裸足のシンデレラ

綾月百花   

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第四章

8   円城寺の一族、温泉宿

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「あら、そんなこと?いいわよ。温泉に連れて行ってあげるわ」

「ありがとうございます」



 目を覚ました桜子さんは、意外と快く請けおってくれた。




「あの、わたしの事、嫌いなんじゃないですか?」

「そうね、好きか嫌いかと聞かれたら嫌いね。でも、もう籍を入れてしまったのなら仕方がないわ」

「怒っていないのですか?」

「面白いからいいわよ」

「面白いのですか?」

「光輝の顔を見てご覧なさい。今にも噛みつきそうな顔をしているわ」



 光輝さんを見ると、確かに怒っているような顔をしていた。



「光輝さん、怒っていますか?温泉に行っては駄目ですか?」

「行ってこい」

「ありがとうございます」



 光輝さんは快くわたしの出発を許してくれた。



「美緒はすぐに行けるの?」

「すぐに準備をしてきます」



 わたしは急いで部屋に戻った。

 光輝さんに借りっぱなしのスーツケースに洋服や下着を入れていく。

 1週間分の下着は確かに必要みたいだ。

 化粧品も一応入れておく。

 念のためにノートパソコンも持って行く。

 ポシェットにお財布とスマホを入れて、ハンカチも入れておく。

 準備はすぐにできた。



「お待たせしました」



 スーツケースを持ち上げて歩いて行くと、桜子さんも部屋から出てきた。ガラガラとスーツケースを引きずっている。



「美緒、スーツケースは引きずっていいのよ?」

「そうですか?お部屋に傷が付いてしまいそうですよ?」

「有喜、自宅まで送った後に、温泉まで送ってくれるわよね?」

「勿論です」

「では、行くわよ。お邪魔したわね、光輝。返して欲しければ……」



 桜子さんはにっこりと魅力的に笑った。

 やはり大人の女性は綺麗だわ。



「光輝さん、行ってきます」

「行っておいで」



 光輝さんは扉の外まで送ってくれた。

 手を振ると振り返してくれる。

 わたしは嬉しくて、エレベーターに乗るまでずっと手を振っていた。

 見送られるって、すごく嬉しい。




 …………………………*…………………………





 桜子さんのお宅は日本家屋だった。わたしの実家と同じかそれ以上あるかもしれない。

 玄関の前には、木の大きな門があった。

 その奥に石畳があり庭園に包まれる。

 玄関は木の引き戸の前で、周りをよく見てみる。

 実家に似ている。

 足に錘が付いたように、家に入ることを体が拒む。



「美緒さん、どうかしましたか?」

「……いいえ」



 無意識に立ち止まってしまっていたようだ。有喜さんが振り向いて、わたしに声をかけてきた。急いで追いかける。

 家に上がると、家の中も実家に似ていた。壁の色や襖の色、廊下の色や軋み方。胸がドキドキしてくる。畳の部屋に通された。祖母の部屋に似ている。



「ちょっと待っていなさい」



 そう言うと、桜子さんはどこかに行ってしまった。きっと旅支度をしに行ったのだと思う。



「いらっしゃいませ。有喜さん、いつも桜子が我が儘をしてごめんなさいね」



 着物を着た女性が部屋にやって来た。

 綺麗に着物を着て、髪を結い上げている。

 すごく淑やかな感じがする。

 その後にお茶を持った使用人が着いている。




「いいえ、桜子さんらしくて、もう慣れておりますから」

「あら、そうですか?」




 オホホと笑った女性がわたしを見た。
 
 その視線が鋭くて、一瞬身構えた。
 
 まるで値踏みするように、わたしの全身を見ている。



(この人は、きっと見かけとは違って、厳しい人だ。ちゃんとしなくちゃ)



