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第一章

オクタヴィア

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 カタン。
 ふと、背後で物音がした。

「お戻りになったのですね」

 聞こえた鈴のような声に、振り返る。薄暗い中で姿は見えないが、声の主を知ることは容易だった。

「――オクタヴィア」

 一度は妹と呼んだ従妹――今では妻でもある女性。
 ルキウスは、ゆっくりと身を起こした。

「まだ眠っていなかったのか」

 夜半はもう、とっくに過ぎている。いつもであればもう、眠っている時刻のはずだった。
 問いかけに、オクタヴィアは小さく微笑む。――それが、答えだった。
 なるほど。無神経さに、自嘲の笑みが込み上げてくる。
 ルキウスにとっての義父は、彼女にとっては実父なのである。最愛の父を亡くしたばかりでぐっすり眠れるわけもなかった。
 泣き腫らした目が、痛々しい。

「気持ちはわかるが、もう眠った方がいい。君まで、体を壊してしまう」

 私ももう、眠るつもりだ。
 つけ加えて立ち上がるルキウスを、オクタヴィアは驚いたように見上げてくる。

「私のこと――心配して、くださるの?」

 その表情に、ルキウスは眉をひそめる。彼女の目に自分は、他人の心配などしない冷血漢にでも見えているのだろうか。
 無理もない、とは思う。実際、これまでの彼女に対する態度を見ていれば、むしろ当然だった。
 決して、オクタヴィアを嫌っているわけではない。
 幼さを残した顔立ちは愛らしかったし、素直でおとなしく、妻として欠点などどこにもない、慎ましい女性だった。
 だからこそ、冷淡に接してきた。彼女にしてやれる、せめてものことだと思っていたから。

「妹を心配するのは、兄の務めだろう」

 今回も、できるだけ突き放すような言葉を選ぶ。オクタヴィアの眉が、ふと、悲しみに曇った。

「妹ではありません。私は、妻です」

 少なくとも、今はまだ。
 小さく加えられた声を訝しく思うも、その意味を知る必要もないと判断して踵を返す。

「そうだったかな。まぁいい。おやすみ」
「お義兄にいさま」

 一方的に言い放ち、立ち去りかけたルキウスを呼び止めるのは、涙声だった。
 二人が結婚するとき、同じ氏族に入っていてはいけないので、オクタヴィアは養子に出されていた。今なお、初めて出会ったときの呼称を使い続けているのは、それ以外の親しげな呼び方が許されないと思っているからかもしれない。
 ぴたりと足を止めたルキウスの背に、オクタヴィアがそっと、頬を寄せた。

「私は、お義兄さまが好きです」

 聞こえた囁き声には、戸惑いを隠せなかった。
 オクタヴィアが好意を寄せてくれていることは知っていた。大きな瞳でまっすぐに見つめられ、胸が高鳴ったのは一度や二度ではない。
 しかし、はっきりとそう口にしたのは、初めてだった。だから今まで、ルキウスも気付かぬ振りを続けることができたのだけれど。

 だがなぜ、今なのだろうか。クラウディウスが亡くなった、この日に――
 寂しいのだろうか。ふと、思いつく。
 最愛の父を亡くした悲しみを、慰めてほしいのではないか、と。

 そう思えば、彼女が不憫な気がした。政略で結ばれただけの相手ですら、頼らねばならないほどに。
 後ろから回された手に、そっと自分の手を重ねる。無性に湧いてきた愛しさは、幼い頃から共に育った、従妹への親愛に他ならなかった。

「――お義兄さま……私のお願い、一つだけ、聞いて頂けますか」

 しばらく、無言の時が流れた。
 やがて、意を決したように呟かれた言葉に、驚きを隠せなかった。
 オクタヴィアの口から願い事がでたことなど、一度もない。その彼女が望むこととは一体なにかと思うより、自分でできることならば叶えてやりたい、というのが本心だった。

「願い、とは?」
「私を――抱いて、ください」

 洩らされたのは、躊躇いがちな、掠れた囁きだった。
 瞬間、抱いていた憐憫の情は、きれいに消し飛んだ。

 政略結婚とはいえ、共に生活を始めてすでに二年が経つ。若さを差し引いたとしても、一度も夫婦の契りがないのは異常なことだろう。
 ルキウスとて、自覚はあった。いずれ、なんとかしなければと思っていたのも事実だ。
 だがそれは、今日ではない。二人にとって父である人が亡くなった日なのだ。

