春 かすか

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第一部

くもつ

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 ⚠︎閲覧自己責任・性的描写あり

 目が覚めた先は、見慣れない白い天井だった。瞬きを数回、繰り返すと、シックな壁紙を視界に入れた瞬間、私は勢い良く飛び起きる。自分の格好を確認すると、高級そうな生地で出来た、白のネグリジェに身を包んでいた。こんなものを着た覚えはない。その後、くらくらと目眩がして、重い頭を片手で抱えた。

「ーーおはようございます」

「!?」

 声を掛けられるまで、目の前の椅子に腰掛けている青年の存在に気付く事が出来なかった。驚いて叫びそうになったが、私はその声を飲み込み、咄嗟に振り返る。

「……お茶でも飲みますか?」

 青年は無表情で事務的に淡々と問い掛けた。私は首を何度も横に振って拒否を示した。見ず知らずの家。見ず知らずの人。見ず知らずの食べ物。その要素を含む代物が目の前にあるのだ。警戒心を緩められる事は出来ない。高級そうなティーセットを間近にしても、少女趣味がある乙女のように目を輝かせる事は出来なかった。

「ーーああ、そうそう。此処、鍵、置いておきますね。屋敷の中は、好きに出入りして下さい」

「……え?」

「どちらにしろ、もう此処に来た以上、此処からは絶対に出られないので。屋敷の中を歩き回っても、主人からは何も言われないでしょう」

 朝の天気予報を言うように、流れるように語る青年。だけど、その言葉からは、不穏さしか感じられなかった。

「貴方、えっと……お兄さんは……」

「ああ、申し遅れました。ぼくは、ノルンと申します。……よろしく。……マリア」

 青年は、思い出したように横文字の名前をまた淡々と言う。何処からどう見ても日本人にしか見えない外見をしている彼。ハーフか、何かなのだろうか。それともあからさまな偽名を使っているのだろうか。

 名前に対する疑問よりも、私は青年の最後の言葉に引っ掛かっていた。私は日本人であり、和名の本名が存在し、マリアという名前ではない。それは、聞き慣れない呼び名だった。

「……マリア?」

「ああ、主人の愛玩用ネームです。勝手に名前をつけたがるんですよ。主人の趣味でね」

「愛玩……?」

「じきに時間が経てば、此処での過ごし方も分かって来るでしょう。……主人は今、就寝していますので、また明日の朝、呼びに来ます。ーーお邪魔しました」

 私の問い掛けを聞き流すと、青年は椅子から立ち上がり、部屋から音もなく出て行った。部屋の鍵はついているが、鍵を掛けられて閉じ込められた様子はない。私は、裸足を床に着けると、チェストの上に置かれた鍵の束を手に取った。複数の鍵が束になっていて、どの鍵が、どの部屋の鍵なのかが分からなかった。

 一刻も早く外に出たかった。現状を知るにしても情報が少な過ぎる。ノルンと名乗った青年は、屋敷を出歩いていいと言っていた。屋敷の住人でもない、私に屋敷の鍵を手渡すなんて、不用心だとは思うが。この際、無駄な事を考える事はやめにした。考えても答えが出て来ないと思ったから。

 私は、辺りを見回すと自分の学生服が壁に掛けられている事に気が付いた。急いでネグリジェを脱ぎ捨てて、学生服に着替え直すと部屋から退室する。

 廊下は静寂に包まれていた。窓の外を見ると、二階の高さにいた事を把握した為、一階に下りる階段を探した。廊下を走ろうとすると、自分の耳がピアノの音を拾った。ピアノを習った事がある人間なら直ぐに分かる悲しい名曲が聴こえて来る。

 耳を澄ますと、此処から近い場所にピアノを弾いている人間がいる事が分かった。人がいる場所に行ってもいいのだろうかと私は警戒したが、気になったので足を進ませた。

 扉越しからピアノの音が鳴り響く。私は、扉を数センチ程、開けてから、その隙間から中をそっと覗いた。

 ピアノの音と共に啜り泣く声が聴こえて来る。その声は一つじゃない。無数に重なる、か細い声がピアノの旋律と共に室内を満たしていた。

 両手を後ろに拘束された全裸の少年が数人、俯きがちに座っていた。明らかに小学低学年位の年齢の男の子達。アロマか何かだろうか。噎せ返るような甘ったるい、花の匂いがした。

 ピアノの演奏者はノルンであり、短い曲を何度も何度も繰り返し弾いていた。私は心臓が早鐘を打つ。頭の中で警鐘が鳴り響いていた。この少年達は誘拐されて来たのではないか? と思うと同時に、私も心優しい善良な大人に保護された訳ではないのだ。ネグリジェを着せられていただけで、この少年達と大分、待遇は違うが。

 ーー此処で、一体何が始まるんだろう?