 直感で分かる。この人は苦手な人だ。

 わたしは背筋をしっかり伸ばした。




「紹介が遅くなりました。この女性は光輝さんの奥様で、美緒さんといいます。美緒さん、こちらは桜子さんのお母様です」

「初めまして、お邪魔しております。美緒です」



 わたしは礼儀正しくお辞儀をした。



「あら、光輝は結婚したの?連絡も寄越さずに、水くさいわね」

「急だったので、申し訳ございません」



 もう一度、頭を下げる。

 桜子さんのお母様に、光輝さんは育てられたのよね。

 確かに、ご挨拶に窺わなくてはならない人だと思った。

 わたしを見る視線が厳しくなった。スッと背筋が冷たくなる。

 こんなに気軽に来てはいけない場所だった。

 自分の軽率さに、頭を抱えたくなる。



「美緒さんは謝らなくてもいいのよ。光輝をしっかり叱っておきますね」

「急にこちらに窺うことになって、光輝さんは何も悪くないのです」



 三度頭を下げる。

 光輝さんの心証を悪くしてしまった。



「もう頭を上げなさいな。光輝は私の息子同然ですからね。そんなに気を遣わなくてもいいのよ。これからも気楽に遊びにいらっしゃいね」

「ありがとうございます」



 いつの間にか、お茶が出されていた。

 使用人の姿は、もうない。



「今度は光輝と一緒にいらっしゃいな。きちんともてなしてあげますよ」

「はい、ありがとうございます」

「これから温泉に行かれるそうね。ゆっくりしていらっしゃいね。美肌に効果があるそうだから、お肌ももっと綺麗になると思うわ。有喜さん、どうか気をつけて送っていってくださいね」

「はい、桜子さんの肌に傷一つ付けませんので、ご安心してください」



 有喜さんは深く頭を下げた。



「それでは、もう少しお待ちになってね」



 桜子さんのお母様は、笑顔で会釈をすると、部屋から出て行った。



「はぁ~」



 有喜さんが、大きなため息を漏らした。



「大丈夫ですか?」

「あはは、いつも緊張してしまうのですよ」



 わたしは頷いた。

 確かに緊張はすると思う。

 わたしもガチガチに緊張していた。それに、光輝さんのご両親やお爺さまに会うときも、緊張していた。

 有喜さんがお茶を飲んだので、わたしもお茶をいただいた。

 こちらのお茶も美味しい。

 実家のお茶は、こんなに美味しくはなかった。

 家は広くて古くていかにも日本家屋で工房もあったし、修行に来ている人のための客間はちゃんとあったけれど……。

 この家は、なんだか実家に似ている。

 久しぶりに畳の部屋に入ったからだろうか?嫌な思い出が思い出されてしまう。



「美緒さん、大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」

「ごめんなさい。大丈夫です」



 久しぶりに掌が痛む。光輝さんに会いたい。手を握って欲しい。

 どうして、わたしは光輝さんから離れてきて来てしまったんだろう?

