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第八章

夭折

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 小さなオクタヴィアをしっかりと腕に抱き、ローマに戻ってきたルキウスを待っていたのは、山積みにされた仕事と、不在の間に届けられた、オクタヴィアからの手紙だった。
 ルキウスが駆けつけるとは思っていなかったのだろう。丁寧な、見慣れた文字がそこに連なっていた。

 内容はあの時、彼女が口にしたことの繰り返しにすぎなかった。
 だからこそ、最期の姿が瞼の裏に蘇る。涙がまた、溢れ出した。

 追放してからずっと待ち望んでいた、オクタヴィアからの手紙。まさかこのような形で受け取ることになるとは、思ってもみなかった。

 我知らず、ルキウスはそっと自分の唇に指を当てる。オクタヴィアと交わした口づけの感触が、今なお残っているような気さえ、していた。

 あの時、オクタヴィアは何故、ルキウスの唇を求めたのだろう。
 疑問に思う。
 いつも、ルキウスが求めれば応じてくれる、それだけだった。オクタヴィアから身を寄せてくれることも、抱きしめてくれることもあったけれど、唇を重ねるのは極力避けているように感じていた。

 おそらく、ただの親愛の情だけではなく、オクタヴィアが嫌っていた同性愛に通じるものだったからだろう。

 なのに、何故。
 疑問への答えは、一つしか思い当たらなかった。

 きっと、ルキウスのためだ。

 オクタヴィアと違い、ルキウスは彼女に対して恋愛じみた感情を抱いていた。
 アグリッピナ殺害の直後、混乱の最中に彼女を求めたのは、理性を失ったからこその欲だったのだろう。

 オクタヴィアは、ルキウスの気持ちに気付いていたはずだ。永遠に満たされることのないルキウスの欲望を、少しでも叶えるために――軽くするために。
 そのために、信仰上の罪をも背負ってくれたのではないか。

 思う程に、やりきれなさが募る。だから彼女は、地獄へ落ちるなどと言ったのではないか、と。

 後ろめたさを払拭するように、遺児への愛情のかけ方は類を見ないものとなった。
 オクタヴィアの葬儀をひっそりと終えると、新しいオクタヴィアを正式に自分の子として認めた。

 もちろん、ポッパエアは猛反対した。形ばかりとはいえ皇后である彼女の、養子という扱いになる。本来なら意向を汲むべき人間に違いはないが、ルキウスは彼女への配慮などするつもりは欠片もなかった。

 たまっていた書類も片づけなければならない。だがそれよりも、自分の娘となったオクタヴィアの神格化を進めた。
 アウグスタ――女神の称号だ。ローマ建国以来、それを受けた女性は数人しかいない。
 ただの溺愛が理由ではない。ルキウスにとってはオクタヴィアこそが、聖母であり女神だった。
 そのオクタヴィアが残した子供なのだから、女神に違いない。

 生まれたばかりの子供には過ぎた称号。まして、アウグスタは亡くなった女性を祀るための名、あまり縁起は良くないと、ガイウスは反対した。
 もっとも、ルキウスが意に介するはずもない。オクタヴィアへの贖罪の意味もある。遂行させなければならないことだった。

 アウグスタを神格化して、それからようやくたまった仕事に着手した。少しでも早くそれらを片付け、ほんのわずかでもアウグスタと過ごす時間を伸ばしたかった。
 最初のうちは日に何度も、何度も足を運び、しまいには私室を出てアウグスタの部屋に泊まり込むようになった。

 アウグスタは、本当に可愛かった。オクタヴィアを思い出させるその顔立ちに、並々ならぬ喜びが湧いてくる。
 あのオクタヴィアを、自分の手で育てている錯覚にすら襲われた。

 いつのことだっただろう。アウグスタの襁褓むつきを取り換えている時、玩具を持ってガイウスが訪ねて来たことがある。

皇帝カエサル、何をされているのですか!」

 一体何に驚いて彼が声をあげたのか、理解できなかった。だがすぐに気付く。
 ああ、と思わず笑みが零れた。

「私が赤子の世話ができるのが意外か? これだけではないぞ。着替えもさせてやれるし、沐浴もさせられる」

 確かにルキウスはよく、人間味に欠けているように見られることがある。その皇帝が人並みに――否、父親が子育てに手を出すなどあまりない世にあって、こうして世話ができるのが不思議だったのだろう。
 褒めてくれるものだとばかり思ったが、ガイウスは深いため息を吐く。

