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気高く咲く花のように ~モン トレゾー~ 6話

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「葵ちゃん、いったいどうしたの?昨日までの勢いはどこに消えたの?せっかく今日は学校が休みで朝一から撮影できるっていうのに」
「すみません」
 葵の唇が小さく震えている。
 何度目か分からないダメ出しだ。
「葵ちゃん、色気が足りないのよ」
「・・・はい」
 普段は澄んだ綺麗な声が、掠れて吐息のようだ。
「誘うまではできてるわ。もっと自然に抱かれて。篠原ちゃん、少しリードしてあげて」
「わかりました」
 意識しなくても触れられると、体が強張る。
 触れられるのが嫌だ。
「さっきより悪くなってるわ。好きな人を拒絶してどうするの?」
 監督の言葉が胸に刺さる。
「すみません」
 謝る声が震える。
「監督、少し休憩しませんか?今日は朝から葵の様子がおかしかった」
「ベッドシーンが嫌なだけでしょう?だから清純派の子は扱いづらいのよね」
「・・・すみません」
 掠れた声が、小さく震えて語尾は言葉にすらならない。
「謝罪くらい、大きな声でしなさい」
 いつもはおねえ言葉で話す監督が怒鳴って、葵は唇を震わせて体を強張らせている。
「監督、葵を追い詰めないでください」
「篠原ちゃん、説得して」
「今日は無理だと思います」
「無理でもするの。葵もプロでしょ。じゃ、少し休憩ね」
 監督がスタジオの外に出ていく。
 葵はベッドの上で膝を抱えて顔を埋めた。
 泣き出すのを必死にこらえていた。
 その様子を見たスタッフもスタジオから出ていく。
 二人だけになって、ふわりと体の上にバスローブをかけられた。
「空調が利き過ぎだな。寒いだろう」
 葵は顔を埋めたまま微動だにしない。
「昨日、あんなこと話さなければ演技できたかもしれない。追い詰めたのは僕だな」
 葵は答えない。
 朝リビングに行くと、葵は床に座っていた。
 台本を見ているようで、どこか焦点が合っていない。
 一晩中練習をしていたのか、床に練習用のワイングラスが倒れていた。
 声をかけても返事は帰ってこない。
 今にも倒れそうな蒼白な顔に、表情は完全に消えていた。
『バスローブで仕事に行くのか?』その言葉には反応した。
 ただ着替えた服は、いつものワンピースではなかった。
 久しぶりに見る男性用の服を着ていた。
 着替えると、台本を開いた。
 文字を追っているようで、どこかぼんやりしている。
 食事も水も何も摂らない。
 言葉は何も話さない。
 反抗とは違う気がして、体に触れようとしたが、葵は体に触れられることを全身で拒んできた。
 拒むときでさえ、言葉を発しない。
『仕事に行くぞ』と言うと、すっと立ち上がって、葵は篠原の後をついてきた。
 篠原は言い争った後、葵を一人にしたことを悔やんでいた。
 葵の俳優としてのプライドも傷つけた。
 やっと好きだと言ってくれるようになった葵の想いも、裏切ってしまった。
 全てを独占したいと言われていたのに。
 言葉のナイフで心を切り裂いた。
「どうしたら許してくれる?」
 葵は首を左右に振る。
 堪えていた涙が、流れいく。
「葵、なんでもいいから声を聞かせてくれないか?」
 首を振って、葵はベッドから降りた。
 歩きながら素肌にバスローブを身に着けていく。
 いつもは綺麗に歩く後ろ姿が、ふらついて左右に揺れている。
「葵?」
 篠原もバスローブを身に付けながら、葵の後を追う。
 扉を飛び出して、葵は素足のまま廊下をかけていく。
「葵、待て。危ない」
 人通りの多い廊下を、人を避けるように素早く走り抜けていく。
 スタッフたちは手にいろんな器材を持っている。
 走り抜けるのは危ない。
 篠原は急いで葵を追う。
 テラスに出る扉を開けるのが見えた。
 思いつめてテラスから飛び降りるのではないかと、嫌な予感が過る。
 篠原も素足で駆けていた。
 扉を開いたとき、刺さるような日差しの中で、葵の体がテラスに倒れていく。
 ビル風の熱風に長い髪が舞い上がっている。
「葵!」
 抱き起しても、葵は目を開けない。
 意識は完全になくしていた。
 さっきまで冷たかった葵の体は、夏の暑さに晒されていたように熱くなっていた。


 何かが通り過ぎていく。
 知らない人が、何かを話している。
 知っているはずの言葉なのに、どこか遠くの異国の言葉のようで理解できない。
 何かを話そうとしても、出るのは吐息だけだ。
 音は出ない。
 出ないなら閉ざしてしまおう。
 無理に話す言葉も見つからない。
 空が見たい。
 見える天井は、灰色をしていた。
 頭の中に言葉が流れてくるのに、声だけが、その言葉を発しない。
 息苦しい。
 優しくて大好きな手は消えていた。
 それが誰だったのかも思い出せない。
 触れられる手はとても冷たく感じられて、体が震えて動いてくれない。
 声は遠くて、意識が朦朧とする。
『好きな人を拒絶してどうするの?』
 好きな人って誰?
 誰か教えて!