 不安で、怖くて、助けて欲しい。

 もう帰りたくなった。



「お待たせしたわね。行くわよ」



 桜子さんが廊下にやって来た。



「どうしたの?美緒。顔色が蒼白よ」

「なんでもないです。もういいのですか?」

「準備はできたわ。有喜、荷物を持ってくださる?」

「お任せください」



 有喜さんは元気よく立ち上がって、バタリと畳に倒れた。



「足が痺れて……」

「情けないわね。シャキッとしなさい」



 わたしは静かに立ち上がった。正座は慣れないと、本当に足が痺れてしまうから、仕方がないと思う。



「大丈夫ですか?」

「少し待っていただけますか?」

「ほんとうにだらしないわね」



 文句を言いながら、きちんと待ってあげる所は優しいと思う。

 ようやく立ち上がった有喜さんは、桜子さんのスーツケースを持って歩いて行く。

 わたしは二人の後を歩いて行った。門から出たら重かった肺が楽になってきた。

 トランクに桜子さんの荷物を入れると、車に乗り込んだ。

 桜子さんが助手席に座って、わたしが後部座席に座った。

 車は静かに走り出した。



 …………………………*…………………………




「美緒、起きなさい。着いたわよ」



 車の中で寝てしまったようだ。目を開けると、緑深い山の中にいた。川の流れる音がする。



「すみません、ぐっすり眠ってしまって」

「連日徹夜のような日を送っていたのでしょう?眠ったって誰も叱らないわ」

「はい」



 わたしは急いで車から降りた。

 もう有喜さんが車のトランクを開けている。



「自分の荷物を持ちます」

「ここは任せて」



 有喜さんは施錠すると、二つのスーツケースを持って歩き始めた。



「任せてなんて格好いい事を言っているけど、大丈夫なの?」

「大丈夫です。桜子さんは俺をバカにしすぎですよ」

「だって、頼りないじゃない?」

「きちんと証明して見せますから」



 二人はなんだかんだと仲がいい。並んで歩いて、桜子さんは有喜さんを構っているけれど、ちゃんと足元を気にしているみたい。



(わたし、お邪魔みたいね?)



