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第九章

虐殺

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 出火後六日目に、エスクイリヌス丘の麓でようやく消火した。
 全てを焼き尽くし、広がるのは見渡す限りの焼け野原である。
 ローマ十四区のうち三区は焼失し、七区には倒壊した建物の残骸が散らばり、災害を免れたのはわずかに四区だけだった。新たに建設中だったルキウスの宮殿もまた、倒壊した。
 だがルキウスは、まだ良かった。今まで住んでいた宮殿は無事だったのだから。

 焼け出され、全てを失った市民の嘆きは深かった。
 呆然自失の市民達に、マルスの野やアグリッパ記念建造物、アグリッピナ庭園を解放した。それらの場所に応急のバラックを経て、民衆に提供したのである。

 ある程度事態が落ち着くと、いよいよ本建築に着手した。
 今までは皆が好きに家を建て、水道を勝手に引いていたせいで、ローマは火事に弱かったのだ。予防のためにも、区画整備は必須事項だった。
 街並みを整え、素材も燃えやすい木から石材へと変えさせた。空き地には消火用具を置く事も義務とし、私費で防火壁を設置する。
 そして、市民達には国庫からだけではなく、やはり私費で無条件で金を貸し、食料を配布したのだった。

 不思議な気分だった。
 間違いなく、大火は忌むべき出来事である。なのにその処理に追い回され、寝る間も惜しむ状況には、言い様のない充実感を覚えていた。
 震災地を訪れ、たった一言であろうと一人ひとりに声をかける。たったそれだけの事なのに、皆が辛いながらに笑顔を向けてくれるのだ。

 嬉しかった。無力な自分でも、彼らの役に立っているのだと実感できることが。
 そう、何もできないと諦めるのはまだ、早すぎる。できることはきっとまだ、残されているはずだ。

 けれどこの、あまりにも迅速な対応が、一部の市民に疑念を抱かせる結果となってしまった。

「ネロは新しく都を立て直し、それに自分の名を付ける、そのためだけにローマを焼いた」

 信じられない噂が、一人歩きする。
 ルキウスが放火犯だとすれば、何故自ら建設中の宮殿を焼くのか。そのような目的であるのなら、建設を始める前に火を放つだろう。
 何より、ルキウスの処置は市民達のことを考えての行動だった。実際、助かった者も多くいるはずである。
 感謝しろとは言わない。だが、悪し様に語られる理由もないはずなのに。

 ただ、気になるのは放火犯の存在だった。
 消火活動に勤しんでいた兵士達から、怪しい一団を見つけたが逃げられたとの報告が数多く上がっていた。
 火をつけて回っている者がいるのは、ガイウスから聞いた時からわかっていた。
 単に物取りが仕事をしやすくするためだろうと考えていたのだけれど、集団でいたとなればその可能性は低くなる。

 様々な可能性が考えられた。
 ルキウスに――皇帝ネロに恨みを持つ者は、多くいる。アグリッピナやクラウディウス家の支持者が、罪を着せるために、今回の火事に便乗したのではないか。

 可能性は、ある。
 けれどルキウスの脳裏に閃いたのは、暗闇の中で発せられた言葉だった。

「くれぐれも火にはお気を付けください。炎があなたを滅ぼさんとするでしょう」

 呪いを吐いたのはかのユダヤ人――オクタヴィアを冷然と地獄へと叩き落とした、あのパウロとかいう男。

 予言は当たったのか思うよりも、もっと整合性の高い説が浮かぶ。
 当たったのではなく、予言を実現するように行動したのではないか、と。

 事実はわからない。けれどそれが、ルキウスの中で真実となっていくのに、さして時間はかからなかった。
 無気力と、続く忙しさに追われ、忘れかけていたクリストゥス信望者への憎しみが、さながら大火の炎の如く燃え上がる。

 信仰は、罪ではない。だから隠すことなく公言している者もいた。
 それらの人々を捕らえ、尋問にかけては仲間の名を聞き出す。名を出された者をさらに尋問にかける。繰り返せば、人数はかなり増えていった。

 これら全てを、放火犯として処刑する。

 当然、正規の裁判を通した判決ではない。違法であることは承知の上で、強行に出た。
 もっとも、ルキウスが憎むのはそれらの人々ではなく、「クリストゥス信仰」であり、「神ヤハウェ」に他ならない。改宗した者には刃を向けず、無罪として釈放した。

 ――そして、今。
 目前には、宿敵とも呼ぶべきパウロがいた。

 縛られ、床に転がされたパウロは、こうして見ると小柄な老人だった。
 だが彼は、ルキウスの姿を見ると眼光を鋭くする。兵士二人に引き起こされ、無理に跪く姿勢を取らされながらも、真っ直ぐにルキウスを睨みつけた。
 必要もないのに、ルキウスはわざわざ牢の中にまで足を踏み入れる。

