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第七章

微笑

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「――一緒には、暮らせません」

 か細く、震える声に、ルキウスこそ涙が浮いてくる。

「やはり――私が憎いか」

 オクタヴィアなら許してくれる。また、愛情を傾けてくれる。
 そう自惚れていた自分の、何と甘いことか。
 ルキウスの絶望を、オクタヴィアは首を振って否定する。もう一度、いいえ、とくり返して寂しげな笑みをルキウスに向けた。

「もう、遅いのです」

 返事と共に、げほっと、先程よりも濁った咳の音がする。
 快方に向かっていると聞いていたが、まだ悪いのだろうか。先ほどから続く力ない咳が、ルキウスの不安をかき立てる。

「遅くなどはない。君が私を憎いというのでなければ……約束しただろう? ずっと一緒にいると。――一度は反故にしてしまったけれど、けど、もう一度だけ、私に機会をくれないか。今度こそは、必ず幸せにして見せる」

 焦燥から言葉を並べ、力強くオクタヴィアの手を握りしめた。
 細い、指。
 あまりに力を入れては折れてしまいそうだった。

 これ程までにやつれさせたのは、間違いなくルキウスだ。
 ルキウスが与えた心労のせいで、心身共にすっかり弱ってしまった。だからもう遅いと、諦めてしまったのではないか。

「――ありがとう。でも……」

 寂しげに笑って、また咳き込む。げほっ、と鈍く濁った――濡れた音。
 口元を押さえた手の、指の間から赤いものが零れた。

「オクタヴィア――?」

 吐血だと認識した瞬間、オクタヴィアの体が傾いた。
 咄嗟に支えたルキウスの腕に身を任せながら、彼女は静かに微笑む。

「――少し、早まってしまったみたい」

 長い嘆息の果て、苦い笑みが浮かぶ。

「回復に向かっていると、お医者様に言われましたの。いずれ、日常を何の支障なく過ごせるようになると……安堵したように、嬉しそうに。――けれど、私はそれを望まなかった」

 医者は、患者の回復を喜ぶ。患者も同じだろうと、力づける意味もあってオクタヴィアにそう告げたのだろう。
 ただ、彼女の心境が違っていただけで。

「この子の行く末が気にならないわけではなかったけれど――でも、辛かったの」

 ちらりと、小さな我が子に向けるオクタヴィアの視線に、悲しげな色が宿る。

「これ以上生きて、あなたの重荷になりたくなかった。これ以上、あなたに嫌われたくなかった。――早く、楽になりたかった」

 確かにオクタヴィアの存在は、「皇帝ネロ」にとっては諸刃の剣ではあった。
 前帝の娘、正当なる権利を持つ者。彼女が存在する限り、ネロを排して自らが皇帝にならんとする者は現れる。
 それは同時に、「皇帝ネロ」に正当性を与えた理由だった。本来であれば彼女を失った時点で、皇帝の座を降りるべきだったのだ。

 否、そのような問題ではない。「ネロ」ではなく、「ルキウス」にとってオクタヴィアは唯一無二の存在だというのに。
 オクタヴィアが自分の存在を、ただの重荷と考えてしまったとしたら、間違いなくルキウスの所業のせいだった。
 そのせいで。

「オクタヴィア、まさか――毒、を……?」

 信じられない。信じたく、ない。
 掠れた問いかけに、オクタヴィアは答えない。ただ、青白い顔で儚く笑う。

 それこそが、肯定の返事。

 ルキウスが部屋の入口に立った時、オクタヴィアは赤子に乳を含ませていた。毒を飲んだ後では、あり得ない。
 ならば思い当たるのはただ一つ、赤子を寝かせた後に何かを一気に呷った、あれが毒だったのだ。

 愚かに過ぎる。己の不甲斐なさに、言葉を失う。
 オクタヴィアの姿に見惚れ、声をかけるのを躊躇ってしまった。もしすぐに名を呼んでいれば――そうすれば、彼女はきっと手を止めた。
 たったそれだけのことで、最悪の事態を防げたというのに。

「い、嫌だ……」

 目の前一面が、霧がかったように霞んでいる。オクタヴィアの顔も白っぽく、あまりの儚さに夢を見ている気分だった。
 ずっと、会いたかった。ずっとこうやって、抱きしめたかった。
 そう願い続けていたから、幻を見ているのではないか。

 幻であってほしい。
 現実のオクタヴィアは毒など飲んでいない。ルキウスはまだローマで、離れ離れになっていて、未だ産褥で寝込んではいるけれどオクタヴィアも快方に向かっていて――

「この子は、最初からあなたに託すつもりだったの」

 逃避するルキウスを、諭すような静かな声音が告げる。
 現実に引き戻すように――オクタヴィアの決意を、受け入れさせるために。

「立場上、あなたが子を持つことは難しい。でも皇帝には後継者が必要……そう思っていたのですけど、結局男の子ではなくて、女の子でした」

 ごめんなさい、役に立てなくて。
 謝罪に、ただ頭を振る。オクタヴィアも、彼女の子供も、道具ではない。役に立つ、立たない、そのような問題ではないのだ。
 ただ、そこに在ってくれるだけで良かったのに。