 見えてきた建物は、6階建てのホテルのような建物だった。



「美緒、どう?うちのホテルは?」

「素敵ですね。木がたくさんあって、川の流れる音もします」

「オーシャンビューのペントハウスを開けてもらったの。5人は泊まれるわよ」

「広いお部屋なんですね」

「そうね、たまたま空いていたのよ。この部屋は人気の部屋なのよ。内風呂もあるし、大浴場もあるわ」

「初めてなので、ドキドキします」

「温泉、初めてなの?」

「はい、外出もしたことがなくて、学校行事も欠席していたので、旅行も初めてです」

「ふーん、光輝より勝ったわね」



 桜子さんは嬉しそうな顔をした。



「しばらくここに住みましょう。どうせ学校も休みでしょう?」

「追試とかないと思います。一応、ノートパソコンを持って来たので、最悪の時は、レポート作成もできると思います」

「まったく、真面目ね。ここにいる間は、ノートパソコンは禁止よ」

「そんな……」

「万が一なんてないでしょう?」

「……たぶん」

「自信がないの?」

「結果を見るまで安心できません」

「それなら、その結果を見るときまで、ノートパソコンもスマホもなしね」

「……分かりました」



 わたしはポシェットからスマホを出して、電源を落とした。

 桜子さんもスマホの電源を落とした。



「桜子お嬢様、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

「ありがとう」

「お部屋に案内いたしましょうか?」

「鍵だけくれればいいわ。荷物持ちもいるしね」

「そうでございますか。お食事はお持ちしますか?」

「お部屋にお願い」

「畏まりました。ごゆっくり寛ぎください」

「ありがとう」



 桜子さんは受付で鍵をもらうと、さっさと歩いて行く。

 その後を、有喜さんとわたしは着いていった。




 …………………………*…………………………





 オーシャンビューのペントハウスという部屋は、目の前に海が広がる部屋だった。

 山の上から海を見下ろす感じだ。

 部屋は広く仕切りのない部屋になっていた。

 大きな部屋に、壁が立ち視界を遮るように造られている。

 広いお風呂はガラス張りで外の景色が見えるようになっていた。

 部屋の中からも丸見えで、入るのが恥ずかしい。

 ダイニングテーブルは光輝さんの部屋と同じくらいの大きさだ。

 設備も似ている。



「有喜は泊まるの?」

「泊まりたいのですが、さすがに仕事に戻らなければならなくて」

「それは残念ね。荷物を置いたら帰ってもよろしくってよ」

「はあ、食事くらいはお付き合いしたいのですが」

「それなら食事を食べたら、帰ってちょうだいね」

「分かりました」



 景色が見えるように背面に並べられたソファーに座って、桜子さんはもう寛いでいる。

 わたしも有喜さんも、まだ立ったままだ。

 窓の外にも椅子があるようだ。



「そこにいるなら、コーヒーでも淹れてくれる?」

「はい」



 有喜さんは、コーヒーを淹れようと冷蔵庫に近づいていく。

 よく躾けられた仔犬のようだ。



「わたしが淹れます」

「あら、いいのよ。有喜がするから」

「わたし、コーヒーが飲めないの。だから、わたしに淹れさせてください」

「美緒はコーヒーが飲めないの?」

「はい、苦くて」

「お子様ね」

「はい、お子様です」



 本当の事なので、ちゃんと認めた。

 わたしは知らないことも多くて、たぶん、同年代の子よりお子様だ。

 わたしは冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、お湯を沸かす。

 コーヒーメーカーがあったので、そこにもミネラルウォーターを入れてセットをする。

 淹れ方の説明書が壁に貼ってあるので、初めてでもできるようになっている。

 とても親切だ。



「それでいつも紅茶を飲んでいたのね?」

「はい」

「他に食べられない物はない?」

「ありません」

「有喜、フロントに連絡して、飲み物を一つ紅茶にするように言っておいて」

「分かりました」



 有喜さんは、すぐに部屋の電話で指示を出した。



「困った事があったら、ちゃんと言うのよ」

「はい」




 桜子さんは、優しいお姉さんのようだ。

 ホテルでずっと光輝さんを困らせていた姿とは、まったく違う。

 きっとどっちの桜子さんも同じ桜子さんだと思う。

 お酒を飲んで、光輝さんの事は諦めたのかもしれない。

 わたしは先にコーヒーを淹れて、桜子さんと有喜さんに出した。




「美緒さん、ありがとう」

「いいえ」



 それから、紅茶を淹れた。

 カップを持ってソファーに座ると、太陽が水平線に沈んでいく。窓の外が徐々に暗くなっていく。とても幻想的だ。

 景色はとてもいい。



「美しいでしょう?」

「はい」

「光輝のホテルと違って、ここはお刺身が美味しいのよ」

「光輝さんのホテルのお刺身も美味しいです」

「それなら、食べ比べてご覧なさい」

「はい」



 きっと、桜子さんが言うように、美味しいのだと思う。ここは海だ。鮮度が違う。




 …………………………*…………………………




 食事を食べたら有喜さんは帰って行った。二人でお風呂に入る事になった。

 桜子さんはグラマーだった。

 胸も大きく、ウエストのくびれもある。

 ティファさんみたいに美しい体をしていた。

 わたしは、すごく恥ずかしい。

 痩せ細った犬のようだ。



「美緒は少し太った方がいいわね」

「はい」

「胸も小さいわね」

「はい」

「光輝とは寝たの?」

「まだです」



 桜子さんはクスッと笑った。



「胸を触らせてあげましょうか?」

「え?///」



 桜子さんは、わたしの手首を掴むと、桜子さんの胸に導いた。

 温かな大きな胸をわたしの掌が包みこむ。

 指を動かすことはできなかった。

 じっとされるまま身動きもできずに固まっていた。



「どう?柔らかいでしょう?」

「はい」

「大きさはどう?」

「とても大きくて美しいです」

「そうね、美しいでしょう?」

「はい」

「男性は、こういう大きくて美しい胸が好きなのよ」

「はい」

「美緒のも触らせてね」

「はい」



 桜子さんは、わたしの胸に両手で触れて揉んだ。そして微笑んだ。



「可愛いわね」

「……」



 小さいと言われたような気がした。

 コンプレックスの一つだ。



「男性はわたくしの胸と美緒の胸とどちらを選ぶかしら?」

「……」

「美緒の意見を聞かせて」

「桜子さんの胸の方が素敵です」

「そう?美緒の小さな胸も可愛いわ。でも貧弱な体で可哀想」

「……」




 わたしの体が可哀想?

