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プロローグ

ようこそ、死後の世界へ

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 冨田馨、享年二十六歳。
 私は、気付かぬうちに死んでいた。
 通勤ラッシュの真っただ中、電車を待っていたはずなのに。
 何がどうして、市役所みたいな場所にいるのだろうか。
 頭上には、『ようこそ、死役所へ』と血文字で書かれている。
 うん、これは分かり易くて良い。
 私は、死んであの世に来たのだろう。
 死後の世界は、もっと暗くて陰気な場所かと思っていたが全くそんなことはない。
 一言で表すなら、市役所みたいな場所である。
 死亡要因によって管轄が異なるようで、更に細かく課が分かれている。
 私は、死ぬ前の記憶が曖昧でどの課に行けばよいのか迷っていた。
「どうなされましたか?」
 職員らしき人物が、不審な行動をしていた私に声を掛けてきた。
 首から下げたネームストラップを見ると『鬼塚』と書かれている。
「一応確認ですが、ここは死後の世界であってますか?」
「ええ、そうですよ。ここで、転生の手続きを行っております。貴女の死因は何ですか?」
「それがですね。死んだときの事を全く覚えてないんですよ」
 困った顔で話すと、鬼塚は顎に手を当てて首を傾げた。
「珍しいですね。そういう方は、大抵現世で彷徨っているものなのですが。お調べするので、ここに名前・生年月日・住所の記載をお願いします」
 真っ白な紙とペンを渡され、私は鬼塚に言われたことをそのまま書き記した。
「では、お調べするので椅子に座って待っていてください」
 そう言うと、鬼塚はメモを持って奥に引っ込んでしまった。
 私は手持ち無沙汰になってしまったので、周囲を観察することにした。
 死役所というだけあって、グロイ死人も沢山いる。
 死役所内は、結構な人で賑わっていた。
 日本の一日死亡者数は約3840人。
 そう考えると、職員数が少ない状況では手続きにも時間が掛るだろう。
 死後の世界でもお役所仕事は大変そうだと考えていたら、鬼塚が戻ってきた。
「冨田様、お待たせしました。こちらへどうぞ」
 鬼塚に案内された場所は、窓際部署かとツッコミを入れたいくらい閑散としている場所だった。
 特例課と書かれたネームプレートに、私は首を傾げた。
 鬼塚に促されて部屋の中に入ると、三十代前半の妖艶な女性がマニキュアで爪を塗っていた。
「何じゃ。客が来るとは珍しいこともあるものだ。明日は、槍でも降るか?」
「イザナミ様、今はお仕事のお時間です。終業後になさって下さい!」
 鬼塚の顔が般若になっている。
 就業時間内に業務と無関係な事をしていたら怒りたくもなるだろうが、わたしがいる前で怒ることではないと思う。
「どうせ暇なんじゃし、良いではないか」
「貴女が怠惰過ぎるから、特例課に左遷されたんじゃないですか。最低限の仕事はして下さい。詳細は、こちらを確認して下さい」
 厚みのある紙の束を手渡されたイザナミは、嫌そうな顔で鬼塚を睨んでいる。
「マニキュアしたばかりだぞ。禿げたら塗り直しじゃ。大体、娘の魂に触れれば分かる事じゃろうに」
「冨田様に負担が掛かるので止めて下さい。元はと言えば、こちらの落ち度で彼女はここにいるんですよ」
 不穏な事を宣う鬼塚に、私は凡その事を察した。
「良いですか? くれぐれも適当な仕事をしないで下さいね」
 鬼塚は、それだけ言うと部屋を出て行った。
 美女と二人きりにされ、イザナミは爪に息を吹きかけている。
「あの……」
「何じゃ?」
 仕事しないんですかと言い出し辛くなったので、爪の話題を振った。
「マニキュアが剥がれるのが気になるなら、ジェルネイルをされてみてはどうですか?」
「じぇるねいる? それは何じゃ」
「ジェル状の樹脂を硬化させることで形成するネイルの事です。私の爪を見て下さい」
 ピンクベージュのワントーンカラーのジェルネイルを見せつけるように、イザナミの前に出す。
「艶があってぷっくりして美しい。じぇるねいるした爪だと言いたいのか?」
 自分の爪と見比べて落胆しているイザナミに、私は小さく頷いた。
「マニキュアと比べて、独特な臭いもなく長持ちするので個人的にジェルネイルをお勧めします」
 イザナミがマニキュアで爪を整えて鬼塚が渡した書類を目を通すまでの時間が、大幅に短縮される可能性が高い。
 万が一マニキュアが剥がれたりしたら、一から塗り直しになる。
「そんなものが現世では流行っているか。そのじぇるねいるとやらは、妾でも出来るのか?」