 誰かが怒っている。
 謝らなくてはいけないのに、声が出ない。
 知らない人が、声をかけてくる。
 その声を聞いていると涙が込み上げてきた。
 呼吸をするのが苦しくて、広い場所に行きたくなった。
 酸素を求めて泳ぐ魚のように、駆け出した。
 扉を開くと青い空が見えた。
 眩しい光が目と肌を焼く。
 素足と体が焼かれるように熱い。
 呼吸をしようとしても吸い込めない。
 ただ熱い空気が体を纏い、ビル風が熱風を巻き上げてくる。
 風に煽られるように体が浮き上がった。


「過労による発熱だと思われます。栄養失調と貧血、脱水症状もみられますので、入院して点滴で治療を行っていきます」
「意識が戻らないのが心配です。倒れたときに頭を打ったかもしれません」
「額に打撲した傷があるので、頭の検査もしてみましょう」
 救急車で運ばれた葵は、救命救急センターに運ばれ診察を受けた。
 一緒に救急車に同乗した篠原が、担当医と向かい合っていた。
 その後ろで、葵のマネージャーが、そわそわとしている。
「どれくらいで回復するでしょうか?」
「まずは、意識が戻らなければ、なんともいえません」
「そうですよね。参ったな。このドラマの収録がこれ以上遅れると、月のシンフォニーの舞台に間に合わない」
「小池さん。葵はまだ意識を失っているんです。仕事の話はやめてもらえませんか?」
「本当は、舞台の練習に入ってないといけない時期なんですよ。葵の仕事が急に増えたから、予定が狂ってるんです」
「仕事の話は、患者さんのいないところでお願いします」
 葵の担当ナースがひそめた声で注意する。
「私の蓮さまに何かあったら、いったいどうするんですか?蓮さまの体調管理もできないクズのマネージャーは首を洗って待ってなさい。蓮さまのファンクラブからマネージャー交代を進言しますよ」
「ひいっ」
 小池は竦みあがるように、篠原の背後に隠れた。
 看護師は葵の乗ったストレッチャーを検査室に連れて行った。
「篠原さん、どうしましょう?クビになるかもしれない」
 篠原は立ち上がると、小池を置いて葵のいる検査室に向かって歩いて行った。
 葵のインスタグラムは、二日間更新されていない。
 舞台の練習が始まっていることを篠原は知らなかった。
 葵が深夜までの撮影を承諾して、ミスをしなかったのは、早く終えるためだったと初めて気づいた。


「葵、目を覚ましたか」
 翌日の昼ごろ、葵は目を覚ました。
「葵君、大丈夫?」
 小池の姿を見つけて、葵は声をかけようとしたが、声が出なかった。
「葵君、声、もしかしたら出ないの?」
 こくんと葵が頷いた。
「葵、ほんとなのか?」
 篠原の姿を見た葵は、よそよそしく頭を下げた。
「筆談できそう?」
 小池がペンと手帳を取り出して、起き上がろとした葵を支えて体を起こしてやる。
『声がでません。すみません。こちらのかたは、どなたですか?』
 書かれた文字を見て、小池と篠原が視線を合わせて、驚いた顔を見せた。
「葵君、篠原さんだよ。覚えてないの?」
 こくんと頷く葵を見て、篠原は「どうして?」と声を上げていた。
「取り敢えずドクターに知らせないと」
 小池はナースコールを押して、葵の様子を伝える。
「葵君、いつから覚えてないの?」
「わからない」と唇が動く。
「まさか、僕を忘れるなんて」
「声をなくした方が重要です」
 ドクターがやってきて、診察と検査をしていく。
「前日の頭の検査では異常はありませんでした。声帯の検査も問題ありませんでした。失声症はストレスと心的外傷などをひどくおった時に現れることがあります。一過性の場合と、そうでない場合があります。脳ではなく心因性の病なので、カウンセリングと併せて発声練習で習得させる方法があります。篠原さんを忘れたことは、解離性健忘症でしょう。こちらもストレスやトラウマなどで起こる記憶喪失です。記憶は自然に戻るときと、ずっと忘れたまま思い出せないこともあります。空白期間はそんなに長くはないようですから、日常生活には支障はないかと思われます」
「短くはない。20年間の付き合いのある僕を忘れたんだ」
「篠原さん、落ち着いてください」
 小池が声を上げる。
「葵君、ドラマの仕事は覚えている?」
 首を左右に振る。
『どんなドラマをしてたんですか?』
「葵の役は、主演女優の役と弟の役だよ」
 小池が台本をわたす。数ページ斜め読みして台本を閉じた。
『どのあたりまで撮れてるんですか?』
「ラブシーン以外は全部終わってる」
 葵は頷いた。
『相手はどなたですか?』
「篠原さんだよ」
『セリフはあるんですか?』
「セリフを言わなくても、葵なら仕草だけで表現できると思う」
『期限が迫っているんですね?』
「そうなんだよ、葵君」
『終わらせましょう』
「葵君、できるの?」