 桜子さんは、わたしの胸をしばらく揉んで肌を撫でた。胸から脇腹を通って、お尻まで撫でて、胸へと戻り手を放した。

 初めて、自分以外の人に触れられた。

 緊張と不安と恐怖。体が小刻みに震える。




「美緒の貧弱な体、どう思う?綺麗?それとも醜い?」

「……醜い」

「ただ醜いの?」

「……すごく醜いです」

「そうね、すごく醜いわね」

「はい」

「それに、野良犬ね」

「……」




 言われなくても、わたしの体は魅力的じゃない。

 確かに醜いかもしれない。

 突然、円城寺家に近づいた野良犬に見えるかもしれない。

 光輝さんに初めてを献げてもいいと思っているけれど、この体に欲情できるのか、わたしはいつも不安だ。

 ティファさんに出会った時もすごく不安になった。

 そして、ティファさんが男性だと知って、ホッとしたのは事実だ。


 桜子さんは本物の女性で、光輝さんを好きだ。

 10日近くホテルに滞在して、ずっと光輝さんに好きだと気持ちを伝えていた。

 わたしと桜子さんと比べたら、女性の価値は桜子さんの方が上だ。

 本物のお嬢様で、どこにも欠点はない。

 わたしは痩せこけて魅力的な体をしてはいない。

 心に傷を持っていて、時々その傷はまだ疼く。

 光輝さんだって、知っているはずなのに、どうしてわたしを選んだの?

 最初は、わたしを助けるためだった。

 その後は、罪悪感?

 わたしが虐待で怪我をしてしまったから?

 わたしを守るために入籍までしてしまった。




(結婚届に名前なんて書かなきゃよかったのかもしれない……)




 あの日、名前を書かなかったら、今頃、光輝さんの実家でメイドとして働いていたはずだ。

 わたしは光輝さんを不幸にしているのかもしれない。




(でも、好きだと言ってくれたわ。信頼しろと言われたわ)



 わたしの中で感情がぐちゃぐちゃになる。




「美緒、出るわよ。あまり浸かりすぎるとのぼせてしまうわ」

「……はい」

「髪は部屋の中にシャワーがあるから、そこで洗いましょう」

「……はい」




 わたしは桜子さんの忠犬になったように、言われるまま従った。

 シャワーブースで頭と体を洗って、ホテルの浴衣に着替え、寝る支度をした。

 桜子さんが髪を乾かしてくれる。

 わたしの髪は真っ黒で、ただ長いだけだけど、桜子さんの髪は明るい色をして、ウエーブがある。

 甘い香水の匂いは、何度もかいだ。光輝さんの胸から、この香りがしていた。




「ベッドはどちらがいい?」

「どちらでも」

「それなら、わたくしがこちらを使うわね」

「はい」




 桜子さんが横になったので、空いているベッドに横になった。

 電気が消された。

 微かな常備灯の灯りで、うっすらと明るい。

 わたしはなかなか寝付けなかった。

 光輝さんの事ばかり考えていた。

 醜いわたしをどうして……?

