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第三章
2.憶測
しおりを挟む絵に描いたような、晴天だった。
空は青く、雲は白い。五月の風は爽やかで、気持ちのいい朝とはかくあるべき、という情景が広がっている。
とはいえ、克海の気分は天気のように爽やかではいられない。
昨夜、とは言わないのだろうか。胡桃から電話があったのは、深夜二時だった。
これが他の人なら、さほど驚かない。休み前だからと夜更かしをする友人は珍しくなく、そう多くはないが実際にかかってきたこともあった。
けれど胡桃は、夜が苦手なはずだ。基本的には二十三時前には寝ると聞いたことがある。
だから最初は、誤発信を疑った。だが次に、不自然なことに気づく。誤発信をするには、スマホを操作していることが前提になる。
眠っているのに、ロックを解除して、誤って電話をかける、などとは考えにくい。
ならば、なにか緊急を要することがあったのではないか。
心配になり、とりあえずはメッセージを送ってみたのだ。
もし珍しく起きていて誤発信したのならばよし、もしなにか困ることがあって電話をかけてきたのだとしたら、頼ってきたのにスルーなどしたくない。
結果的には確認してみてよかったのだけれど、だからこそ気分は重くなる。
胡桃が見る夢は、夢診断で読み解く限りはけして悪い意味ではない。ただし、気になる点がないわけではなかった。
まずひとつに、同じ夢をあまりに続けて見過ぎていること。
「連続する夢」はそれだけで警告の意味があるという。胡桃の無意識がなにかを察知し、知らせようとしている可能性もあった。
また、すべてが明晰夢であるということ。眠っている間も、現実を疑似体験しているようなものであれば、疲れはとれない。体力面の心配がある。
もしもっと続くのであれば、睡眠導入剤を勧めてみようかと思っていたくらいだ。
――そして、今回のことだ。
自分は専門家ではないからわからないと誤魔化したけれど、本当は確信をもって言える。
明晰夢とはいえ、夢は夢に過ぎない。リアルに感触があるのだとしても、夢の中で負った傷が現実にもできるなど、絶対にあり得なかった。
だとしたらやはり、あれは見間違いではなかったのだろうか。
思い出したのは、初めて夢の話を聞いた日のことだ。
あのとき、彼女の首になにか、赤い線のようなものが見えた。
まるで痣みたいだと――首を絞められた痕みたいだと。
だがすぐに、まさかと否定した。
胡桃の肌はとても白い。ブラウスの襟でこすれても赤くなることはあるだろう。
そう思って納得した。逆に、そうでなければ納得できなかった。夢で首を絞められたからと、現実の身体に痕が残るはずはないのだから。
――夢の内容に合わせて、自分自身で傷つけていなければ。
しかし性格上、胡桃は自虐に走るタイプではない。
だとすればなにが考えられるか。
推測するために必要なピースのひとつは、香織を助けた時の話の中にあった。
胡桃はその間の記憶がないと言った。無我夢中で覚えていないだけかとも思ったが、違ったのではないか。
思い出すのは、調理実習のときだ。トマトピューレーのビンを「貸してみな」と言った口調と行動。
その日の朝には、余計なお世話だと吐き捨てた。
すべて、気のせいや勘違いだと思っていた。
だが、そうではなかったら?