「これは、聖者パウロ殿。初めまして――それとも、久しぶりと言うべきか?」

 反抗の表情を隠しもしないパウロに、笑みを刻んで見せる。

「あなたの予言通り、私は火に苦しめられた。否、私だけではない。全てのローマ市民が、炎によって苦汁を舐めさせられた」

 一歩ずつ近付く足音が、カツカツと冷たい空間に響き渡る。

「それも、どうやら放火のせいらしい」

 お前達が火をつけたのだろう。
 言外の声に気付かぬ程鈍くもないだろうに、パウロは反論せず、ただ顔を背ける。
 ――反論、できないのだろう、それが真実であるから。
 パウロの顎に手をかけ、上を向かせる。

「安心するといい。私はあなたや、あなたの神と違って慈悲深い。信仰を捨てるのならば、命まで取るとは言わん」

 この場には似つかわしくない、限りなく優しい声と顔を意識した。
 おそらくはそれが、もっともパウロに恐怖を植え付ける。生涯消えることのない傷を、つけてやる。

 もっとも、言葉に嘘はない。信仰を捨て、命乞いをするのであれば、パウロでさえも救うつもりだった。
 パウロは、オクタヴィアの信じた神の代行者として、彼女を地獄へと突き落とした。彼がその立ち位置から退くのであれば、オクタヴィアの地獄行きもなかったことになる。
 否、信仰を捨てなくてもいいのかもしれない。命を助ける代償として、オクタヴィアを無実と宣言させればいいのだ。

 信仰を捨てる――オクタヴィアへの免罪を公言する。
 どちらでもいい。パウロが、彼女の救済を行えば、他のクリストゥス信仰者も釈放しよう。
 けれどパウロは、ルキウスの想いを踏み躙る。

「私は唯一絶対の主に、命を捧げます」

 あえて神経を逆撫でしようというのか。
 パウロの宣言は、ルキウスの怒りの火に、憎悪の油を注いだ。

 何故、この男はこうも頑なにオクタヴィアを否定するのだろう。
 何故、信心深い者を地獄へと落としたがるのだろう。

 ――何故、救ってくれないのか。

「好きにしろ」

 苛立ちに任せ、パウロを張り倒して背を向ける。

「あなたは一度ならず二度までも、あなたの仲間を窮地へと追い込んだ。――地獄で後悔するがいい」
「私は地獄へと落ちるのではありません。名誉ある殉教者となるのです。その栄光を与えてくれる、皇帝ネロ、あなたに感謝いたします」

 オクタヴィアを地獄へ落とした張本人が、自らは天国へ行くと信じて死ぬのか。
 思えば、腹立たしさが込み上げる。
 もしかしたら、この皮肉を真に受けたルキウスが死刑を取りやめることを期待しているのかもしれない。
 ならば、甘いことだ。決して、許しなどしないのに。

「主の御使い、イエスも仰いました。私の出現により、民は更に苦しみを負うだろうと」

 だからこそ、信仰者を窮地に叩き落とす自分の判断と行動も正しいのだと言いたいのか。
 口の端に感じる苦さは、嘲笑の形をもって表れる。

「ほう。信者に苦しみを背負わせるためだけに、ヤハウェはイエスを使わしたのだな? 何とも残酷な神だ」

 牢には、他にも囚われた信者達がいる。彼らに聞こえるように、わざと声を張り上げた。

「だがローマにおいて、ヤハウェは存在を消される。何故か? この私が、皇帝ネロの名において抹消させるからだ」

 嘲笑混じりに宣言するのは、信者達への警告だった。
 ここで命を落としても、何もならない。存在を消される神と共に心中する必要などないという、呼びかけだった。

 一人でも多く、改宗する者が出てくるように。

 たとえクリストゥス信仰者であっても、皆が放火に加担したわけではないだろう。おそらく、ほんの一握りの実行犯のために皆を殺す必要も、本来はなかった。
 ただ彼らは、ルキウスの大切なオクタヴィアを罪人と呼ぶ。地獄に落ちるべき人間だと、平気な顔で口にするのだ。
 そのような者達を、許すことはできない。

「あなたは先程ご自分で言われた通り、命を落とすことになろう。だが私は、あなた方の神と違って、慈悲深い皇帝だ。せめてもの餞に、かのナザレ人と同じ、磔刑を与えてやろう」

 感謝するがいい。
 吐き捨てると、ルキウスは足早にその場を立ち去った。
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