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第五章

決別

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 とうとう、この日がやってきた。
 書簡を送ってから十日――そう、たった十日しか猶予を与えなかった――オトがルシタニアへと旅立つ日が、だ。
 本音を言えば、見送りになど来たくはなかった。自分が行った所業が非情なことは、誰よりも承知している。

 オトの顔を、見るのが辛かった。

 もっとも、そうは言っていられない。オトは、皇帝の勅命でルシタニアへと行くのだ。令を発した自分が、見送りにも行かないなど許されないだろう。

 否、それでもやはり、どこかで会いたいと思っていたのかもしれない。
 長年付き合ってきた親友として――おそらくはもう二度と会うこともないだろう、オトに。

「――これがお前なりの恩返しってわけだ」

 対峙し、重苦しい沈黙を打ち破ったのは、オトだった。
 皮肉な笑みに口元を歪め、眉間には深いしわが刻まれている。

「おれが言った言葉を覚えているか? いつでも、どのような時でも、おれはお前の味方だと」

 なのに、お前は裏切った。

 続けられるはずの恨み節は、正当なものだった。正面から受け止める義務があるのは勿論わかっているが、どうしても顔を上げることができない。

 意外なのは、オトの声が静かなことだった。気が短い彼のこと、怒鳴りつけてくるものだと思っていた。
 むしろ、書簡の内容を不服として、執務室に怒鳴りこんで来て然るべき状況だった。
 結果的には杞憂に終わり、今もまた、こうして不気味な静けさを保っている。

「その気持ちは、今でも変わっていない」

 頭上に降ってきた声は、想像もしていないものだった。ハッと目を上げる。
 目の前に、これ以上はないというほど真剣なオトの顔があった。

 真摯な瞳が、揺れている。物悲しさが漂う表情に、胸が痛くなる。
 オトにこのような顔をさせているのは、他ならぬ自分だった。

「――だからこその、温情だろう?」

 温情?
 薄情の間違いではないのか。
 愕然と見やる先で、オトが自嘲めいた笑みを刻む。

「でなければ、死罪となって当然だからな」

 続けられたのは、さらに不思議な言葉だった。
 ルキウスが、オトを罰するというのか。
 その理由は?

 思い当たるのは、アグリッピナ殺害の件だけだ。オトが犯した明らかな犯罪行為といえば、それくらいなのだから。
 だが、それはルキウスが主犯の計画である。罪に問うはずもない。

「まさか――知らないのか」

 オトが言う「死罪に匹敵する罪」がわからず、必死で頭を巡らせていたのだが思いつかない。
 首を傾げるルキウスに、オトが愕然とした調子で呟いた。

「私が、何を――」
「いや……」

 知らないというのか。問いかけは、苦みの強い笑みに遮られる。
 苦しそうな、表情だった。――泣き出しそうな、と言っても、語弊はないほどに。

 初めて見るオトの表情に、胸騒ぎが起きる。嫌な予感とでも言えばいいのか。

皇帝カエサルネロ」

 一体何の事だと質問を重ねるよりも、オトが跪く方が早かった。
 ルキウスに近付いた、初対面の時以来の呼び方だった。

 あの時は、取り入るために品行方正を演じていた。
 では、今は?
 親友として、もう何年も付き合ってきたというのに、あえて他人行儀に振る舞う意味とは。

 胸が、ぎりぎりとしめつけられる。

「陛下の健やかなる日々を、遠くルシタニアの地より心からお祈り致します」

 張り上げる声は、歌うように朗々と響く。
 こうやって見ると、オトは本当に見栄えのする男だった。ルキウスの手を取り、口付ける姿は、まるで絵画だ。

 集まった民衆には、どのように見えるだろうか。
 親友を裏切った、冷酷な皇帝。
 悪辣な人物との評判を覆す、礼儀正しく美しい臣下。

 いずれ、「皇帝ネロ」の評価を上げることは、決してない。

 否、民衆の目だけではない。
 罪を共にし、心を許した親友たる男との別れが、礼式に則った心ないものである事こそが、悲しかった。

 このような思いを植え付けるために、あえてこう演出したのか。
 ――これが、恩を仇で返したルキウスへの、報復。

 寂寥感に心を痛めながらも、形式には形式を返さなければならない。
 ルキウスは笑みを刻み、鷹揚を装って頷いて見せた。
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