「出来ますが、慣れた方の方が仕上がりも綺麗だと思いますよ」
「お前は、どうなのだ?」
「自分でやってます」
「では、ここから必要な物を購入する。お前が、じぇるねいるとやらをやってみせよ」
 提案した私もなんだが、面倒な事になったぞ。
 どう断ろうかと考えていたら、ズイッとマネキュアが中途半端に塗られた手を差し出された。
 これは、断れないな。
 タブレットを手渡され、画面を見ると大手通販会社昇天があった。
 検索ワードにジェルネイルセットと入力して、ヒットした中で愛用しているbouquetのジェルネイルキットを購入した。
 合わせて、コットンや除光液・消毒用アルコールジェルも追加購入した。
 決済が終わると、何も無い場所からダンボール箱が現れてテーブルの上に置かれている。
「何をしている。早くせい」
「あ、はい」
 私は、宛名も何も書かれていないダンボール箱を開けて中身を取り出す。
 マニキュアを落とし、イザナミの要望を聞きながらジェルネイルを施した。
「単色塗りも良いが、爪に宝石を着ける発想は無かった。良い出来栄えだ」
 褒めて遣わすと言われたが、微妙な気持ちになる。
「あの、それで私は何でここに連れてこられたんでしょうか?」
「ん? ああ、そう言えば鬼塚が書類を渡していたな。暫し待て」
 鬼塚が置いて行った書類をパラパラと見たイザナミは、ハァァァァアと大きな溜息を吐いた。
「簡潔に言うぞ。冨田薫、貴女はこちらの手違いで誤って死んだ」
「はい?」
「本当は、同姓同名の男性が心臓発作を起こして駅のホームで死ぬ予定だったが。まさか、同じホームに性別以外殆どの同じの別人が隣に立っているとは思わないじゃろう!」
 ダンッと机を叩き、唸るイザナミに私は首を傾げた。
「えーっと、要するに奇跡のような偶然が重なって私は死んだってことですか?」
 そう質問すると、意外と言わんばかりの顔でイザナミが私を見ている。
「そうじゃ。普通は、もっと取り乱すものじゃろう。何故、冷静でいられる」
「いや~、起きた後の事をグダグダ言っても元に戻らないじゃないですか。割り切ってます。ぶっちゃけ、怒るのも面倒臭いんで。労力を割きたくないで御座る」
 断じて思考を放棄したわけではない。
「未練はないのか?」
「ありますよ。好きな漫画やアニメの最終回が気になります」
 生きたいという気持ちより、やっと肩の荷が下りたって感覚がある。
 私の反応に、イザナミは目を丸くして言った。
「若いのに達観しているのぅ。普通は、家族や友人、恋人に執着する人が多いのんじゃが……」
「人付き合いは希薄なので、私が死んだところで一時的に悲しんで直ぐに日常を取り戻すでしょう。それで、私はどうなるんですか?」
「生き返らせることは適わん。かと言って、今生の寿命分を死役所で過ごして貰うのも都合が悪い。そこでじゃ。今、試験的に運用している世界に死にたてホヤホヤの身体があるの! 寿命を全うするまで、その身体を使って生きてみないか?」
「因みに、寿命はどれくらいあったんですか?」
「88年じゃな」
 88年間も娯楽もない死役所ばしょで過ごすのは拷問にも等しい。
 私は、迷わず二つ返事で了承した。
「じゃあ、死にたてホヤホヤの身体に入ります。そちらの不手際なので、その世界で安心して生活できる力を下さい」
 私の提案にイザナミは若干渋い顔をしたが、手違いで死なせた負い目もあるのか了承してくれた。
「選ぶなら一つ、運任せなら三つ授けるよう」
「じゃあ、ランダムでお願いします。世界の知識と言語は、最低限保証して下さい。まず、どんな世界に渡るんですか?」
「地球と殆ど変わらないぞ。ただし、化学の代わりに魔法が存在している。場所にもよるが、文明は中世くらいまで後退している状態じゃな」
 最後の文言が引っかかる。
「後退したということは、高度文明が滅びて一から文明を築いたからですか?」
「そうじゃ。文明の崩壊と再生は、地球も同じじゃろう」
 確かに、そう言われると地球と殆ど変わらないという言葉は嘘ではない。
「……話を聞いていると力を貰っても、直ぐに死にそうですね」
「だから、力を授けるって言ってるじゃろう」
「せめて、ググル先生みたいに学習型自立AIのような知識が欲しいです」
 ググっただけで検索できる知識があれば、色々と役立つだろう。
 駄目元で言ってみたら、意外とすんなりと許可された。
「それくらいなら構わん。ガチャチケットを渡しておく。向こうの世界で役に立つじゃろう。向こうの女神には、連絡しておこう」
 三枚のチケットを受け取ると、足元の地面が無くなり黒い空間に落ちた。
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