む。はっとしたように目を見開いた後、俯いてしまったので、その表情をうかがい知ることはできなかった。
何故、答えられないのか。何か、やましいことがあるのではないか。
「――皇帝」
眉間に力が入るのを自覚した時、横からガイウスに声をかけられる。
「その質問には、答え辛いでしょう。はっきりと聞かされたわけではなさそうですし。ただ、それでも慌てて知らせに来てくれた、彼の忠誠心は本物です」
ルキウスが疑心に傾きかけていたのを察したのだろう、口の端に軽く苦笑を交えての言葉だった。
言われてみると、確かにその通りだ。ミリクスのような一市民にとって、皇帝が暗殺されようがされまいが、大した問題ではない。トップが変わったところで、生活が大きく変わるわけでもないのだから。
門前払いの可能性も、先程ルキウスが抱きかけたあらぬ疑いをかけられる恐れすらあったのに、だ。
無論、短剣を預けられたという不確かな情報だけで鵜呑みにすることも危険だった。
少し考えて、ガイウスへと目を向ける。
「明日、スカエヴィヌス殿を呼ぶよう、手配してくれるか」
「それでは――!」
「とにかく、話だけは聞いてみる」
陰謀事件が事実であるにせよ、間違いであるにせよ、もうミリクスはスカエヴィヌスの元には戻れない。
スカエヴィヌスを呼び出す主旨を聞けば、一定の信頼を得られたとミリクスが喜ぶのは当然だった。
とはいえ、無責任に約束もできない。
勿論、スカエヴィヌスと話をした結果、もし間違いであっても、ミリクスの身柄は預かるつもりではあったが。
ひとつ笑みを向けて、別室でミリクスを休ませるように指示をした。
そのような中、救いとなる出来事が起こる。統治初期に起こったアルメニア戦争が、終結を告げたのである。
もっとも、戦いに勝った、という訳ではない。ルキウスが派遣したコルブロという男は、任地に着くなり和平交渉を始めたのだという。
そもそもの始まりは、紀元前にまで遡る。幾代も戦い続けた、難儀な相手だ。
一世紀前、カエサルと並び評されるポンペイウスでさえ苦労した敵。ようやくローマ領にしたけれど反抗は止まず、しかもそこに、パルティア王国まで絡んできたのだから、事態は大変だった。
元々のアルメニア王、ラダミストゥスは戦争の混乱の最中、行方不明になったのだという。おそらくは、何処かで殺されたのだろう。
王が不在となったアルメニアに、パルティア王、ヴォロゲセスは弟を送りこみ、王国を支配してしまった。
秩序に欠け、また、道理的にも許されざる行いをした相手を、倒す。理はローマにあった。
けれど、過去の偉大なる英雄達が挑み、なお屈服させられなかった相手と、更にややこしい事態になっている今、正面きって戦うのは得策ではない。
穏便に事を収めようとしたコルブロの判断は、賢明だった。
ヴォロゲセスの弟、ティリダテスをアルメニア王と認める代わりに、王冠授与式をローマで行うこと。
皇帝ネロの前において、初めて正式の王となること――この条件を、ヴォロゲセスは飲んだ。
パルティアは実を、ローマは名誉を受けるという、折衷案だった。
確かにアルメニアは魅力的な土地ではあるが、それ以上にパルティア王の友情を得る方が得策である。
ローマを訪れたヴォロゲセス、ティリダテスの両王を、下にも置かぬ歓待で迎えた。そして、街をあげての大祝祭としたのである。
二人の好意を得るのとはまた別に、ローマ市民に祭りを提供する目的もあった。
非情な皇帝と誹りながらも、遊興を与えれば市民達は浮かれ騒ぐ。物欲を刺激してでも人気を保つ必要があることに、ルキウスも気付いてはいたのだ。
その目論見は、成功だった。
ヴォロゲセスとティリダテスはルキウスに、多大な感謝と好意を惜しげもなく表した。
市民達も、昔の呼称――「アポロンなるネロ」と歓呼した。
大火の前も後にも、問題は起こり続ける。アルメニア戦争終結は、ようやく見え始めた光明だった。
――だがそれも、長くは続かなかった。
ある日の明け方、一人の男がルキウスの宮殿を訪ねて来た。