抜け落ちる記憶、彼女らしからぬ言動、覚えのない傷――
それらをすべて説明できる症例に、心当たりがあった。
最近では、フィクションで見かけることも多い。
ただそれは、あくまでフィクションの中だ。現実で見たことはない。
朝になり、克海はまずいとこに連絡を取った。同級生の女子を連れて行くこと、そして彼女を取り巻く環境と、自分の推測を伝えた。
「可能性もなくはない」
彼はそう言って、考えを否定も肯定もしなかった。
専門家だから軽はずみなことは言えないし、克海では知らない他の事象に心当たりがあるのかもしれない。
とりあえずは会ってみるのが一番だと、彼は言った。怪我を――しかも首という、致命傷になりかねない部分に怪我をするようであれば、放っておくのは危険だと。
克海ももちろんそう感じたからこそ、二人を会せようと思ったのだ。
それでもやはり、改めてそう言われると心配になる。
むしろ、自分の推測が外れていればいいのだけれど。
すぐ近くになった待ち合わせ場所へと歩きながら、腕時計に目を落とす。
時刻は十時半。待ち合わせまであと、三十分もある。
思わず苦笑した。早く行っても胡桃に会えるわけではない。
まして、いとこと違って解決してあげられるわけでもないのに、落ち着かずに早く来てしまったとは。
待ち合わせの駅前広場には、ベンチもある。自販機で飲み物でも買って待っていれば、それほど長くも感じないだろう。
「――えっ……?」
駅前広場に着き、どこかベンチが空いているかと視線を巡らせた克海は、予想外の光景を見た。
いくつかあるベンチのひとつに腰を下ろし、スマホの画面に見入っている少女。
淡い色彩の長い髪が緩やかに風に舞うのが、やけに絵になっていた。
「広瀬?」
呼びかけが疑問形になる。もう一度腕時計を、そして広場にある時計も確認した。時計が狂っているわけではなさそうだった。
「早く来すぎちゃった」
慌てて駆け寄ると、困ったような顔で笑う。
待ち合わせ時間そのものを間違えて待たせてしまったかと焦っただけに、少しホッとする。
ほんの少し、だけれど。
そもそも、いとことの待ち合わせは十三時だ。なのに先に会うことにしたのは、胡桃がひとりでいるのに心細そうだったからだ。
それを失念していたことを、反省する。どうせならもっと、早く来ればよかった。
「えっと、じゃあちょっと早いけど、ランチ行く? 近くにファミレスあるし、時間も潰せるし」
「うん!」
じゃあ行こう。言いながら立ち上がると、制服とは違う、ふわりとしたスカートが揺れた。
――やっぱり可愛いよな。
タートルネックのシャツに薄手のカーディガンを羽織り、膝丈のスカートと少し底の厚いサンダル。街ですれ違えば、たぶん振り返る。
思わずしげしげと見てしまったからか、なぁにと言いたげに首を傾げられる。
もちろん、思ったことをそのまま口にできるはずもなく、なんでもないと誤魔化すしかなかった。
「それもう、コーヒーじゃない……」
ランチにはまだ早い時間で空いていたから、席を自由に選ぶことができた。とりあえずは隅にして、奥のソファを胡桃に勧めた。自分はテーブルを挟んで向かいに座る。
メニュー表をめくって注文し、まずはドリンクバーで飲み物をとってきたのだけれど、ホットコーヒーにかっぱかっぱとミルクポーションを入れる様にツッコミを入れた。
きょとんとされて、まぁ好みは人それぞれだからと思い直したけれど、果たしてあのコーヒーは本当に美味しいのだろうか。
「お待たせいたしましたー」
やけに声の高い店員が、運んできた料理をテーブルに並べる。
普通はどちらがどの料理か確認するが、名札に「実習中」とあったので忘れたのだろう。ハンバーグを克海の、パスタを胡桃の前に置いた。
まぁ普通はこう思うよなと苦笑しながら、テーブルの上で料理を交換する。
意外だったのは選んだ料理だけではない。女子はこういうとき迷うものかと思っていたけれど、胡桃はむしろ克海より早いくらいの即決だった。
こういう、どこか感じる男らしさがあるから、普段はあまり異性を感じずにすむのかもしれない。
「でも、ちょっとボリュームあるけど食べられる?」
運ばれてきたハンバーグは割と大きく、小柄な胡桃の体格を考えると、少し多そうに見えた。
質問に、胡桃はわずかに肩を竦めた。
「朝、あんまり食べられなくて……でも、草野くんの顔見たらホッとして、お腹すいちゃった」
照れた笑顔に、克海の方も照れてしまう。
専門家でもない克海と会ったところでなんの解決策も出してあげられない。果たして早く呼び出した意味はあるのだろうかとも思っていたので、嬉しかった。
「――あっ」
いただきます、と手を合わせて食べ始めたところで、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。見ると、いとこからの連絡だった。
「早く終わった。大丈夫なら今から合流する」
画面に映し出された文字に、安堵が湧いた。
土曜日は基本的には休診だけれど、どうしてもという患者がいる場合、予約分だけは診療をするらしい。
今日は一人だけいる、遅くても十三時を越えることはないというので、待ち合わせをその時間にしていた。早く来てもらえるなら、その方が嬉しい。
「いとこ、もうこっちに来られるみたい」
胡桃にも一応報告し、彼にも店を伝える返信をする。病院からここまで、歩いても三十分もかからない。彼は車での移動だから、もっと早いだろう。
「そっか! ちょっと緊張するね」
眉を歪めて笑う胡桃は、とても緊張している女子とは思えないくらい大きな口を開けて、ハンバーグを放り込んだ。
否、もしかしたら初対面の男の人が来るから、その前に急いで食べてしまおう、ということか。
やっぱりおれのこと、ちらっとも意識してないんだな。思うほどに、苦笑を禁じ得なかった。
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