 無限ループに入り込んだみたいだ。




 …………………………*…………………………




 翌日も、その次も毎日、桜子さんは、わたしの手首を掴んで胸を触らせる。

 そして、わたしは桜子さんに胸を揉まれ、体を触られる。

 お風呂は朝と夜に入っている。
 
 初日と同じ会話が続く。会話の後は、自分の体がおぞましく感じる。



「すごく醜いです」「野良犬です」と言葉に出す度に、わたしの中で何かが壊れていく。



 わたしは温泉に来たいと言わなければよかったと思っている。

 ずっと桜子さんと行動を共にして、どこでも感じるのは光輝さんに対する罪悪感だった。

 お洒落な浴衣を着て温泉街を歩いても、わたしの心は晴れない。

 それなのに、いつも桜子さんは美しくて、溌剌としている。

 わたしは桜子さんの後ろを歩いて、時々、笑って、時々、泣きそうになる。



「美緒、どうしたの?」



 一貫して、桜子さんは優しい。

 わたしの姉のように突き放したりしないで、面倒をみてくれる。




「なんでもないの」

「そんな風に見えないわ。辛いことがあるなら話してご覧なさい」

「本当になんでもないの」

「そう?」




 髪を結い上げたうなじが、すごく色っぽく見える。

 わたしも髪を結い上げているけれど、きっと桜子さんには及ばないと思う。

 行き交う人が桜子さんを見ている。わざわざ振り返る人もいる。




「わたくしたち姉妹に見えるかしら?」

「桜子さんとわたしは似てないわ。桜子さんは美しくて魅力的だもの」

「美緒も可愛いわよ」

「ありがとうございます」




 毎日、神社に参拝して、ホテルに戻っていく。

 せっかく神社に来ているのに、お願いすることが見つからない。

 桜子さんは、毎日、何かをお願いしているみたいだ。

 神社に参拝した後は、ゆっくりお店を見ながら戻って行く。

 何日、滞在したか分からなくなった頃、ホテルに戻ると光輝さんが来ていた。




「光輝!」




 桜子さんは、わたしより先に光輝さんの胸に飛び込んでいった。

 わたしはじっと立って、その様子を見ていた。




「美緒、綺麗だな」




 わたしは首を左右に振った。

 華やかな浴衣を着ていても、桜子さんの美しさには敵わない。



「……お茶を淹れますね」




 わたしはコーヒーメーカーでコーヒーを淹れて、自分の分のお湯を沸かした。

 先にコーヒーを二人に出して、自分の分の紅茶を淹れる。




「今日は泊まっていけるの?」

「そのつもりで来た」

「まあ、嬉しいわ。食事のオーダーをしなくちゃね」




 桜子さんは、嬉しそうにフロントに電話をして、食事のオーダーをした。




「いつまでいられそうなの?」

「美緒がいないと落ち着かないんだ。仕事も集中できない。そろそろ返してくれないか?」

「あら、美緒は温泉に来たがって来たのよ。わたくしが拘束しているわけではないわ。美緒、そうでしょう?」

「……はい」




 帰りたいと言いたいのに、言えなかった。

 わたしはマグカップを持って、ソファーに座った。

 本当は光輝さんの傍に行きたいけれど、二人から離れた場所に座った。




「美緒、こちらに来なさい」



 光輝さんに呼ばれたけれど、近づくことすらできない。



「ここでいいです」




 ゆっくりお茶を飲む。

 桜子さんは光輝さんにべったりと甘えている。あんな風に甘えてみたい。

 きっと光輝さんの胸は、桜子さんの香りに包まれている。

 日の沈む様子を見るのも習慣になっている。

 その光景は何度見ても幻想的だ。

 夕食を食べた後、光輝さんは別室に移動した。

 わたし達がお風呂に入るためだ。

 今日も桜子さんは、わたしに胸を触らせて、その見返りに、わたしの胸を揉んだ。

 小さな膨らみしかない貧弱な胸を揉んで、「可愛いわね」と微笑んだ。胸を揉んだ後は体を触られる。 

 緊張と不安と恐怖。体が小刻みに震える。




「本当に残念な体ね」

「……はい」

「美緒の体、どう思う?綺麗?それとも醜い?」

「……すごく醜いです」

「そうね、野良犬ね」

「……野良犬です」




 今日も何かが壊れていく。

 桜子さんの胸は大きく、柔らかい。

 揉んではいないけれど、弾力が掌に伝わってくる。

 そして今日も落ち込んで、シャワーを浴びながら少し泣く。

 初日は我慢できたのに、日を追うことに涙を我慢できなくなっていった。

 シャワーで流れてしまうほど、ほんの少しだけ泣く。

