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第二章

不安

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 私室に戻ってきたルキウスは、今日の出来事を話して聞かせてくれる。ブリタニクスの死以来、そうすることが二人の習慣になっていた。

「――不安です」

 いつもは笑顔を絶やさないけれど、さすがに今回は眉を曇らせる。
 きっとルキウスとて、オクタヴィアの心配が的外れではないことを知っているはずだ。それでもゆったりとした動作で頬杖をつき、柔らかく微笑んでいる。

「大丈夫。君には迷惑をかけないから」
「そうではなくて」

 ほう、と思わずため息が洩れる。

「私も、彼の噂は耳にしています。今回は無事でしたけれど、相手は男。本気になったら暴力という手段があります。そうなったらあなたは――」
「だから、大丈夫」

 心配げに言うも、ルキウスはさもおかしそうにくすくす笑う。腕を曲げて力を入れ、微かに盛り上がった筋肉を、ぽんと叩いた。

「一通りの体術は仕込まれている。自分の身くらいは、自分で守るさ」

 ルキウスの言葉が事実であることは、オクタヴィアとて知っている。
 初めて会った時からほんの数カ月前まで、何年もの間、ルキウスを男だと信じ込んでいた。女の身でそう見えるためには、体を鍛えなければならなかっただろう。
 実際、幼い頃から「護身術」と呼ぶには本格的な格闘技を、専門の師について習っていたことも知っていた。
 おそらく、剣闘士として闘技場に立ったとしても、それなりに通用するのではないか。

 それらを踏まえた上でも、やはり確実ではない。回避できるはずの危険に、近寄らせたいはずはなかった。

「でも、やっぱり不安」
「君は少し、心配性に過ぎる」

 肩を竦めたルキウスが、立ち上がる。

「さ、話は明日にして、今日はもう休もう」

 踵を返したルキウスに、思わず笑みが洩れてしまう。
 困ったとき、ルキウスはいつもこうやって話をはぐらかす。次の日になって、その話題に触れたことなど、一度もなかった。

 本当に、仕方がないんだから。

 諦め半分に、息を吐く。
 ルキウスは、気付いていないのだろうか。本当に、自覚がないのだろうか。
 いくら男の姿をしているとはいえ、ルキウスは女なのだ。女である以上、恋心を抱く相手は男であろうことを。

 もしルキウスがオトに恋してしまったら。

 あり得ない話ではない。
 そうなって苦しむのは、ルキウスだ。理性と感情に挟まれ、悩むことは目に見えている。

 考えて、頭を振る。ルキウスが大丈夫だと言っているのだ。今は、その言葉を信じてみよう。
 寝室に向かっていたルキウスの隣りに並ぶと、その腕に腕を絡ませる。
 いつもの、行動だった。オクタヴィアがこうすると、ルキウスはいつも、優しく見つめてくれる。
 ――そして、額に啄むような軽い口付けを落としてくれる。

 願わくは、この幸せがずっと続きますように。
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