建設中を大火で焼かれたあの宮殿の代わりに建てられた、黄金宮殿とも呼ばれるルキウスの新居に、だ。
もっとも、以前の宮殿もそのまま残してある。しかし、オクタヴィアやアウグスタと過ごした所にいると、どうしても面影を追ってしまう。
増して、形ばかりの妻とはいえ、ポッパエアとそこで暮らし続けるのは心苦しかった。
オクタヴィアとの思い出に浸りたい時だけ、あの場所に戻る。そういう生活を続けていた。
こうやって、政治的な尋ね人もある。せっかくの思い出を、汚されたくなかった。
男の名は、ミリクス。元老院議員のスカエヴィヌスに仕える、解放奴隷だった。
本来であれば、皇帝との面会が通る人物ではない。けれど彼にとって幸いなことに、ガイウスの訪問と重なった。
ミリクスが訴える、「皇帝の命に関わること」との発言に、話を聞いてみてはどうかと促されたのだ。その結果、こうやって目通りが叶ったのである。
「この剣を、ご覧下さい」
床に跪いたまま、ミリクスは短剣を捧げ持つ。
刃物を持つ人間を皇帝に近付けるわけにはいかない。説明するまでもなく、仲介の役割のため、取りに行ったガイウスから短剣を受け取る。
よく研ぎ澄まされたいい剣だった。柄に施された装飾もまた、豪華である。
だが、そこそこに高価な物ではあるのだろうが、特筆すべきものもない。矯めつ眇めつした後、ルキウスは首を傾げてミリクスを見る。
「主人、スカエヴィヌスは、恐れ多くも皇帝暗殺を目論んでいるのです」
また、陰謀事件か。
命に関わる、などと言っていたから、そうだろうとは思っていた。だがはっきりと口にされると、やはり気が滅入る。
「証拠はあるのか?」
溜め息を吐いた後、問いかける。
ミリクスはしっかりと頷いて、頭を上げた。
「その短剣は、主人に渡された物です。大事なことに使うのだから、しっかり研ぐようにと命令されました。主人は、その――以前より皇帝陛下を快く思っておりませんでしたので。その上で大事な事とは、陛下の暗殺に使われるのではないかと――」
「それは真実か? それとも憶測か」
話を聞いている限り、ミリクスは直接、暗殺計画を知らされたわけではない。
違っていてほしい、そう願う気持ちが問わせた事柄だった。
質問に、ミリクスは黙り込む。はっとしたように目を見開いた後、俯いてしまったので、その表情をうかがい知ることはできなかった。
何故、答えられないのか。何か、やましいことがあるのではないか。
「――皇帝」
眉間に力が入るのを自覚した時、横からガイウスに声をかけられる。
「その質問には、答え辛いでしょう。はっきりと聞かされたわけではなさそうですし。ただ、それでも慌てて知らせに来てくれた、彼の忠誠心は本物です」
ルキウスが疑心に傾きかけていたのを察したのだろう、口の端に軽く苦笑を交えての言葉だった。
言われてみると、確かにその通りだ。ミリクスのような一市民にとって、皇帝が暗殺されようがされまいが、大した問題ではない。トップが変わったところで、生活が大きく変わるわけでもないのだから。
門前払いの可能性も、先程ルキウスが抱きかけたあらぬ疑いをかけられる恐れすらあったのに、だ。
無論、短剣を預けられたという不確かな情報だけで鵜呑みにすることも危険だった。
少し考えて、ガイウスへと目を向ける。
「明日、スカエヴィヌス殿を呼ぶよう、手配してくれるか」
「それでは――!」
「とにかく、話だけは聞いてみる」
陰謀事件が事実であるにせよ、間違いであるにせよ、もうミリクスはスカエヴィヌスの元には戻れない。
スカエヴィヌスを呼び出す主旨を聞けば、一定の信頼を得られたとミリクスが喜ぶのは当然だった。
とはいえ、無責任に約束もできない。
勿論、スカエヴィヌスと話をした結果、もし間違いであっても、ミリクスの身柄は預かるつもりではあったが。
ひとつ笑みを向けて、別室でミリクスを休ませるように指示をした。
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