 本当は声をあげて泣いてしまいたいけれど、それは許されないことだと分かっている。

 わたしは子供かもしれないけれど、子供じゃないから、こんなことで泣いたらいけない。

 その気持ちでほんの僅かな涙だけで止める。

 後はベッドの中で、自然に流れる涙をシーツに吸わせる。

 寝る支度をした後に、わたし達は寝室に移動して、光輝さんがお風呂に入るのを待つ。




「美緒、明日はどこに行きましょうか?海辺まで行ってみる?」

「でも光輝さんに聞いてみないと」

「光輝も連れて行けばいいわ」

「はい」

 わたしは、ここに来てから桜子さんに逆らえないようになっていた。

 その事に気付いていても、桜子さんから離れられない。

 桜子さんがわたしを大切にしているのが分かるから、逆らうことはできない。



「風呂、上がったよ」

「光輝!」




 わたしが笑顔を向ける前に、桜子さんが笑顔で胸に飛び込んでいく。

 結局、わたしはまた立ったまま、動けずにいる。浮かべようとした笑みも消えていく。




「お酒飲みましょう。お部屋に届けてもらうわ」



 桜子さんが光輝さんの腕を引く。

 とても無邪気で可愛らしくて、とても敵わない。




「美緒、リビングに行こう」



 光輝さんは立ち止まって、わたしに手を差しだした。

 その手を握ることができない。

 桜子さんが、光輝さんにしがみついたまま、じっとわたしを見ている。




「……わたし、眠いの、もう寝るね。おやすみなさい」

「そうか、おやすみ」




 久しぶりに光輝さんの手が頭をポンポンと撫でた。

 そんなことで泣きそうになってしまう。

 わたしは急いでベッドに入った。

 眠くはない。

 ここに来てからずっと不眠症だ。

 眠っても数時間も眠ってはいない。

 布団に入って、顔を覆う。それから、静かに涙を流す。




「美緒、どうかしたのか?」

「最近、元気がないのよね。理由を聞いても何も話してくれなくて」




 声が遠ざかって行く。

 翌日の明け方、一人でお風呂に入ろうと思った。

 ここに来て、ずっと桜子さんとお風呂に入っているから、一人で入ってみたかった。

 体に触れられるのは、本当は嫌だ。

 すごく気持ちが悪い。

 誰に触れられることなく、お風呂に入ってみたい。

 隣のベッドは空だった。きっとリビングで寝落ちているんだと思う。

 二人とも飲みすぎていないといいけれど……。

 髪をアップして、着替えを持つとお風呂場に行こうとして、そして、わたしは急遽作られた光輝さんのベッドを見てしまった。

 光輝さんの上に裸の桜子さんが跨がっていた。

 桜子さんは、わたしを見て、にっこり笑った。そうして、腰を振っている。




「あんあん、いいわ。こうき、もっと奥を突いて、そうよ、そこよ、あん、素敵……」

「うう、うううっ」




 桜子さんの喘ぎ声と、今まで聞いたこともない気怠そうな光輝さんの呻き声がした。

 わたしはその場から逃げ出した。

 持っていたタオルも着替えも、放り出して、寝間着の浴衣のまま、部屋を出てそのまま薄闇の道に出た。

 どこに行ったらいい?

 どこでもいい。

 逃げるの?何から?

 やっぱり光輝さんも男だと思った。

 豊満な胸の方が柔らかくて気持ちがいいと思う。

 きっと抱き合った時だって、痩せたわたしとは比べものにならないほど、気持ち良くなれると思ってしまった。

 海ではなく山に向かった。

 桜子さんは、海に行くと言っていた。

 その言葉に反抗したかった。

 今まで行ったことのない場所だ。

 浴衣と裸足で歩く場所ではないと思ったけれど、わたしは行く場所がなかった。

 裸足のまま必死に走った。

 どうしてか足の裏が痛い。

 わたしは振り向いた。

 赤い足跡があった。

 立ち止まったわたしの足の輪郭を描くように赤い枠が広がる。

 きっと切れてしまったのだろう。

 けれど、今、戻るわけにいかない。




(もう、あの部屋には戻りたくない。もう、光輝さんにも会わない。もう、信じることができない……)




 わたしはそのまま走り出した。ひたすら山を登っていった。

 泣きたいわたしの代わりに、空が涙を流し出した。

 わたしの心の中のように、雨はだんだん強くなって、豪雨になっていた。

 それでも、わたしは山に登って行った。

 山頂まで登って、それからどこに行くのか考えよう。


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