『記憶を忘れる前の僕と今の僕では演技が変わっているかもしれません。でも、穴をあけるわけにいかない』
 葵はベッドを降りようとして、医師に止められた。
「葵君、体の方はまだ回復してないから退院は、先になるよ」
 葵は首を左右に振った。
『仕事と学校だけ、短時間でいいので病院から通わせてください』
「困った患者だね」
 主治医は困った顔を見せた。
『ご迷惑をかけます』
「それにしても、綺麗な文字だね」
 葵は微かに微笑んだ。
『大学は卒業したいんです』
「医者としていえることは、体調を万全にして日常生活に馴染むことを勧めるよ。ふとした瞬間に思い出せることがあるからね」
 葵は頷いた。
「取り敢えず、熱が完全に下がるまでは安静にしてください」
 葵は頷いて、ベッドに横になる。
 その体を支えるように手を差し出したのは、篠原だった。
 葵の体はまだかなり熱かった。
 葵は軽く会釈をして、目を閉じた。
 疲れているのか、すぐに静かな寝息が聞こえてくる。


 記憶をなくした葵を腕に抱いて、ラブシーンを演じる。
 燃え尽きるような激しさのある演技から、哀愁が漂う演技に変わった。
 葵が台本を読んで、考えた演技なのだろう。
 瞼と唇の動きだけで表現する。
 仕草や視線の動かし方がうまい。
 演技も問題ない。
 記憶をなくす前の葵は、いろんな悩みを抱えながら、必死に乗り越えてきた主演の役を、記憶をなくした葵は、なんの躊躇いもみせずに、過激な演技もこなしていく。
 この姿は葵の役者としてのプライドなのだろう。
「OKよ。ちゃんと演技できてるわ」
 葵は軽く頭を下げる。
「でも、前の葵ちゃんの方が」
「監督、撮影したいなら、それ以上は何も言わないでください」
 篠原が監督の言葉を遮る。
 以前の葵の方が演技に深みがあって、もっと繊細だった。
 視線を向けられるだけで愛情を感じられた。
 滴るような色気もなくなっている。
 実際に葵と触れ合っている篠原が、一番、そのことを感じている。
 今の葵からは愛情は感じられない。
 ただ台本通りの動きをしているだけだ。
 葵は次のシーンの準備をしている。
 ほんの数時間で十一本のラブシーンを全部終わらせる気でいる。
「篠原ちゃんの方がバテてるんじゃない?葵の一時外出は3時間よ。病院の往復時間を逆算すると二時間ちょっと。一時外出中に終わらせるわよ」
「わかってます」
「葵ちゃんが記憶を失くしてくれたお蔭で、数週間はかかると思っていたラブシーンが数時間で終わるのよ。ほんと素直でいい子よね」
「監督、今の葵が本物の葵に見えるんですか?」
「いいのよ。他の場面がよかったから、いいドラマになるわ。これが葵ちゃんの最後のドラマになったとしても名作だわ」
 篠原は、パイプ椅子を蹴り上げた。
 盛大な音がして、皆の視線が篠原に注がれるが、葵の視線は向けられていない。
 ただ一心に台本を読んでいる。
「葵ちゃんの足を引っ張らないでね、篠原ちゃん」
 感情が昂ぶっている篠原に、監督は一言言って離れていく。


「クランクアップ。お疲れ様でした」
「お疲れ様」
 スタッフから花束を渡されても嬉しくはなかった。
 もうひとつの花束は、無造作に床に置かれている。
 受け取るはずの葵が、ここにいない。
 雑に扱われている花束を見て、このドラマの主演女優は最初から雑に扱われていたことを思い出す。
 松坂が去った後、セリフを覚えているからと、葵にすべてを押し付けて、学校から戻ると、食事の時間も与えず、深夜までの撮影が続いていた。
 家に帰っても学校の課題と台本を読んでいた葵を思い出す。
 深夜に食べると胃もたれすると、篠原の前では食事をほとんど食べてなかった。
 食べたのは出かける前に篠原が作った朝食だけだったかもしれない。
 食欲がないから、量を減らしてほしいと言われた時、無理やりにでも休ませるべきだった。
 睡眠も食事もとらずに、猛スピードで走り抜けていった葵の姿が、瞼の裏に映る。
 撮影の時間はまだあった。
 病み上がりの弱った体は以前より痩せていた。
 もっと休ませてあげたかった。
 それでも葵は熱が下がると、すぐに外出願いを出してきた。
 また熱を出しているのではないかと、心が騒ぐ。
 乾杯が終わった後にグラスに口をつけずに、テーブルに置いた。
 受け取った花束を畳に置くと、席を立ち入り口の床に置かれた花束を掴んで宴会場を後にした。


 3時間の外出で疲れた葵は、部屋に戻ってから眠っていたが、隣の部屋から大きな笑い声がして目を覚ました。
 知らぬ間に部屋は暗くなっていた。
 まだ面会時間なのか病棟は少し騒がしく、隣の部屋からは、まだ笑い声が聞こえる。
 ナースが部屋に来たのか、「静かにしてください」と注意されている。