「不謹慎な。このようなときになにを」

 オクタヴィアを振り払うと同時、その体を突き飛ばした。
 それまで母のような女しか知らなかったルキウスにとって、彼女は別世界にあるような清い女性に思えていた。
 なのに、違っていたとは。
 幻滅が、床に倒れたオクタヴィアへ注ぐ視線を鋭くさせる。

「このようなときだからこそ、言っているのです」

 瞳に一杯の涙を浮かべて、オクタヴィアが続ける。

「お義兄さまにとって、私との結婚は皇帝になるための足掛かりにすぎません」

 はっきりとなされた断言に、鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
 他人の目に、皇帝の座を欲しているように見えていたのか。
 確かに、母はそれを願っていた。しかし、ルキウス自身が望んだことは、一度もなかったのに。

 弁明することはできただろう。ただし、オクタヴィアが信じるはずはない。仮に、今の自分と同じ立場にいる他人がそう言ったところで、ルキウスも信じないだろう。

 ローマの五代皇帝ネロとして名乗りを上げた、今となっては。

「それがどうした」

 結局、開き直りともとれる言葉を口にするのが、やっとだった。
 もしオクタヴィアが、ルキウスの帝位が不当なものだと訴えれば、受理される。元々、ルキウスにはクラウディウスの跡継ぎたる資格はなかったのだから。
 決して、皇帝の地位を望んだわけではない。けれど、そのために強いられたこれまでの人生を、すべて無にしてしまう勇気もまた、持ち合わせていなかった。
 まっすぐに見上げてくるオクタヴィアの目が、恐怖心を煽る。身を硬直させ、発せられるであろう言葉を、ただ待った。

 ――ふっ。

  深い嘆息と共に、オクタヴィアがそっと目を伏せる。

「お義兄さまが皇帝になられた今、私はもう用済みです。むしろ、邪魔者にすぎません。離縁されるか、最悪の場合、殺されるでしょう」
「まさか、そのような――」
「それでも、構いません」

 否定しかけたルキウスを遮って、オクタヴィアが改めてこちらを見上げてくる。
 大きな瞳。まるで琥珀そのもののように美しい輝きから、一筋の涙が頬に伝った。

「せめてもの情けを――お義兄さまに想われる、幸せな花嫁の気分を、一度だけでも……そうしたら、あなたが望まれる処分をしてくださって、構いません」

 悲愴な、決意だった。
 想いを打ち明けられ、ルキウスはただ愕然とする。どうしても、彼女の気持ちが理解できなかった。

 そもそも、オクタヴィアにとって自分は、憎みこそすれ愛すべき対象ではないはずなのに。
 愛してもくれない夫、弟の権利を奪った人間――そのルキウスに対して、なぜこれほどまでの愛情を傾けてくれるのか。

 その命すら、厭わぬほどに。

 父にも、母にも愛されたことのないルキウスに向けられた、初めての愛情だった。
 この想いに応えることができたら、どれほど幸せだろう。ふと、感情が揺れる。
 だがそれは、叶わぬことだった。オクタヴィアを、異性として意識することはどうしてもできなかった。
 一度は妹と呼んだ相手だからという理由だけではない。他のどのような女性に対してもきっと、無理であろう。

 それでも、床に倒れ込んだまま涙する姿に、愛しさが込み上げてくる。もう泣かないでと、抱き起してあげたい衝動にも駆られた。
 けれどそうすればまた、望みのない期待を抱かせるだけだ。
 だったら、涙に暮れるオクタヴィアを無視して、さっさと立ち去るべきだった。きっぱりと拒絶して、諦めさせてやるのも一つの思いやりだったに違いない。

 受け入れられない。突き放すこともできない。

 逡巡の挙句、横を向いたまま深くため息を落とす。

「君を抱くことは、できない」

 ぽつりと、独り言のように呟く。

「だが、離縁はしない。それでも良ければ、傍にいるがいい」
「――え?」
「もちろん、私が君を殺すことなどありえない。約束しよう」

 曖昧な言葉は、彼女の苦悶を長引かせるだけだ。わかってはいても、ルキウスはこのような言い方しかできなかった。

「――本当に……?」

 状況を理解できているのだろうか。ただ生殺しにすると言っているのに、オクタヴィアが発する声には、安堵とわずかな喜色が滲んでいる。

「君が望む限りはな」

 言外に、早く私の元から去ってくれと言っているつもりだった。
 オクタヴィアは決して、愚鈍ではない。とくに感情の機微を読むのには長けていた。
 伝わっていないはずはないのに、はいと頷いた彼女の唇が、微かな笑みを刻んでいるのに気づいてしまった。
 私はなんと、狡猾なのだろう。胸に小さく走った痛みは、罪悪感だった。
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