春 かすか

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第五部

なみだ

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 早朝、外は霧がかっている。事後、ぼくは、私服に着替えると自室に全裸のあおなを残して退室した。白い景色を見ながら、バルコニーで煙草を吸うが、胸中のむしゃくしゃが取れなかった。あおなの言う言葉に一々、過敏に反応してしまう、ぼくもぼくだが。何かと彼女の発言は、ぼくの癇に障る。無論、悪意はない。だからこそ、苛立ちを覚えるのだ。

 数時間前に強力の催淫剤を飲んだ事で、まだその余韻が身体にじんわりと残っている気がした。普段だったら、あおなの裸体を見た所でぴくりとも来ないが、女の裸体を視界に入れただけでまた勃ちそうだった。その事にもまた苛々が募る。

 ただの八つ当たりだ。あおなは、悪くない。それも理解している。頭では。けれど、心が追い付かず、未だに言い知れない感情に支配されていた。

 ゆきとの情事、男に犯されている過去のぼくの痴態をあおなに見られた時に、自分の腹部を刃物で刺したのは、本当に咄嗟の事だった。よりによって、あおなに見られたという屈辱は計り知れない。死のうとは思わなかった。あんな玩具のような刃物で刺した所で人は死ぬ訳がない。

 死ねるものならとっくに死んでいる。ぼくは、怖くて死ぬ事が出来なかった。だから、今でも恥をかいてまでこうして生きている。本当に恥の上塗りだと思う。仮に苦痛もなく、楽に死ねるのなら、それに甘えている事だろう。人はそう簡単には死なない。自殺の失敗で生きてしまった事例もある知識もぼくは持っている。それらの知識から、ぼくは死、そのものを敬遠していた。

 バルコニーの手すりに肘を立てて煙草を咥える。煙はくゆらせ、空気へと音もなく溶け込んで行く。ぼくは、それをぼんやりと目で追った。あおなの身体を貪り、彼女を犯し続けている時にあおなは、そんなぼくを享受していた。何度も泣きながら謝罪するあおなに少なからず、罪悪感は湧いた。ーーだけど、感情のやり場がないぼくは、あおなにぶつける他なかった。

 視界が滲んでぼやける。煙草の煙を吐きながら、片目からは涙が一筋零れ、空いた手で涙を拭う。何故、自分が泣いたのかが分からなかった。過去の自分は、ゆきの前では良く泣いていたが、今になって、泣く事は滅多にない。自分でも内心、戸惑っていた。

 そうして、人の気配を感じる。ぼくは、はっとして慌てて振り返った。背後には、白いワンピース姿のえりかが立っている。

 ーー泣いている所を見られた。よりによって、想い人のえりかに。自分の弱い所を目撃された事で、ぼくの自尊心には、ヒビが入る。

 ーーかすか

 指文字でえりかから名を呼ばれた。控えめな所作でぼくの事を心配している風だった。

「……すみません。変な所を見せてしまって。ーー大丈夫ですよ」

 煙草を消して吸殻を携帯灰皿に仕舞いながら答えた。えりかはぼくに近付いて来て、ハンカチをおずおずと手渡す。

「必要ないです。問題ないですよ」

 ーー何か、嫌な事でもあったの?

「……別に。特に何も」

 ーーちとせさんから、かすかがお腹を刺したって聞いた。寝てなくて、大丈夫なの?

 あおなの気遣いと違い、えりかの気遣いには苛立ちは覚えなかった。二人に何の違いがあるのかは分からなかったが。想い人のえりかからは、素直に言葉を受け入れる事が出来た。

「大丈夫ですって。フルーツナイフで刺しただけです。あんな玩具で刺しても死にはしませんよ」

 ーーゆきに、また何かされたんでしょう?

 手話でえりかが言い募る。ひらひらと手で言葉を操る、えりかにぼくは、黙って手話を使って応答した。

 ーーじゃあ、仮にえりかに事情を話したら、えりかが慰めてくれるんですか?

 ーーどういう意味?

 ーー好きな人からキスして貰ったら、傷も治るかなと思って。

 半分冗談だったが、半分本音だった。えりかは、ぺちんとぼくの頬を軽く叩く。ぼくのあからさまなセクハラによって、むっとしているようで、同時に「好きな人」と言われた事から照れている様子だった。

 ーー昔は、そんな意地悪しなかったのに。

 ーーそうでしたっけ?