 部屋が急に静かになった。
 葵の部屋は名前がはりだされていない。
 噂を聞きつけたファンが来るといけないからと、言われた。
 面会に来るのはマネージャーの小池くらいだ。
 倒れて目を覚ました少し後に、社長が顔を見せに来て「今は休め」と葵を抱きしめて帰って行った。父親同然の社長は、葵の成長をずっと見てきた人で、たまに家に招いてくれたり食事に連れいってくれたりする。
 その後も、時々顔を見せてくれるが、もともと忙しい人なので、小池ほどは来てくれない。
 がらんと広い特別室は応接セットもついていて、ゆったりとしているが、ひとりでいると寂しく感じる。
 目が覚めてしまって、点滴で繋がれた体を起こし窓辺に向かう。
 都会のビルの灯りと首都高の灯りが綺麗なイルミネーションに見える。
 空は晴れていて、控えめな星空が見える。
 扉がノックされて、扉が開いた。
 廊下の灯りが暗い室内に差し込んで閉じていく。
「起きていたのか?」
 葵は頷いた。
「しのはらさん」
 唇だけで名前を刻む。
 篠原も毎日来てくれる。
「今日は疲れなかったか?」
「少し」
「僕はすごく疲れた」
 葵の隣に立ち、手に持っていた花束を葵の手に握らせた。
「なんですか?」
「クランクアップだ。一番頑張った主役がもらわなくて、誰がもらうんだ?」
「篠原さんだって」
 唇の動きだけで、篠原は言葉を聞き取ってくれる。
「葵に比べたら、僕の働きなんてたいしたことじゃない」
 そんなことはないだろう。
 葵は首を左右に振る。
「いい演技だった」
「記憶を失くす前の僕ですか?」
「記憶を失くす前の葵は、主人公を忠実に演じていた。あんなに色気のある演技は見たことがなかった。記憶を失くした後の葵も、プロの顔をした素晴らしい演技だった。特にラストの毒を飲んで死ぬ時の幸せそうな表情は目を奪われた」
「ありがとうございます」
 葵は丁寧に頭を下げた。
 そのよそよそしい姿を見て、手を握りしめ篠原は唇を震わせていた。
 記憶を失くす前の葵に一番言ってやりたかった言葉だ。
 こんな安い言葉でなくて、もっと褒めたかった。
「大丈夫ですか?」
「少しも大丈夫じゃない」
 今にも泣き出しそうな顔で、じっと見つめられて、葵はどうしたらいいのか分からず、おろおろとしてしまう。
「なにか飲み物を」
 葵が冷蔵庫に向かおうとしたとき、篠原が躊躇いがちに小さな声を出した。
「葵、ほんの少しだけでいいから触れてもいいか?」
 葵はじっと篠原を見つめた。
 疲れた顔の篠原は、今にも倒れそうなほど弱って見えた。
 小池から、葵が篠原のことをずっと憧れていたことと、しばらく一緒に暮らしていたことを聞いていた。
 葵は花束をテーブルに置いて、篠原の方に体を向けた。
「触れてもいいのか?」
 葵が頷くと、篠原の手が包み込むように体を抱きしめてきた。
 篠原の顔が葵の肩に埋められるように載せられている。
「ごめんな、葵。声を奪ってしまって」
 葵は首を左右に振る。
 そっと体が離れていく。
「また来るよ」
 そう言うと、篠原は葵に背を向けて病室を出て行った。


 葵の病室には月のシンフォニーのメンバーが揃っていた。
「葵、誕生日のお祝い遅くなってごめんな」
 一番年上の裕久が葵の頭を撫でてくる。
 ベッドを起こされ座っている葵は、首を左右に振る。
「ドラマの撮影中だったから、遠慮したんだ」
 葵は頷く。
 裕久の次に年上の卓也が葵の頭をくしゃっと撫でる。
「病院に電話して聞いてみたら、食べられるなら何でも食べていいって言われたから、いろいろ用意したんだ」
 卓也よりひとつ年下の弘明が葵の頭を抱き寄せて、頭をぽんぽんとなだめるように撫でてくる。
 葵のベッドの上の移動テーブルの上は、ピザやたこ焼き、串焼きなどが置かれている。来客用のテーブルの上もケーキやジュース、様々な食べ物が置かれている。
「さすがに病院だからお酒は持ち込めないけどね」
 弘明よりひとつ年下の俊介が、葵の頭をくちゃくちゃとかき混ぜて、手櫛で髪を整えてくる。彼らはいつも違う撫で方で、葵の頭を撫でる。
 懐かしくて、葵は笑みを浮かべる。
「食べられそうか?」
 裕久が心配そうに顔を覗きこんでくる。
 頷くと、四人は嬉しそうに笑った。
「言葉、ほんとうに話せないんだな」
 卓也の言葉に返事をしようとするが、吐息が漏れていくだけだった。
「無理しなくていいから」
 葵は頷く。
「葵のプロダクションの社長から電話もらって、葵の今の状態は聞いた。それで今度の舞台どうしようかって話し合ったんだ。葵のいない舞台に人が集まるか正直不安で、ファンのみんなにもアンケートしてみた」
 一番年上の裕久が口を開いた。
「そうしたら、葵の歌とセリフのない舞台でも蓮に会いたいって結果が一番多かった」