「――あなたが、この子を愛してくれるかが心配だったけれど……」
「大切にする。必ず……この子は、君が産んでくれた私の子だ」

 抱きしめる手に、力が入る。
 細い肩、柔らかな髪、微かに甘い香り――ルキウスがよく知る、オクタヴィアだ。
 忘れた事など、一度もなかった。裏切られたと信じ込み、恨みを募らせていたあの時でさえ、思い出しては愛しいと感じていた。

 やっと、取り戻したと思ったのに。

 オクタヴィアの呼吸は、次第に荒くなってゆく。
 ゆっくりと――だが、確実に。

 視界が、ぼやけてオクタヴィアの顔がよく見えなかった。涙が止まらない。
 苦しいのは、彼女のはずだった。なのにルキウスの方が、息が詰まりそうになる。

「どうして、泣くの?」

 オクタヴィアの指が、柔らかくルキウスの頬に触れる。そっと涙を拭い、首を傾げた。

「大丈夫よ、ルキウス。――泣かないで」

 うなじの後ろに、腕が回ってくる。
 抱きしめようとしてくれているのだろう。けれどもう、それだけの力も残っていないのか、語る言葉でさえも途切れてしまいそうだった。

「――私は、罪を犯しました」

 小さく呟かれる意味を、理解できなかった。
 オクタヴィアに罪など、何もない。罪を犯したのは、ルキウスだ。罰を受けるべきは、ルキウスだった。

「きっと――地獄へ落ちるわ」
「まさか、そのような……」
「それでもいい。あなたを救えるのなら」

 頬と頬を接した状態では、表情を確かめることはできない。それでも、微笑んでいるのがわかる声音だった。
 ルキウスに、信仰心はない。ローマ古来の宗教儀式を行うのは、あくまで民心を掌握するためだ。
 無論、考え方の根底にはあるのだろう。だが地獄も天国も信じてはいない。人は死んだらそれまでだ。

 オクタヴィアは違う。神を信じ、生活の基盤に信仰を置いている。
 その彼女が地獄を口にするのならば、本気でそう信じているのだろう。
 いったい何故、との疑問は、熱に浮かされた譫言のようにオクタヴィアが続ける。

「大丈夫よ――大丈夫。あなたの罪も、すべて私が背負って……」

 あげる。
 言葉にはならず、掠れた吐息が耳にかかる。

 身が、竦んだ。
 ルキウスの罪――それは、数多くある。思い当たる節が、多すぎた。
 アグリッピナがルキウスのために行った犯罪の数々、何より、その母を手にかけた罪。

 だがそれらを、オクタヴィアは知らないはずだった。極力彼女の目には触れぬようにと配慮してきたつもりだった。

 知って、いたのか。
 知っていてなお、微笑みをくれていたのか。

 深い愛情に包まれた幸せを打ち砕いたのは、他ならぬルキウス自身。ルキウスが根拠なく抱いた嫉妬が――女の、醜い部分が。

「嫌だ――嫌だ。死なないで。一人にしないで。私は、一人では生きていけない。君がいなくては……」

 抱きしめながら、まるで子供のように泣きじゃくる。こうやって、泣くことを教えてくれたのは、オクタヴィアだった。
 嫌だと何度も繰り返し、ただ首を左右するルキウスの髪に、オクタヴィアの指が柔らかく触れた。

「――あなたは、一人ではないわ」

 子供を宥める母のような優しい声に、思い出すのは六年前のことだった。
 義兄上は一人ではない。そう言ったのは、ブリタニクスだった。
 あの時彼は、姉であるオクタヴィアを託し、ルキウスもまた、必ず幸せにして見せると誓った。

 誓った、はずなのに。

「ガイウスがいるわ。それにこの子――小さな私も」

 微笑みが、さらに細くなる。ゆっくりと閉じた瞼から一筋、涙が零れ落ちる。

「私は、地獄に落ちるかもしれない。でも幸せよ。あなたの腕の中で死ねるのだもの」

 ねぇ、ルキウス。

 同意を求めてくるオクタヴィアと、視線が絡む。
 淡く緑がかった青い瞳が、痛い程にルキウスを見つめた。あまりにも真っ直ぐな視線が、戸惑いと罪悪感を胸に植え付ける。
 痛む胸がまた、さらに涙を助長した。

「私は、世界で一番幸せな罪人つみびとだわ」

 だから、泣かないで。
 頬を撫でてくれる、優しい手。その指の上をまた、涙が伝った。
 オクタヴィアが、ふっと笑う。幸せそうな微笑みは、とても死にゆく者のそれではなかった。

 けれど、体温が少しずつ冷たくなっていく。その体が、重くなっていく。
 ブリタニクスを失った時と同じだった。今また、オクタヴィアまで失ってしまう。

 ああ、とオクタヴィアの唇が喘ぐように動いた。そして――それを探り当てる。
 いつもただ受け入れるだけだったオクタヴィアからの、初めての口づけ。

「――大好きよ、ルキウス」

 声にならない、掠れた吐息だった。けれど不思議なほど鮮明に、ルキウスの耳に届く。

 それと、ほぼ同時だった。
 たおやかに、崩れ落ちるように、オクタヴィアの体から力が抜けた。
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