 ーーあんなに優しかったのに。今はひねくれて、見る影もない。

 ーーすみませんね。こんな風になってしまって。

 先程まで別の女を無理矢理、八つ当たりで抱いていたとは、えりかには口が裂けても言えなかった。ぼくの隣に立つえりかの長い髪に触れる。柔らかい髪質が手に馴染んだ。

 たとえ、どんな女と体の関係を持とうとも、えりかに対する気持ちは別格で。ぼくは、ぼくにとって、今も昔も、えりかは大事な存在で必要不可欠な存在だ。何故、こんなに彼女を好いているのかは分からないが、好きで好きで堪らなかった。彼女の仕草一つ一つが愛おしい。彼女の姿が入ると、自然と目で追ってしまう。ぼくは、彼女だけに対しては、初心だった。ーーえりかの笑顔を見られるだけで、ぼくは充足感に包まれる。それは今でも変わらない。

 くすくすと笑う、ぼくにえりかも釣られて微笑する。そして、次の言葉で目が点になるぼく。

 ーーキス、してあげようか?

「ーーは?」

 思わず、手話の手を止めて、口から声が漏れてしまった。えりかは、にっこりと微笑んでいる。ぼくは、えりかからの言葉を反芻する。見間違いではない。確かに、キスという単語を手話で使っていた。

「ええと、いや……え?」

 見る見る内に、顔に熱が込もり、戸惑いを覚えるぼくに、えりかは楽しそうに笑った。えりかからの冗談だと気付かされると、ぼくはむっとする。未だに、ぼくに対する、えりかの気持ちは分からない。何度も遠回しに告白はして来たものの。あの時のえりかとの指切りもぼくの渾身の告白はなかった事にされているようで。ちなみに、屋敷から出ようと言う約束は彼女の中では覚えているらしい。

 ーー女の人に慣れてるのに。どうして、私相手だとそんな初心な反応を取るの?

「ほっといてくれませんか? ぼくはね、根は、純真無垢なんですよ」

 ーーかすかって、私と一緒に寝たら、やっぱり、嬉しいの?

「……」

 えりかの珍しい追撃により、ぼくはとうとう、黙り込んだ。ーー嬉しいに決まっているだろう。その言葉を飲み込む。十年前にえりかから初めてを奪ったあの日の夜の事は未だに忘れられない。無理矢理だったが、好きな人と一つになるという行為が忘れられなかった。その後、ゆきに台無しにはされたが。

 えりかもえりかで成長したようで、ぼくに冗談混じりの追撃は出来るようにはなったらしい。

 ーーそんなに、私の事が好きなの? かすか

「……好きですよ。好きで悪いですか」

 ーーいや、悪くはないけど。

 ぼくは、むすくれた顔をしながら、えりかは追撃をやめて、気を利かして話題を変えた。

 ーーそう言えば、さいとうさんがこの前ね、格好良くて

「は?」

 ーーえ? 何? 何?

 ぼくの不機嫌そうな声音に、えりかは不思議そうな顔をする。ぼくは、えりかの唐突の話題に気分を害された。

「やめてくれません? 他の男の事を格好いいとか言わないで下さい」

 あからさまな嫉妬の言葉をぶつけるぼくに、えりかはきょとんとする。ぼくの言葉の意図に気付いたえりかは、また手話で返答しようと手を動かした。

 ーーかすかは、可愛いよ?

「あのですね……。男に可愛いって言葉は禁句です。えりか。前から思ってたけど、ぼくの事、男として見てないでしょう?」

 ーーそんな事、ないよ?

「凄くぎこちない言葉をありがとうございます。すみませんね。男らしくなくて」

 一応、これでもえりかの為に身体を鍛えたり、教養を学んだりもした。だが、えりかの中では、ぼくのポジションは何処なのだろうかと思う。仮の話でえりかがぼくの事を好きになってくれたら、嬉しい限りだが。そんな奇跡はやって来ないとも思う。

 ーーかすか。そんなむすくれないでよ

「別に、むすくれてません。心の底から面白くないだけです」

 ーーごめん

「ちなみに、身体能力だったら、さいとうよりも、ぼくの方が上ですからね」

 ーーえ? そうなの?

「当たり前でしょ? 元武闘家直伝の武闘を散々、叩き込まれてますからね」

 ーーそうなんだ

「ぼくにとって、いつだって、貴女は最愛な人ですよ。だから、貴女の事は守りたいです」

 ーーどうしたの? いつもはそんな事、言わないのに

「……別に。気分です」

 心からの本音だった。だけど、同時に脳裏には浅ましくもあおなの身体に貪る自分を思い描いていた。えりかと話す時は、いつも浅ましい自分が蘇ると思う。これは、ぼくの癖なのだろうか。

 バルコニーでえりかと世間話を数十分程、話した。意図的にひよりの話はしなかった。そうして、えりかとは別れる。えりかの事を抱き締めたかったけれど、あおなとの情事が頭にちらついて、えりかに触れる事が出来なかった。ーー少しだけでもいいから、えりかに触れたいと、ぼくは強く強く、思う。
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