 卓也がスマホでSNSのアンケートと表示させて見せてくれた。
 よく見ろと言うように、指先がアンケートの文字をなぞる。
 休演の文字が目に付いた。0%だった。
 その次に、蓮以外の4人の公演、これも0%だった。
 裕久が一番多かったと言った数字が莫大すぎて数字が読み取れないくらいだった。
 卓也を見上げると、口角を上げるように微笑む。
「葵は、セリフないと舞台には立ちたくない?」
 弘明が葵の目を覗き込むように聞いてくる。
 首を左右に振る。
「それにさ、舞台に立ってたら、知らぬ間に話せるようになってるかもしれないだろう」
 卓也が満開の笑顔を向けてくる。
「いいの?こんな僕でも」
 唇の動きだけで、四人は聞き取ってくれた。
「もちろんだよ」
「葵、一緒にやろう」
「葵がいなけりゃ月のシンフォニーは演じられない」
「俺たちが葵を支えるから」
「ありがとう」と唇を動かすと、四人は順番に葵をハグする。
 四人の温かな腕に抱かれて、体から力が抜けていく。
「ほら食べよう」
「栄養失調なんてなるなよ。月の王子がみっともないぞ」
 弘明が腕に刺さった点滴のチューブを指で揺らす。
 卓也が紙コップにオレンジジュースを注いでいく。
「まずは乾杯しようぜ」
 俊介が声をあげる。
 みんなでカップを持って、裕久が「かんぱーい」と声をあげた。
「あとで、みんなで写メな。葵もインスタ更新しろよ。姫たちが心配してる」
 葵が頷くと、俊介に口の中にたこ焼きを押し込まれる。
「食べてるところ撮ってやる」
「おいおい、もっと優しくしてやれよ」
 裕久がスマホを構えながら、たこ焼きを近づけてくる。
「ほら、早く、口開けて」
 急いで食べて口を開けると、パチリと写す。
「インスタ映えしないとね」
「俺、葵と一緒に撮る」
「卓也狡い。みんなで撮ろう」
 葵を挟んで、全員集合してみんなが順番に写真を撮っていく。
「葵のスマホは?」
「かばんのなか」唇の動きで、俊介が頷いて、葵の鞄の中からスマホを取り出す。
「撮るぞ」
 葵は頷いて笑みを浮かべる。
「めっちゃ可愛い顔で撮れたぞ。葵の女装も可愛かったけどさ」
「じょそう?」
「覚えてないのか?」
 葵が頷くと、葵のスマホを開いて、SNSを表示させる。
 ロングヘアーにワンピース姿の写真がアップされている。
 卓也からスマホを受け取り見ていくと、いろんなワンピースを着ている。
「そういえば、火傷は治ったのか?」
 卓也に言われて首を傾げる。
「ほら、ここ。スカート捲って、包帯を見せてるだろう?覚えてないのか?」
 頷いて、布団を捲って、病院貸出用の病衣の合わせを開いて、足を見る。
 包帯がまだ巻かれている。
「まだ治ってないのか」
「痕が残ったりしないだろうな」
 卓也の後に弘明が言った言葉が、なにか胸に引っかかる。
『足を見せろ』
『痕が残ったらどうするんだ』
 誰かに言われてたような気がする。
 じっと足を見ていると、裕久が病衣を整えて布団をかけてくれる。
「今は考えるな」
「そうだぞ、気楽に行こうぜ。今日はケーキもあるし、インスタ映えする写真撮ろうぜ」
 俊介がケーキを運んでくる。
「ロウソクつけるか?」
 二本のロウソクがケーキに立てられた。
「二さい?」
「二十本立てると火災報知機が作動するからって、ナースに注意された」
 残りの十八本のロウソクは、葵の手に持たされた。
 葵はにこにこと笑う。
「このロウソクを使って、花火やろうか?」
 裕久が袋から花火を取り出した。
「食べたら、外でするか?」
「いいの?」
「許可は取ってある。ただし、消灯時間までに戻ることだって」
 葵は頷いた。
「じゃ、早く食べるぞ」
 俊介がピザを食べだす。
「ちょっと冷めたぞ」
「それはそれでいいじゃないか」
 裕久が葵の手からロウソクを取って、代わりにピザを持たせてくれる。
 一番年上の裕久は、このメンバーの本当のリーダーだ。
「よく噛んで食べろよ」
 年は二十八歳。
(誰かと同じだった。誰だった?)
 頭がぐらっとして胸がぎゅっと痛くなった。
 胸を押さえると、裕久が背中を撫でてくれる。
「大丈夫か?」
 頷くと、
「忘れたことは忘れてしまえ。無理に思い出そうとするな。俺たちのこと覚えていただけで十分だろう」
 四人の視線がじっと葵に向けられていた。
 葵はその視線に応えるように頷いた。
 病室の外扉の横に立っていた篠原は、静かに体を起こすと病室の前から立ち去って行った。


 葵は自分のSNSを遡って見ていく。
 女装の写真が何枚もアップされて、テレビの収録中と書かれている。
 太腿に包帯。火傷をした。
 布団を捲って、病衣を開ける。
 包帯は今朝の回診で取れた。
 痕は残らなかった。
 滑らかな綺麗な肌だ。
(どこで火傷したんだろう?)
