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第四章

帰還

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 ルキウスを襲った男は、アグリッピナ派の人間だった。
 ただ、組織的な暗殺計画ではない。アグリッピナを崇拝するあの男が、独断で行ったものだった。

 その事実に、少なからず胸を撫で下ろす。もし複数犯であれば、全員を捕らえて罰する必要があった。
 アグリッピナ派を一掃するには、好機と言えたかもしれない。けれど自ら殺した母への負い目から、追い打ちをかける気にはなれなかった。

 もっとも、ルキウスの思いとは裏腹に、ローマでは新たな動きが起こっていた。
 セネカ――アグリッピナの手先だった男が、彼女の事故死を国家にとって幸運だと言い始めたのである。
 アグリッピナは皇帝を操ろうとしていた。実際、ネロが発した悪しき法律はすべて彼女の手によるものだと宣言したのだ。

 それも、ルキウスの代理人として。

 皇帝への追従のつもりなのだろう。元老院はそれを受け入れ、決議によってアグリッピナの誕生日が凶日の中に加えられたと聞く。

 誰が、そのようなことをしろと言った。
 憤りと共に、自分の意思とは関係なく国が動かされる焦燥感もある。

 ここに、逸話があった。
 アグリッピナの誕生日を凶日へと加える決議の際、評決の瞬間に席を立った議員がいたという。
 猛烈な抗議の証だった。
 決して認めてほしい法案であったわけではない。しかし皇帝の名により出された法案を、これほどあからさまに否定した彼に対し、一切の非難は上がらなかった。
 むしろ、その議員の評判はさらに増したらしい。
 ならば皆、彼と同じ気持ちを持っていたということだ。

 ――皆、どこかで皇帝ネロへの反発を抱いている。

 なのに、元老院から送られてくる書簡は、追従を示した真実味のない言葉ばかり。
 この二重性、隠された敵意と、偽りの敬意を思うほど、ローマへの帰還がさらに嫌になる。

 なにより、陰謀渦巻くローマと比べて、ナポリの清々しさは居心地が良かった。
 硬いラテン語に慣らされた耳に、ギリシア語の柔らかな響きが心地いい。
 劇場を訪れては、歌や詩、演劇を観たり、競技場において若者達が体を鍛えたり、競争をする様を見るのは楽しかった。
 粗野で乱暴な娯楽にしか興味を示さないローマ市民より、ナポリの人々の方がむしろ、身近に感じられたのだ。

 ローマに、帰りたくない。ここで一市民として、オクタヴィアと暮らすことができたら、どれだけ幸せだろう。
 何度も考えたけれど、実現は不可能だった。
 ルキウスは皇帝なのである。それも、ブリタニクスの身代わりなのだ。ローマを捨てるわけにはいかない。
 それでもやはり、帰りたくはない。あと少し、もう少しだけ――先延ばしにした結果、とうとう半年もナポリに滞在していたことに気づき、ようやく覚悟を決めた。

「ローマに帰る手配をした」

 伝えた時、オクタヴィアの顔に浮かんだ安堵に、自嘲の笑みが滲む。
 ナポリへと出発する前こそ、帰った方がいいとオクタヴィアは忠告もした。しかしナポリに着いてからは、ただ黙って、ルキウスが帰ると言い出すのを待ってくれていたのだろう。

 欝々とした気分は、ローマに帰還すると同時により高まった。
 元老院議員達が総出で、しかも正装でルキウスを出迎えたのだ。
 それだけではない。市民達も人垣を作って熱狂的に皇帝の名を叫ぶ。
 マルスなるネロ、アポロンなるネロ、我らが新しき神――

 偽りの、賛辞。
 この歓声の裏に、どれだけの陰謀と敵意が隠されているのだろう。

 憂鬱と嫌悪を抱きながら、笑顔で市民に手を振って応える自分にも、吐き気すら伴う嫌厭の念を禁じ得なかった。
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