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第三章

呪詛

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 通りかかったのは、小さな船だった。
 強い波がくれば転覆してしまいそうなほどの船ではあったが、アグリッピナには救いの神にすら見えた。

 肩の傷は、思っていたよりも深かったようだ。酒を飲んでいたせいもあるのかもしれない。傷口から流れ出す血液が、体力を奪い続け、船に引き上げられた時にはほぼ、底をついていた。
 けれど、こうやって助かった。
 自らの強運を確信する。

 ――それも、一瞬だった。

 荒い呼吸をなんとか整え、礼を言おうと救い上げてくれた者を見た瞬間、心臓が凍り付く。
 マルクス・オト。
 つい先ほどまでネロと一緒にいた、その親友。共犯であることは、疑いなかった。

 運も、これまでか。

 覚悟を、せざるを得なかった。限界を越えた体力で、男盛りの若者の手から逃れられるはずがない。

「……聞いていた通りだったな。しぶといにも程がある」

 誰に聞いていたのか、などは聞くまでもない。――聞きたくもない。
 船を沈めるだけでは安心できない、死ぬのを見届けろ。逃げるようであれば、止めを刺して来い。そう命令されたのだろう。
 皮肉なものだ。もしこの船が来なければ、アグリッピナは向こう岸までおそらくたどり着けなかった。放っておけば、直接手を下さずに済んだのに。
 もちろん、教えてやる義理はないけれど。

「どうせなら、腹を刺しなさい」

 肩を押さえつけられる。見上げた目に、オトが振り上げた剣が光るのが映った。
 咄嗟に、腹を指して見せる。

「――ここから、ネロが生まれたのだから」

 吐いたのは、呪詛の言葉だった。
 血を分けた我が子への最後の言葉が呪いであることが、悲しくもある。
 同時に、それを伝え聞いたネロが気に病めばいい、とも思った。
 あの子のことだ、どうせ忘れられはしない。ならば、極限まで深く傷つけばいい。

 激しい熱が、腹部に突き刺さる。激痛に見舞われたのは、その後だった。
 刃が突き立てられた箇所を拠点に、熱が全身に広がっていく。
 なのに、指先から冷えていくのが、はっきりと感じられた。

「ふふ……」

 不意に、おかしくなった。今まで人を殺すことなど、なんとも思っていなかった。目的のためには、必要なことだと。
 今日、こうやって命を終えるのも、仕方のないことかもしれない。
 ならば――
 自分を刺し、今なおその手に力をこめている男に、しがみつく。

「――あなたも、気の毒にね」

 オトの耳に囁いた時、喉の奥から血の塊がせり上がってくる。
 ゴフッ、と鈍い音がした。口元を濡らす血液もまた、熱い。

「あなたも、ネロにとっては駒のひとつに過ぎない。――決して、報われない」

 ネロの命令で手を汚すこの男には、何が与えられるのだろう。
 アグリッピナの命の代償は――
 だがそれも、一時の話。栄華は続かない。すべては自分に返ってくるのだ。

 アグリッピナが、こうやって死ぬように。

 ネロもいずれ、死ぬ。地獄の底で会った時には、うんと優しくしてやろう。罪の意識に、苛ませてやる。
 それまで精々、罪を重ねて生きればいい。

 愕然と見開かれたオトの顔を見ながら、絶望の笑みと共にアグリッピナは二度と覚めぬ眠りへと落ちて行った。
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