30 / 78
第五章
決別
しおりを挟む
とうとう、この日がやってきた。
書簡を送ってから十日――そう、たった十日しか猶予を与えなかった――オトがルシタニアへと旅立つ日が、だ。
本音を言えば、見送りになど来たくはなかった。自分が行った所業が非情なことは、誰よりも承知している。
オトの顔を、見るのが辛かった。
もっとも、そうは言っていられない。オトは、皇帝の勅命でルシタニアへと行くのだ。令を発した自分が、見送りにも行かないなど許されないだろう。
否、それでもやはり、どこかで会いたいと思っていたのかもしれない。
長年付き合ってきた親友として――おそらくはもう二度と会うこともないだろう、オトに。
「――これがお前なりの恩返しってわけだ」
対峙し、重苦しい沈黙を打ち破ったのは、オトだった。
皮肉な笑みに口元を歪め、眉間には深いしわが刻まれている。
「おれが言った言葉を覚えているか? いつでも、どのような時でも、おれはお前の味方だと」
なのに、お前は裏切った。
続けられるはずの恨み節は、正当なものだった。正面から受け止める義務があるのは勿論わかっているが、どうしても顔を上げることができない。
意外なのは、オトの声が静かなことだった。気が短い彼のこと、怒鳴りつけてくるものだと思っていた。
むしろ、書簡の内容を不服として、執務室に怒鳴りこんで来て然るべき状況だった。
結果的には杞憂に終わり、今もまた、こうして不気味な静けさを保っている。
「その気持ちは、今でも変わっていない」
頭上に降ってきた声は、想像もしていないものだった。ハッと目を上げる。
目の前に、これ以上はないというほど真剣なオトの顔があった。
真摯な瞳が、揺れている。物悲しさが漂う表情に、胸が痛くなる。
オトにこのような顔をさせているのは、他ならぬ自分だった。
「――だからこその、温情だろう?」
温情?
薄情の間違いではないのか。
愕然と見やる先で、オトが自嘲めいた笑みを刻む。
「でなければ、死罪となって当然だからな」
続けられたのは、さらに不思議な言葉だった。
ルキウスが、オトを罰するというのか。
その理由は?
思い当たるのは、アグリッピナ殺害の件だけだ。オトが犯した明らかな犯罪行為といえば、それくらいなのだから。
だが、それはルキウスが主犯の計画である。罪に問うはずもない。
「まさか――知らないのか」
オトが言う「死罪に匹敵する罪」がわからず、必死で頭を巡らせていたのだが思いつかない。
首を傾げるルキウスに、オトが愕然とした調子で呟いた。
「私が、何を――」
「いや……」
知らないというのか。問いかけは、苦みの強い笑みに遮られる。
苦しそうな、表情だった。――泣き出しそうな、と言っても、語弊はないほどに。
初めて見るオトの表情に、胸騒ぎが起きる。嫌な予感とでも言えばいいのか。
「皇帝ネロ」
一体何の事だと質問を重ねるよりも、オトが跪く方が早かった。
ルキウスに近付いた、初対面の時以来の呼び方だった。
あの時は、取り入るために品行方正を演じていた。
では、今は?
親友として、もう何年も付き合ってきたというのに、あえて他人行儀に振る舞う意味とは。
胸が、ぎりぎりとしめつけられる。
「陛下の健やかなる日々を、遠くルシタニアの地より心からお祈り致します」
張り上げる声は、歌うように朗々と響く。
こうやって見ると、オトは本当に見栄えのする男だった。ルキウスの手を取り、口付ける姿は、まるで絵画だ。
集まった民衆には、どのように見えるだろうか。
親友を裏切った、冷酷な皇帝。
悪辣な人物との評判を覆す、礼儀正しく美しい臣下。
いずれ、「皇帝ネロ」の評価を上げることは、決してない。
否、民衆の目だけではない。
罪を共にし、心を許した親友たる男との別れが、礼式に則った心ないものである事こそが、悲しかった。
このような思いを植え付けるために、あえてこう演出したのか。
――これが、恩を仇で返したルキウスへの、報復。
寂寥感に心を痛めながらも、形式には形式を返さなければならない。
ルキウスは笑みを刻み、鷹揚を装って頷いて見せた。
書簡を送ってから十日――そう、たった十日しか猶予を与えなかった――オトがルシタニアへと旅立つ日が、だ。
本音を言えば、見送りになど来たくはなかった。自分が行った所業が非情なことは、誰よりも承知している。
オトの顔を、見るのが辛かった。
もっとも、そうは言っていられない。オトは、皇帝の勅命でルシタニアへと行くのだ。令を発した自分が、見送りにも行かないなど許されないだろう。
否、それでもやはり、どこかで会いたいと思っていたのかもしれない。
長年付き合ってきた親友として――おそらくはもう二度と会うこともないだろう、オトに。
「――これがお前なりの恩返しってわけだ」
対峙し、重苦しい沈黙を打ち破ったのは、オトだった。
皮肉な笑みに口元を歪め、眉間には深いしわが刻まれている。
「おれが言った言葉を覚えているか? いつでも、どのような時でも、おれはお前の味方だと」
なのに、お前は裏切った。
続けられるはずの恨み節は、正当なものだった。正面から受け止める義務があるのは勿論わかっているが、どうしても顔を上げることができない。
意外なのは、オトの声が静かなことだった。気が短い彼のこと、怒鳴りつけてくるものだと思っていた。
むしろ、書簡の内容を不服として、執務室に怒鳴りこんで来て然るべき状況だった。
結果的には杞憂に終わり、今もまた、こうして不気味な静けさを保っている。
「その気持ちは、今でも変わっていない」
頭上に降ってきた声は、想像もしていないものだった。ハッと目を上げる。
目の前に、これ以上はないというほど真剣なオトの顔があった。
真摯な瞳が、揺れている。物悲しさが漂う表情に、胸が痛くなる。
オトにこのような顔をさせているのは、他ならぬ自分だった。
「――だからこその、温情だろう?」
温情?