「君も君だ。皇帝に、何故このようなことをさせる?」
「は。私も何度もおやめ下さいと申し上げているのですが……」

 ルキウスに言っても埒が明かないとでも言うように、傍に居たアウグスタの乳母に向かった。
 申し訳なさそうに口を開く彼女に代わり、ルキウスがつい気色ばんだ。

「謝る必要はない。私がやりたいと言っているのだから。君はよくやってくれている」
「――皇帝カエサル

 ガイウスの声が、低くなる。生真面目な教師そのものの表情で、溜め息を吐いた。

「よくお聞き下さい。あなたは、この大ローマ帝国の皇帝なのです。その皇帝カエサルネロが赤ん坊の世話など――市民への示しがつきません」

 彼が言うことは、決して間違いではない。
 上流階級においては、父親どころか母親でさえ乳母、傅育官に子育てを任せるのが普通だった。男の身で、しかも皇帝という一国の長が仕事を放り出してまで赤子の世話をするのは、非難される可能性すらあった。
 けれど、とルキウスはアウグスタを抱き上げる。

「だがな、見てくれガイウス、この子の愛らしさを。私にもよく懐いてくれている。少しでも関わりたいと思うのは、おかしなことだろうか?」

 なぁ、と笑いかけると、アウグスタもふにゃりと笑顔になった。
 ぐずり、大声で泣き出した時、乳母がいくらあやしても効果はないのに、ルキウスが抱くとすぐに泣き止む。
 懐かれれば、さらに可愛くなるのは必然だった。
 何より――

「この子は、オクタヴィアの子だ。大切に思うのは、いけないことか」

 真実の想いであり、ガイウスの口をふさぐのに破壊的な威力があるのを知っているからこその言葉だった。
 ガイウスは、オクタヴィアを敬愛していた。思慕の念があったのか、ただの親愛だったのかは判然としないが、それでも強い感情を抱いていたのは疑うべくもない。
 そのオクタヴィアの遺児を、無下にできるはずがなかった。

「――卑怯な方だ」

 歪んだ眉の下、嘆息と共に洩れたのは本音だろう。自覚があるから、叱責するつもりはない。
 申し訳なさも手伝って、微かに苦笑する。手を振って合図を送ると、ガイウスは一礼して部屋を出て行った。

 そのような頃だった、アウグスタに先天的な異常が見つかったのは。

 彼女は本当に、オクタヴィアに生き写しだった。その体の弱ささえ、受け継いでしまったのだ。
 そもそも、病弱な人間が多い家系ではある。オクタヴィア、ブリタニクス、二人の父であるクラウディウスもまた、よく病床に伏していた。
 それだけではない。初代皇帝とも呼ばれるアウグストゥスの、唯一の欠点もまた体の弱さにあった。

 その中においてさえ、アウグスタは重傷だった。乳を飲んでは吐き、体重は少しも増加しない。
 医師の話では、もっても四、五カ月の命だと言う。

 ルキウスの落胆は、筆舌に尽くしがたいものだった。
 アウグスタは、オクタヴィアの再来に等しい。大切な彼女を、一度ならず二度までも失ってしまうとは。

 否、まだ生きている。失うとは――死ぬとは決まったわけではない。

 死を司る女神に、必死で祈りを捧げた。この子を連れて行かないで、どうしても命を持ち帰らなければならないのならば、代わりに私を連れて行ってほしい、と。

 通常であれば、二カ月もすると起きている時間の方が長くなるのに、逆に短くなっていく。
 起きていても、以前のように笑顔を見せてもくれず、また、泣くことすらできない程衰弱していった。
 日に日に弱っていくアウグスタを、ただ見守ることしかできない非力さが、腹立たしくて仕方がない。

 そして、生後四カ月と五日。
 祈りも虚しく、新しいオクタヴィアはその小さな命を失った。
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