 医師に聞いてみたら、紅茶で火傷したと言っていた。
 早朝の救命救急センターで処置され、連れてきたのは、篠原だと言っていた。
 初診日はメモに記入した。
 思い出さなくてもいいと言われたが、記憶がないのは、どこか寂しい。
 言葉も話せるようになりたい。
 舞台で歌って踊って、みんなと演技をしたい。
 セリフがなくても文句はないが、来てくれた人にありがとうと言えるようになりたい。
 演技は一期一会。
 同じ演技は二度とないのが舞台だ。
 舞台の新しい台本は、葵の所属するプロダクションの社長が、知り合いの脚本家に頼んで大至急作ってもらったと言っていた。
 台本は二冊ある。
 一冊は葵のセリフが一つもない設定のもの。
 もう一冊は、葵のセリフが入ったもの。
 ストーリーは同じだ。
 セリフは覚えたが、セリフがない分は、葵の演技力にかかっている。
 仲間たちは、既に練習に入っている。
 自分だけが置いてきぼりで、声もやはり出ない。
 早く退院したい。
 入院して二週間が経っていたが、未だに点滴は取れずに退院許可も下りない。
 大学はもう少しで夏休みに入るが、まだ授業がある。
 気持ちが焦る。
 焦っても、体がまだ重い。
 点滴に繋がれながら、ステップの練習をしてもすぐに疲れてしまう。
 このまま舞台の初日を迎えそうで、不安だけが押し寄せてくる。
 トントントンと軽やかなノックの音がした。
 少しだけ扉が開いて、顔を出したのは史郎だった。
 学校帰りなのか、通学用のバックを持っている。
「久しぶり。葵はげーのーせーじんだって自覚あるのか?火傷の次は、過労と栄養失調で入院なんて、もう笑っちゃうよ」
 葵はぷっと膨れっ面をする。
「差入れ持ってきた。あと宿題もたくさんね」
 鞄の中から、プリンが出てくる。
「二号館のカフェのプリンだ。葵、ここのプリン好きだろう?お代わりもあるぜ」
 プリンを三つベッドの上に置くと、椅子を持ってきて、葵の横に座る。
「一個は俺のね。一緒に食べよう」
 葵はごそごそと体を起こす。
 学校にしばらく行けなくなったとラインをしたのは、入院してすぐだったが、史郎なりに気を遣ったのだろう。
 ラインのやり取りだけで、葵の体調が回復してきたのを察して面会に来てくれたのだろう。
「記憶の整理がしたいんだって?俺で分かることだったら、なんでも手伝うよ」
 プリンを食べながら、史郎が言う。
 葵が話せないのは伝えてある。
 葵が何をしてほしいかもラインから汲み取ってくれているようだ。
 プリンを食べ終えて、史郎は鞄の中から数枚の紙を取り出した。
 日付と葵のSNSにあげた写真と空欄がある。
 ところどころに、文字が書き込まれている。
「僕の知ってることだけ書きこんである。仕事のことは僕には分からないから、小池さんに聞くとか?葵が書き込んでみたらどうかと思って」
 プリンを食べながら、葵は頷く。
「葵は思い出していいのか?言葉を失うくらいショックなことがあったんじゃないのか?」
「そうかもしれないけど」
 葵はスマホを取り出すと、ラインを開いて、史郎に文字を打ち込んでいく。
『言葉を失った僕は、芸能界ではやっていけない。ずっとこのままだったら、社会でも生きていけない』
「どんな覚悟もしてるわけだね」
 ポンとスタンプを打ち込む。
 可愛いウサギが頷いている。
 史郎が声を上げて笑った。
「げーのーせーじん辞めても、友達は僕がいるからOK! 」
 葵も笑う。
『授業のノートのコピー取ってくれてる?』
「今日はそれも持ってきた」
「助かる」
「いっぱいあるから覚悟しておけ。退屈だとか言っていられないくらい。教授からも課題もらってきてるぞ」
 ポンとスタンプを押す。
 ありがとうのプラカードを持ったペンギンが飛び出した。
 史郎はスマホを見て、笑いながら鞄の中からペットボトルを二つ出して、葵に一つを手渡した。
「学校の授業の合間に飲んでたやつだ」
 葵はすぐに蓋を開けて口に運んだ。
 ミルクティーだ。
 学校の自販機で買ってきたのだろう。
 馴染みのある味がする。
「もう一個、お土産あるんだ」
 今度は熱いホットチョコ。
「これは、葵の好物だ。子供の頃からあっつい夏でも飲んでる」
 ペットボトルの蓋を閉めて、ホットチョコを掴んでプルトップを開ける。
 コクコクと飲むと、甘い味が口の中に広がる。
「おいしい」
 確かにホッとする。
 ホッとするのに、胸の奥が痛い。
 それが何か考えると、胸が苦しくなってくる。
「葵、大丈夫か?」
『何か思い出せそう』
「また買ってきてやる」
 頷いて、史郎が作ってきた紙を読んでいると、鈴村和也さんの身代わりが篠原純也さんだったという一文を見つけた。葵が指を指すと、史郎が笑った。
「マッチングアプリに俺が葵の高校時代に撮ったメイド喫茶の写真載せてたの。葵、めっちゃ怒ってすぐに削除させられたんだけどさ。そのころには、もう和也さんとライン交換始めてて、仲のいい恋人みたいな会話になってたんだ。俺がどうしても和也さんが好きで会いたいって言ったら、俺の代わりに葵が女装して和也さんに会いに行ってくれたんだ。一回目は喫茶店でアイスミルクティーとミルフィーユ食べて、その後、水族館に行ったんだ。お土産はこれね」
 史郎は葵の手に、キーホルダーを握らせた。小指の先ほどのペンギンがついている。
「僕がペンギン好きだって言ったから、一時間ペンギンの水槽の前にいたって言ってた。ペンギンの前にイルカショーも見たって。大きなペンギンのぬいぐるみ買ってくれるって言うのを断って、一番小さな物にしてもらって言ってたよ。キーホルダーは葵にあげる。これは篠原さんが買ってくれたものだよ。俺の感だけど、葵と篠原さんは恋人同士のように見えた」
「こいびと?」
「葵からは聞いてないけどね。二回目のデートで葵は篠原さんと姿を消した。何度も連絡したけど、三日間連絡が取れなくなってた。その間に篠原さんと何かあったはずだよ。それから、その間に、葵は足に火傷をしてた」
 葵は右足をそっと撫でる。
「突然、和也さんに会わせるって電話が来て、葵と篠原さんが迎えに来たんだ。すごく高そうな料亭に連れて行かれて、和也さんを紹介された。すぐに葵たちは帰って行ったけど、葵、そのとき、篠原さんに肩を抱かれてたよ。すごく自然で葵が甘えているように見えたし、葵、幸せそうに微笑んでいた。それを見て、俺は葵と篠原さんが恋人になったんだって思ったんだけどね」
(微笑んでいた、僕が?)
 無意識に頬に手が触れる。
 史郎はクスッと笑うと、自分のスマホに写真を表示させた。
「和也さんとは恋人になれたよ」
 大きなイルカのぬいぐるみを抱いた史郎と男性がペンギンの水槽の前で、笑顔で写っていた。
「葵のお蔭で、僕は今とても幸せだよ。お礼になんでもしてあげたいくらい」
「史郎、おめでとう」
「それは前にも聞いたけど、ありがとう」
 葵はペンギンのキーホルダーをじっと見つめた。
「宿題、どこに置く?応接セットのテーブルの上でいい?」
 頷くと、史郎はテーブルの上に、大量のコピー用紙を置いた。
 その多さにギョッとすると、数枚の用紙を持って近づいてきた。
「これは教授から預かった課題だよ。テスト受けられなかった分だって。提出は夏休みが終わった後でいいから、今は休みなさいだって」
 課題を見ると、全教科とも同じ内容だった。
「葵のことはテレビで報道されてるから、みんな知ってる。学校でも話題に上がってるし、マスコミも取材に来てる。教授も心配してるんだよ。課題を出さないといけないから、一応書面に書いたって感じだね。夏休みに有意義だったこと。文字数制限なしだよ。しかも全教科統一でよしって大盤振舞だ。書けそうもないなら名前だけでもいいって」
 すっと葵の手から課題の紙を取り上げると、それもテーブルの上に置いた。
「このまま夏休みに入りなさいだって。葵、授業態度もいいし、出席はちゃんとしてたし、定期テストも満点だったから、休んでも単位は足りるって。ノートのコピーは俺が全部する。ノート提出すれば単位くれるって。少しは体を休められるだろう?」
 葵は何度も頷いて、深く頭を下げた。
『史郎ありがとう。教授にもお礼言っておいて』
「うん、わかった」
 史郎は椅子に座らずに、葵の横に座った。
 史郎の重みでベッドが傾く。
 自然と体が近くなる。
 肩と肩が触れる。幼いころからの馴染みのある距離だ。
 ポケットからキャンディーを取り出して、史郎は一つを葵の膝の上に置く。
 もう一つは包みを解いて自分の口の中に入れた。
 スマホを置いてキャンディーを掴むと、葵は史郎の胸に顔を埋めた。
 背中にふわりと腕が回る。
「我慢しなくて泣いていいよ」
 葵は頷いて、史郎の胸でむせび泣いた。


 泣きながら寝落ちたのか、気づいたら史郎は帰っていた。
 ラップのかけられた食事がテーブルの上に置かれていた。
 冷めた病院食は美味しくない。
 食べたくなくても食べないと早く退院できない。
 時間を見ると、まだ面会時間だ。
 そんなに遅くないことに気づいて、スマホで小池にラインを送る。
 勉強道具を持ってきてほしかった。
『葵君、今起きてるの?届けたいものがあるから行くね。他に欲しいものはない?』
『ホットチョコが欲しい』
『少し待っててね』
『お願いします』
 目を閉じて、ベッドに横になってると、また少しうつらうつらとしてくる。
 控えめなノックの音がして、葵は目を覚ました。
 社長と小池、久しぶりに見る篠原が入ってきた。
「こんばんは」
 社長が声をかけてきた。
 葵は起き上がって深く頭を下げる。
「葵、ご飯は食べなきゃだめだろう」
『眠ってしまって、起きたら置いてあったんです』
 小池が持ってきてくれたホワイトボードに文字を書く。
「冷えてて美味しそうに見えないな」
 葵は苦笑して、小さく頷いた。
『今日はなんですか?』
「舞台の映像を持ってきたんだ。葵の担当するポジションは振付師が踊っている。みんなは完成に近づいている。あとは葵が踊って、演技をしてくれたら完璧になる」
『完璧ですか?完璧にしたいです。これが僕の最後の舞台になるから』
「誰が最後の舞台にすると言ったんだ?葵、今は何も考えるなと言っただろう」
 葵は首を左右に振る。
『セリフは入ってます。ただ、声が出ないし、体がまだすぐに疲れてしまって。舞台にも間に合わないかもしれない』
「今、ドクターと相談してきた。血液検査の結果がやっと正常値まで戻ったと言われた。体はまだ衰弱しているからまだ安静が必要だが、最低二週間、家で安静が保てるなら退院してもいいそうだ」
「ほんとうに?」
「そこで問題があるんだが、小池は料理が下手で葵に追い出されたことがあるだろう。新しく雇ったマネージャーは料理が得意だそうだ。だが、うまくやって行けるかが心配だ。今の葵を独り暮らしにはさせられない。ご両親から私は葵のすべてを預かっているからね。今回の件も連絡はしたが、今会いに行っても心労をかけるだけだからと私にすべて任せると言われたよ」
 葵は頷く。
 中学に入って以来両親とも会っていない。電話は時々あるが、留守電に入ってることが多く、忙しさにかまけて連絡もしてなかった。
「私の家に来てくれてもいいのだが、家内は家を空けることが多い。家政婦と二人では落ち着かないだろう?」
 葵は頷く。
 社長の家は素晴らしい豪邸だが、奥様はお友達と出かけたりする事が多いと奥様からも聞かされている。それ以前に、社長の家にやっかいになるのは、精神的に疲れる。
『新しいマネージャーはどんな方ですか』
「葵君のよく知っている篠原さんだ」
「なんで?」
 篠原は違うプロダクションの俳優だ。
「篠原君はプロダクションを辞めたんだよ」
「どうして?」
「それは本人に聞いたらいい」
『篠原さんはうちのプロダクションに移籍したんですか?』
「まあ、そうだね。ただ俳優としてではなく、葵の専属マネージャーを希望している」
『駄目です。篠原さんは立派な俳優です』
「葵からも説得してくれると助かるんだ。そういうわけで、しばらくは試用期間ということで、葵の世話役をしてもらう」
 葵は何度も首を左右に振る。
『篠原さんはドラマでも映画でもたくさん仕事があるはずだ』
「あいにく、今の僕にはなんの仕事もないよ」
 篠原が会話に入ってきた。
「なんで?」
 どうしてか悲しくて、涙がぽろぽろこぼれる。
『もとのプロダクションに戻って』
「喧嘩して追い出されたよ」
『どうして、そんなこと』
「詳しくは、おいおい教えてあげる」
 葵は首を左右に振り続ける。
「葵、ちゃんと篠原君は俳優として雇うよ。ただ今はね、騒がれ過ぎて表には出られない。時期を見てマネージャーもつけて、仕事は入れていくよ」
『本当ですか?』
「葵は、自分のことだけ考えてなさい」
 葵は頷いて、篠原に頭を下げた。
「取り敢えず、食事を温めてくるよ」
「行ってらしゃい」
 小池が先輩づらして、篠原を使う。
 イラっとして小池に枕を投げつけた。顔面で枕を受けた小池が情けない声を上げる。
「葵君ひっどい」
『篠原さんは立派な俳優なんだ。顎で使うな』
「篠原さんが俳優だって、思い出せたんだね」
『篠原さんと、ドラマの撮影したんだ。記憶のなくなった僕と。それ以来、記憶は消えてない』
 小池がしまったといような顔をした。
 小池はいつもどこか抜けている。
 扉が開いて、篠原が戻ってきた。
「食事、食べられるね」
 葵が頷くと、箸を渡される。
 お茶も淹れてきたのか、温かなお茶もトレーに載っていた。
 今夜は白身魚だった。
 時間が経っているからか、身が固くて温めても美味しくはない。
 薄味の野菜もまるで自分がウサギになったような錯覚を覚える。
 唯一食べられるものはお味噌汁くらいだ。
「おいしくない」
「葵、今はそれを食べなさい」
 社長に言われて、仕方なくご飯にお味噌汁をかけて、味のない野菜もいれてしまう。
「小池さん、スプーン」
「葵、お世話をするのは僕だよ」 
 篠原がスプーンを取ってくれる。
「それじゃ、篠原君。葵のことは頼んだよ」
「任せてください」
 社長と小池が帰っていく。
「葵はどっちで暮らしたい?」
 葵は首を傾けた。
「葵の部屋か僕の部屋か」
『舞台の稽古がしたいので、僕の部屋で。僕の部屋は稽古場になってます』
「葵の部屋は大きなテレビと窓際にカメラがあって、大きな鏡も置いてあったね。それ以外は広いスペースで、対面キッチンにつけるように半円のテーブルと椅子が二つ」
『なんで知ってるんですか?』
 史郎から聞かされた言葉が、頭をループする。
(篠原さんと恋人同士?ほんとに?)
 クランクアップの日、篠原が来て包み込むように抱きしめられたことを思い出した。篠原の顔が葵の肩に埋められるように載せられていた。
(あの時、篠原さんは、僕の声を奪ってごめんなって言った。篠原さんはきっと全部知ってる)
 篠原は葵のベッドに腰掛ける。
 体が自然に近づいて、肩と肩が触れあう。
「行ったことがあるんだよ。寝室もお風呂もピアノの部屋も全部知ってる。台所にお鍋やフランパンがないから、病院から帰ったら買いに行こう。そうしたら少しずつ体力もついてくる」
『篠原さん、聞きたいことが』
「葵、今は食事をしなさい。せっかく温めたのに、冷めてしまう」
 葵は頷いて、ホワイトボードを置くと、美味しくないご飯をゆっくり黙々と食べた。 
 篠原の手が背中を撫でる。
 手は温かく優しい。
 その手に励まされるように食事を全部食べた。
 温かいお茶を飲んだところで、
「葵、頑張ったな。ご褒美だ」
 手にホットチョコを持たされた。
 篠原の手が頭を包み込み、ふわりふわりと撫でてくる。
 どこか懐かしい感覚は、眠気を誘う。
 ホットチョコを握ったまま、篠原に凭れかかり葵は眠っていた。



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