薄情の間違いではないのか。
愕然と見やる先で、オトが自嘲めいた笑みを刻む。
「でなければ、死罪となって当然だからな」
続けられたのは、さらに不思議な言葉だった。
ルキウスが、オトを罰するというのか。
その理由は?
思い当たるのは、アグリッピナ殺害の件だけだ。オトが犯した明らかな犯罪行為といえば、それくらいなのだから。
だが、それはルキウスが主犯の計画である。罪に問うはずもない。
「まさか――知らないのか」
オトが言う「死罪に匹敵する罪」がわからず、必死で頭を巡らせていたのだが思いつかない。
首を傾げるルキウスに、オトが愕然とした調子で呟いた。
「私が、何を――」
「いや……」
知らないというのか。問いかけは、苦みの強い笑みに遮られる。
苦しそうな、表情だった。――泣き出しそうな、と言っても、語弊はないほどに。
初めて見るオトの表情に、胸騒ぎが起きる。嫌な予感とでも言えばいいのか。
「皇帝ネロ」
一体何の事だと質問を重ねるよりも、オトが跪く方が早かった。
ルキウスに近付いた、初対面の時以来の呼び方だった。
あの時は、取り入るために品行方正を演じていた。
では、今は?
親友として、もう何年も付き合ってきたというのに、あえて他人行儀に振る舞う意味とは。
胸が、ぎりぎりとしめつけられる。
「陛下の健やかなる日々を、遠くルシタニアの地より心からお祈り致します」
張り上げる声は、歌うように朗々と響く。
こうやって見ると、オトは本当に見栄えのする男だった。ルキウスの手を取り、口付ける姿は、まるで絵画だ。
集まった民衆には、どのように見えるだろうか。
親友を裏切った、冷酷な皇帝。
悪辣な人物との評判を覆す、礼儀正しく美しい臣下。
いずれ、「皇帝ネロ」の評価を上げることは、決してない。
否、民衆の目だけではない。
罪を共にし、心を許した親友たる男との別れが、礼式に則った心ないものである事こそが、悲しかった。
このような思いを植え付けるために、あえてこう演出したのか。
――これが、恩を仇で返したルキウスへの、報復。
寂寥感に心を痛めながらも、形式には形式を返さなければならない。
ルキウスは笑みを刻み、鷹揚を装って頷いて見せた。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
思い出乞ひわずらい
水城真以
歴史・時代
――これは、天下人の名を継ぐはずだった者の物語――
ある日、信長の嫡男、奇妙丸と知り合った勝蔵。奇妙丸の努力家な一面に惹かれる。
一方奇妙丸も、媚びへつらわない勝蔵に特別な感情を覚える。
同じく奇妙丸のもとを出入りする勝九朗や於泉と交流し、友情をはぐくんでいくが、ある日を境にその絆が破綻してしまって――。
織田信長の嫡男・信忠と仲間たちの幼少期のお話です。以前公開していた作品が長くなってしまったので、章ごとに区切って加筆修正しながら更新していきたいと思います。
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
ロクスタ〜ネロの愛した毒使い〜
称好軒梅庵
歴史・時代
ローマ帝国初期の時代。
毒に魅入られたガリア人の少女ロクスタは、時の皇后アグリッピーナに見出され、その息子ネロと出会う。
暴君と呼ばれた皇帝ネロと、稀代の暗殺者である毒使いロクスタの奇妙な関係を描く歴史小説。
ナイルの箱庭 アンテイノとハドリアヌス帝
のの(まゆたん)
歴史・時代
舞台は欧州のローマ、イタリアに住む従兄弟のもとに遊びにきた…
まだ幼い子供の頃の話
ナイルの箱庭…皇帝の銀貨…あの時の銀のコインが、今も私の手の中にある
…あの束の間の思い出…あれは夢、幻
…ナイルの箱庭
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
三国志〜終焉の序曲〜
岡上 佑
歴史・時代
三国という時代の終焉。孫呉の首都、建業での三日間の攻防を細緻に描く。
咸寧六年(280年)の三月十四日。曹魏を乗っ取り、蜀漢を降した西晋は、最後に孫呉を併呑するべく、複数方面からの同時侵攻を進めていた。華々しい三国時代を飾った孫呉の首都建業は、三方から迫る晋軍に包囲されつつあった。命脈も遂に旦夕に迫り、その繁栄も終止符が打たれんとしているに見えたが。。。
籠中の比翼 吉原顔番所同心始末記
紅侘助(くれない わびすけ)
歴史・時代
湯飲みの中に茶柱が立つとき,男は肩を落として深く溜息をつく ――
吉原大門を左右から見張る顔番所と四郎兵衛会所。番所詰めの町方同心・富澤一之進と会所の青年・鬼黒。二人の男の運命が妓楼萬屋の花魁・綾松を中心に交差する。
男たちは女の肌に秘められた秘密を守ることができるのか。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる