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第五章
2 新婚生活、嵐
しおりを挟む「寝室はお試しに一緒に寝てみるか?」
食後に光輝さんに言われて、一気に心拍数が上がった。
光輝さんはわたしの体を見て、美しいと言ってくれた。まだ一つ克服したばかりだ。
「いきなり襲ったりしない。添い寝でも怖いか?」
「それくらいなら、怖くはないわ」
「それなら、今夜から一緒に寝よう」
「はい」
本当はまだ不安だけれど、光輝さんを信じてみたい。一大決心をして、わたしは返事を返した。
光輝さんは、嬉しそうにわたしを抱きしめた。
わたしも光輝さんを抱きしめた。
すごく幸せだ。
その時、
プルルルルル!プルルルルル!プルルルルル!……
室内の電話が鳴り出した。
リリリリリリリ!リリリリリリリ!リリリリリリリ!……
光輝さんのスマホも鳴り出した。
なんだか既視感を覚える。
また?
またなの?
今度は誰? ティファさん? それとも桜子さん?
「光輝さん、電話ですよ」
「ああ……」
光輝さんの目が据わっている。
きっとすごく怒っているんだ。こんな顔は初めて見た。
光輝さんはスマホを見て、通知を消した。
それから室内の電話に出た。
「円城寺」
『円城寺様、夜分に申し訳ございません。お止めしましたけれど、お友達だとおっしゃるお方がお部屋に向かわれました』
「ありがとう」
リリリリリリリ!リリリリリリリ!リリリリリリリ!……
受話器を置くと、またスマホの通知を切った。
「光輝さん、ティファさんですか?」
「いや、違う」
「桜子さんですか?」
「いや、違う」
リリリリリリリ!リリリリリリリ!リリリリリリリ!……
「お電話に出てください。わたしはお部屋にいますから」
「いや、いい」
光輝さんは、また通知を消した。けれど、それと同時にまたスマホが鳴り、扉がドンドンと叩かれる。
リリリリリリリ!リリリリリリリ!リリリリリリリ!……
ドンドンドンドンドンドン……
「あの、出ましょうか?」
このままでは近所迷惑になってしまう。
「俺が出よう」
光輝さんは、大きなため息をつくと、通話を消して扉に向かって行った。
「喧しい!近所迷惑だろう!」
「やっと開けてくれたわね。これくらいしないと開けてくれないでしょう?」
「おまえ、酔っているのか?」
「酔ってますよ~~~」
「酒臭い、くっつくな」
「酷いわ、光輝~~」
「その赤ん坊はどうした?」
「あら、光輝との子でしょ?」
「はぁ?」
「取り敢えず、部屋に入れてちょうだいな」
部屋の中に入って来たのは、ベビーカーを押した女性だった。
(今度は子連れ?光輝さんの子って言っていたわよね?)
「あら、あなた誰?」
女性はわたしの姿を見ると、足を止めた。
(わたしこそ、あなたは誰って聞きたいわ)
「美緒、こいつは仕事先で知り合った遠藤葵だ」
光輝さんは急いで、わたしにその女性を紹介した。
なんだか胡散臭い紹介の仕方だ。
(いったい、どんな知り合いですか?)
「光輝、その女とはどんな関係なの?」
(ほら、同じ事を聞かれているわ)
「その女ではなく、美緒だ。俺の妻だ」
「何ですって、いつの間に結婚したの?」
「葵には関係ないだろう?」
「関係ないことはないでしょう?私達付き合っていたでしょう?その結果が、この子よ」
ベビーカーの中には、まだ生まれたてのような赤ちゃんが眠っていた。
タオルをお腹にかけられた赤ちゃんの性別までは、まだ分からない。
わたしは光輝さんを見た。
「光輝さんの赤ちゃんなの?」
「違う!」
「違わないわよ。初めまして、パパ、この子は美衣って名付けたわ。勝手に名付けてごめんなさい。産後の肥立ちが悪くて、届け出がギリギリになってしまったの」
「いや、どんな名前でも勝手にすればいいが、俺はパパになるような事はおまえとはした覚えはない」
「あら、そうかしら?光輝は寝るとなかなか起きないわよね?一緒に眠った事のある私はよく知っているのよ」
「はぁ?俺は知らないからな」
「酷いわね」
わたしは、自分の部屋に行くことにした。
(おまえとはした覚えがないって事は、他の誰かとはした事があるのね?わたしと一回りも違うのだから、そういう事があってもおかしくはないけど……面白くはないわ)
光輝さんは桜子さんが裸で腰を振っていても起きなかった事は、ちゃんと知っている。
もし、寝ている間に事に及んで、授かった子だとしても否定できないような気がした。
仕事先で出会った女性とお付き合いしていたのも、面白くない。
「美緒、待て、誤解だ」
「わたし、お部屋にいますから」
わたしは急いで自分の部屋に行って、引き出しから耳栓を出した。
それから、指輪を引き抜いて、引き出しにしまった。先に宝石箱を受け取っておけばよかったと後悔した。
…………………………*…………………………
赤ちゃんは生後一ヶ月だと言っていた。100均の耳栓がへたってきたのか、耳栓をしても言い争う声が聞こえた。
光輝さんの仕事部屋に住み着いたようだ。夜に部屋からパソコンを移動させていた。その間に葵さんは入浴をして、赤ちゃんは泣いていた。
夜食を頼んだようで、葵さんの喜んだ声がしていた。その時、赤ちゃん用のベッドも搬入されたようだった。そして、夜泣きが酷かった。
(新しい耳栓を買ってこよう……)
朝、ダイニングに行くと、朝食が三人分用意されていた。
寝不足な顔をした光輝さんが寝室から出てきた。
「美緒、おはよう。眠れたか?」
「そこそこ眠れました」
本当はわたしも寝不足だ。
いろんな事を考えているのもあったが、眠った頃に夜泣きが始まって眠る機会を逃して、仕方なく学校の宿題のレポートを書き出した。時間になったので、朝食を食べるために部屋から出てきた。
光輝さんはわたしの指を見て、顔色を変えた。
「指輪を外してしまったのか?」
「はい、できれば指輪をしまう宝石箱をいただけますか?引き出しの中に剥き出しでしまうのも、なんだかなと思うので」
「あの子は、俺の子ではない。信じてくれ」
「でも、光輝さんが寝ている間にできた子かもしれないですよ。桜子さんがあんなに激しく腰を振っていても気づかないくらいですもの」
光輝さんは顔を引き攣らせた。
きっと自分の睡眠について、何かしら思うところがあるのかもしれない。
「……すぐに遺伝子検査をしよう」
「知りません」
きっと短時間に集中的に眠る人なんだと思う。だから眠っている間に、何をされても気付かないのかもしれない。
わたしは一人で朝食を食べることにした。
「美緒、朝食は一緒に食べよう」
慌てた光輝さんが、隣に座った。
今日は和食の朝食だった。
高野豆腐の煮物がよく味がしみて美味しい。出汁巻き卵もとても美味しい。けれど、デザートはスイカじゃなくて残念だった。桃も好きだけれど、スイカが食べたかった。
食事を終える頃に、葵さんが起きてきた。
「あら、朝食なら起こしてくれればいいのに」
そう言いながら、光輝さんの前の席に座った。
「いつ出て行ってくれるんだ?」
「どうして出て行かなくてはならないの?」
「ここに住むつもりなのか?」
「当然でしょう。あなたの子を産んだのよ。ちゃんと認知してね」
葵さんは、爽やか笑みを浮かべながら言うと、朝食を食べ始めた。
「あら、美味しいわね」
お味噌汁を一口飲むと、頬を緩めた。
今日のお味噌汁は白味噌のお味噌汁だった。
お豆腐とわかめが入っている。
確かに美味しいお味噌汁だとは思う。
「そもそも1年以上会ってないだろう?」
「あら、そうだったかしら?妊娠してからも仕事が忙しくて生まれるまで働いていたから。けれど、光輝の子よ」
光輝さんは大きなため息をこぼした。
1年以上会っていないのなら、光輝さんの子ではないのかもしれない。目的は認知かな?光輝さんの後ろ盾とお金だろうか?
(円城寺グループの総帥のお仕事って、大変なのね……)
わたしは食後の紅茶を飲むと、席を立った。
「そうだ、美緒さん。お願いがあるの」
食事を食べながら、葵さんに呼び止められて、わたしは椅子に座り直した。
「何でしょう?」
「今日、少し出かけたいの。美衣を見てくれない?」
葵さんは食事を食べながら話をしている。
お行儀はなってないようだ。口に物を入れたまま話をしている。
わたしの知り合いにはいないタイプの人だ。
「わたし、子育てはしたことはないの」
「いいじゃない。美緒と美衣って似ているし、いずれ、子供を産むなら練習になると思うわ」
「似ているって、『美』が同じだけですよ」
顔はわたしとは似ていないと思うし、光輝さんとは似ているのかしら?
赤ちゃんの顔ってどれも同じようで、似ているのかどうか分からないわ。
「ちゃんと教えてあげるから大丈夫よ。よろしくね」
「引き受けるとは言っていないです」
きちんと断るときは断らなくては、わたしは流されやすいから。
もう誰にも洗脳されないように、気をつけなくては……。
「葵、美緒を巻き込むな」
わたしが承知してないのを見て、光輝さんは、きちんとと注意をしてくれる。
「それなら、光輝が面倒を見てくれるの?」
光輝さんは唸った。
光輝さんには仕事がある。
急に仕事を休むわけにはいかないだろう。それなら、手の空いているわたしがするより仕方が無い。
「分かりました。後で教えてください」
「ありがとう。美緒さん」
「後で、声をかけてください」
わたしはさっさと部屋に戻った。
追いかけてきた光輝さんが、宝石箱を持って来た。
「必ず、早めに出て行ってもらうから」
そう言うと、部屋から出て行った。
わたしのノートパソコンの画面を見て、「すまない」と謝罪もしてくれた。
ページ数的に徹夜だと思ったのだろう。
そうです、徹夜をしてレポートを書いていました。
わたしは苛々したり、落ち着かなかったりすると勉強が捗るような気がする。
…………………………*…………………………
葵さんは、とても遠慮のない人だった。
図々しいとも言える。
わたしが指輪を片付ける頃に、既にわたしの部屋に来ていた。
「まあ、高そうな指輪ね」と、わたしの大切な婚約指輪を指で掴んだ。
「返してください」
「見るくらいいいでしょ?」
「見るのも駄目です」
「あなたには派手ね」
「派手でもいいの。これは大切なプレゼントですから」
ティファさんの時計のように、ダイヤモンドが惜しげもなく添えられた指輪の真ん中には大粒のダイヤモンドが主張している。
デザインもとてもいい。
もしかしたら特注品かもしれない。
普段につけるには浮いてしまう物だと思うけれど、きっと光輝さんの生きている世界では一般的なのかもしれないと思った。
結婚指輪を地味にしたから、婚約指輪は派手にしたのかもしれない。
けれど、わたしの為に選んでくれた物に文句を言うつもりはない。
似合わないと言われようと、光輝さんが似合うと思ってくれたのなら、それを身につけようと思ったのだ。
「ふーん」
葵さんは、やっと指輪を宝石箱に戻してくれた。
わたしは急いで、蓋を閉めると引き出しにしまった。
「いつ結婚したの?」
「関係ないです」
「そうね、確かに関係ないわ」
葵さんは赤ちゃんをベビーカーに寝かせて、わたしの部屋に連れて来ていた。
赤ちゃん、美衣ちゃんは起きていて、目を開けているけれど、おとなしくしている。
まだ新生児と言っていいほど小さな赤ちゃんを連れて歩いていいのだろうかと思ってしまう。
「赤ちゃんの世話の手順を書いておいたわ。ミルクは人肌にね。泣いたらオムツを見てあげて。練習に今、交換してみてくれる?」
「お手本は見せてくれないのですか?」
赤ちゃんすら、触れたことのないのに、いきなりオムツを替えろというのは、無茶だろう。
自分が産んだ子なら、もっと愛情を持ってほしいものだ。
「仕方ないわね」
葵さんは肩に掛けていた大きめな鞄を床に下ろした。
それから、肌着に紙おむつ姿の美衣ちゃんのオムツのテープを外すと、使い捨てのお尻拭きで肌の汚れを落とし、新しい紙おむつに交換して見せた。
「簡単でしょ?」
「どうでしょうか?」
「お風呂はベビーバスで入れてくれると助かるわ。1ヶ月は過ぎたから、一緒にお風呂に入ってもいいけれど、着せ替えるのが大変よ。裸のまま、美衣を拭いて洋服を着せなくてはいけなくなるから」
まるで、あなたにできるかしら……と挑発的な眼差しで見てくる。
全然、お願いしているように見えなくて、ちょっと苛々してくる。
「お風呂の時間まで、お出かけするのですか?」
「赤ちゃんは、夜遅くに入れない方がいいのよ」
「何時ですか?」
「夕方から7時までにいつも入れているわ」
「それまでに帰って来てくださいね」
「分かったわ」
美衣ちゃんが大きな声で泣きだした。
母親が出て行くのが分かったのだろうか?
「きっとミルクの時間よ。試しに作ってみてくれる?」
わたしは手渡された紙を読んで、ミルクの缶と哺乳瓶を持って部屋を出た。
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出すと、お湯を沸かして、適量の粉ミルクを哺乳瓶に入れて、沸いたお湯を入れて流水で冷やした。
作るのに時間がかかるし、なかなかミルクが人肌に冷めない。
わたしの部屋から美衣ちゃんの泣き声がしている。
抱っこしていないのか?それとも抱っこしていても泣いているのか?ここから確認することはできない。
焦りながらミルクを冷やしていると、部屋からベビーカーを押して、葵さんが出てきた。
「遅いわね。もっと早く作ってあげないと、泣き止まないわよ」
「そんなことを言われても……」
この部屋には、湯沸かし器はあっても熱湯を保存できるポットまでは置いてない。
お湯を沸かすのに、まず時間がかかってしまう。
「あの、コンロも鍋もないので、哺乳瓶を消毒するための煮沸消毒はできないのですけど」
「それなら、ドラッグストアでつけ置きタイプの消毒薬が売っているから、それを買ってきて」
「買ってきてはくれないのですか?」
「時間がないの」
わざわざ時計を見て、時間がないことをアピールする。
葵さんは美人と言うより可愛らしいタイプだと思う。顔が童顔だけど、性格は大雑把な感じだ。美衣ちゃんへの愛情はあまり感じられない。
「これくらいの温度でどうでしょう?」
わたしは人肌になったと思う哺乳瓶を葵さんに渡した。
「いいわよ。湯上がりもミルクでもいいわ。白湯でもいいけど、この子、少し体が小さいからミルクがいいかもね。飲ませたら、ちゃんとゲップを出させるのよ」
どうして、そんなにお風呂のことばかり気にするのだろう?
まさか遅くなるのかしら?
帰って来てもらわなくては困る。赤ちゃんをお風呂に入れたこともないのに、任されるのは困る。
「必ずお風呂の時間までに帰って来てくださいね」
「わかったわ。それじゃ、お願いね。オムツは部屋にあるわ」
葵さんは泣いている美衣ちゃんを置いて、出て行ってしまった。
あれでも、母親なのだろうか?
わたしの母親もあんな感じだったかもしれない。
虐待を受けていたわたしは、葵さんに自分の母親を重ねてしまった。
…………………………*…………………………
わたしは美衣ちゃんにミルクを飲ませて、寝かしつけるとベビーカーの中に寝かせて、光輝さんの仕事部屋をノックした。
「どうした、美緒」
光輝さんは、リモートで仕事をしている。たくさんのモニターがあり、世界中の人と繋がりながら、仕事をしている。
ちょうど、会議中だったようだ。
「忙しいときにごめんなさい。ドラッグストアで哺乳瓶を消毒するための薬を買ってきます」
「葵は準備してなかったのか?」
「はい、買ってきてと言われました」
「迷惑をかける」
「美衣ちゃんを預かっていてください。急いで行ってくるので」
「分かった。気をつけて行ってきてくれ」
「行ってきます」
美衣ちゃんのベビーカーを光輝さんの仕事部屋に置くと、わたしは自分の部屋に戻ってポシェットを掛けた。お財布が入っていることを確認して、部屋の鍵を入れると出かけた。
…………………………*…………………………
急いで帰ってきて、哺乳瓶を消毒する。
葵さんに貸している部屋に入って、オムツを見ると数が少ない。着替えは、何着かありそうだ。
またドラッグストアまで出かける。
ホテルは繁華街にあるが、近くにドラッグストアはない。
一番近いドラッグストアは地下鉄の駅前にある。
通学の時に歩いている道だが、二往復をするのは疲れる。
最近、歩いていなかったせいもあるだろう。
真夏の日射しに、汗が出てくる。
オムツの量が少ないのなら教えてくれればいいのに……。そうしたら、一度に済んだのに。
足の裏はまだ痛む。傷が引き攣れて、長時間の歩行は辛い。
途中で休みながら戻ってくると、光輝さんが美衣ちゃんを抱いてリビングに出てきていた。
「ごめんなさい。オムツが少ないことに気付いて、もう一度行ってきたの」
「足が痛むのだろう?」
「うん。一言言っておいてくれたら一度で済ませられたのに……」
光輝さんに文句を言っても仕方がないけれど、つい不満が出てしまう。
わたしは洗面所でまず、汗をかいた顔を洗った。
手洗いもしっかりすると、すぐにカウンターの奥にあるミニキッチンでお湯を沸かす。
「オムツを見ます。光輝さん、ありがとうございます。後は、わたしがしますので」
「あまり歩き回るな」
「そうします」
泣いている美衣ちゃんを受け取ると、光輝さんは部屋からベビーカーを押してきた。
「無理なら言ってくれ」
「はい。光輝さんは、お仕事に戻ってください」
「すまない」
わたしは微笑んだ。
光輝さんは謝ってばかりだ。
「そうだ」
光輝さんは、部屋に戻ると、ハサミを持ってきた。
美衣ちゃんの髪を少し切ると、それを袋に入れた。
「鑑定に出しておく」
「うん」
それがいいと思う。心当たりがないのなら、検査して証明した方がいいと思う。
光輝さんのように、地位も名誉もお金もある人だから、気をつけた方がいいと思う。
「光輝さんは恋人がいたことがあるんですか?」
「あるよ。就職した年に自社の子に告白されて、3ヶ月くらい付き合ったけれど、フラれたよ。仕事と私とどっちが大切なのって聞かれて、仕事って答えたら、その場でフラれた。当時は今よりもっと仕事が忙しくて、デートすらする時間がなかったからな。3ヶ月でデートしたのは、ほんの2~3回だったかな?その子は、他の男とも付き合っていたのか、俺と別れた直後にすぐに結婚して退職した。まあ、俺とは金目的だったんだろうね。色々強請られたけど、買ってやる時間さえなくてね。買わなくて良かったと思うよ。それ以来、仕事が恋人かな。美緒に会ってからは、美緒を優先している」
光輝さんは、あっさり認めて、フラれたと言った。そして、今はわたしを優先していると言ってくれた。
「ありがとう」
その言葉は嬉しかった。
過去は過去だと思った。今はわたしを想ってくれていると思うと、過去はどうでも良くなった。
「美衣ちゃんを頼むよ」
「はい」
わたしは美衣ちゃんをベビーカーに寝かすと、まずおしめを替えた。
それから、沸いたお湯でミルクを作った。
水道でミルクを冷やしながら、ベビーカーをゆっくり動かすと、泣き声が甘えたような声に変わる。
あやしながらミルクを冷ますと、わたしの部屋に美衣ちゃんを連れて行って、椅子に座ってミルクを飲ませた。
立って抱いていると、美衣ちゃんは眠った。
わたしのベッドに美衣ちゃんを寝かせて、哺乳瓶を消毒すると、わたしも美衣ちゃんの横で眠った。
幸いわたしのベッドはダブルベッドなので、広さには余裕はあった。
徹夜明けの育児はキツい。
…………………………*…………………………
その日の夜の7時になっても葵さんは戻って来なかった。
光輝さんが連絡をしても繋がらなかった。
なんだか嫌な予感がした。
もしかして、葵さんは美衣さんを捨てたのだろうか?
しきりに美衣ちゃんのお風呂の事を気にしていたのを思い出す。
「美衣ちゃんをお風呂に入れなくちゃ」
「困った奴だ」
光輝さんは葵さんに連絡をするのを諦めて、フロントに電話した。
暫くすると、ベビーバスと赤ちゃん用の入浴セットが運ばれてきた。
「光輝さん、赤ちゃんをお風呂に入れられるの?」
「いや、見たこともない」
「わたしも見たことがないわ」
困っていると、ホテルの従業員が声をかけてくれた。
「よろしければ、お手伝いをさせてください」
「いいのですか?」
「二人の子を育てておりますので、沐浴の仕方も分かります」
女性の従業員は、頼もしい言葉を発した。
「お願いします」
「教えてください」
女性の従業員と一緒に葵さんの部屋に行って、美衣ちゃんの洋服を用意しておしめも準備する。
体を洗い終わった後の準備をすると、美衣ちゃんをお風呂に入れている。
女性従業員はわたしに教えながら、赤ちゃんのお風呂の入れか方を教えてくれた。
美衣ちゃんは気持ち良さそうにしている。
光輝さんも美衣ちゃんの入浴を見て、微笑んでいる。
「可愛いな」
「そうですね」
途中で、わたしも美衣ちゃんをお風呂に入れてみた。
洗い方も教わった。
明日はお手伝いに来られないと言っていたので、しっかりと教わった。
「体を拭いて、肌着を着せてください」
「はい」
バスタオルで体を包むと、泣き出しそうだった美衣ちゃんは、少し落ちついたようだった。
まだ細くて伸びていない髪もタオルで拭うと、すぐに乾く。
オムツを着けて、肌着を着せると、光輝さんに美衣ちゃんを渡す。
それから、ベビーバスの片付け方を教えてもらった。
一度ずつ、丁寧に洗うようだ。
美衣ちゃんを洗うために使ったガーゼのハンカチも美衣ちゃんの肌着も洗濯機に入れて、柔軟剤を入れずに、洗った。
「肌着しか持って来ていないようですね?」
女性の従業員は、美衣ちゃんの姿を見てから心配げに光輝さんの顔を見た。
「生まれたばかりの赤ちゃんは、肌着で過ごすことが多いのですが、これくらいの時期になると、お腹が捲れないようにボタンで留めるようにするロンパースを着せることが一般的です。鞄の中には肌着しかなかったので……」
光輝さんは頷いた。
言葉を濁した後の先の言葉を理解したのだろう。
わたしも不安だ。
置き去りなんて考えたくない。
女性の従業員は「今夜は夜勤なので、何かあれば声をかけてください」と言って、部屋から出て行った。
わたしは自分の部屋に戻って、美衣ちゃんにミルクを与えていた。
ダイニングではわたし達の遅めの夕食が並べられている。騒がしくすると美衣ちゃんが起きてしまう。
光輝さんは葵さんに貸した部屋にいた。
置き去りにされた鞄を見ているようだった。
「光輝さん、何か分かりましたか?」
「電話したが、やはり繋がらなかった。電源が落とされている。持ち物は確かに最低限だな。健康保険証と医療証、母子健康手帳が残されているな。父親の名前は書かれていなかった。結婚して産んだ子ではないと思う。美衣ちゃんは寝たのか?」
「寝てくれた」
「今のうちに食事にして、風呂に入ろう」
「そうね」
今度、いつ泣き出すか分からない。
早めに食事をして、お風呂も入った方がいいだろう。
ダイニングテーブルには、今日は和食が並んでいた。
デザートは餡蜜だった。スイカが食べたいな……。
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