 充満している匂いを吸う事を避けるが為に制服の袖をハンカチ代わりにした。数分後、部屋の奥にいる少年二人に異変が起こる。お互いがお互いの体を舐め合い、睦み始めたのだ。その光景に私はぎょっとすると、ピタッと演奏の音がやんだ。

「ーーマリアですか。……お腹でも空きましたか?」

 ノルンの歌うような声音に扉を支える手が微かに震えた。少年達は私の存在に気が付くと、私の前に泣きながら縋り付いて来た。

「ーー助けてっ!」

「家に帰して下さい!」

「お姉ちゃん。助けてえええええぇっ!!!」

「……ぼくは耐性があるからいいですけど、この匂いを少しでも吸い込むと。ーーああ、なりますよ」

 ノルンは足音を立てて私に近付いて来て、私の腕を掴んだ。手を離そうとするが、力が強くてびくともしない。ノルンの指差す先には、涎を垂らして艶めかしく睦み合う、二人の少年。私は、間近にその光景を見てぞわりと鳥肌が立つ。このアロマみたいな匂いは、もしかしたら、媚薬が含まれている、麻薬か何かなのかもしれない。

「……体、熱くないですか? 良ければ、ぼくが熱を冷ましてあげましょうか?」

「ーー離して……っ!」

 ノルンは笑っているようで笑っていなかった。怪しい眼差しは熱を孕み、私を値踏みするように見つめて来る。あのアロマを多少、吸ってしまったが、特に自分の体に異変はない。

 ノルンの性格上、冗談で言葉巧みに他者へ嫌がらせする行為が趣味だという事を私は後日、知る事になるのだが。今の私には知る由もなかった。

「ーーかすか」

 不意に声がした。凛とした低い、落ち着いた、通る声。眼鏡をかけた黒髪の青年が入口に立っている。「かすか」と呼ばれたノルンは青年へとゆっくり振り返った。

「……ああ、すみません。……起こしてしまいましたか。ーー煩かったですか?」

「……いや、水を飲みに起きただけだよ」

 ノルンの手は私の腕を掴んだままだった。

 黒髪の青年は柔和な微笑をその整った容姿に浮かべる。

 だが、何処か無機質で笑顔の仮面を貼り付けているかのようだった。それが私には不気味に映る。

「ーーマリア。良かった。目が覚めたのかい?」

「あ、あの……」

 黒髪の青年は、私の存在を確認すると、花が咲くようにぱっと明るくなった。子供みたいに笑う、無邪気な青年に、私は警戒心がより一層強くなる。ノルンの掴まれた手が私の腕から離れていた。

「ーーご主人ですよ。マリア」

「え?」

 ーーこの人が、こんな優しそうな人が……私を?

 頭が追い付いていない。私は思考が停止して立ち尽くしていた。そんな私をノルンは一瞥すると、主人に敬意を込めた声音でこう伝えたのである。

「……マリアが例の物を体内に入れたので体の熱が冷めないそうです」

「ーーは!?」

 素っ頓狂な声を上げる私を他所に、ノルンはにやりと怪しく笑って私へと目配せした。

 ーーじきに時間が経てば、此処での過ごし方も分かって来るでしょう。

 先程のノルンからの事務的な言葉が脳裏を過ぎった。黒髪の青年は、恋を知った乙女のように気恥ずかしそうな顔をする。

「……そうなのかい?」

「違います!」

「……照れなくたって良いじゃないですか」

 「照れてない」という拒絶の言葉を言い捨てる前に黒髪の青年が人畜無害そうに優しく微笑むと、一呼吸を置いてから引っ掛かる言葉をさらりと口にした。

「ずっとずっと一緒の時間を過ごしたいと思ってたんだ。マリア。今晩は、かすかじゃなくて、僕の相手をしてくれるだろう?」

 私は言葉に詰まる。ノルンは蚊帳の外だというように、何処吹く風だった。助けを求めているのに、目を合わせようとすらしないのだ。逃げられない。いや、最初から逃げられるような相手ではなかったのかもしれない。今になって、ノルンの言っている事が分かった気がした。

 ーーこの黒髪の青年は、自分の世界の中だけで、生きている。

   ♡

 翌日の朝、私は急激な吐き気から、ベッドの中で目が覚めた。ベッドの主である黒髪の青年は既にいない。ノルンは、薄く笑いながらチェストの上にあの鍵束を再度置いた。自由にお屋敷を歩いていいと同時に、「此処から逃げられるものなら逃げてみろ」という脅迫行為を平然とする。

 部屋の去り際、ある冷酷な言葉を残して、ノルンは私を部屋に置き去りにした。

「ーーご苦労様です。役割を果たしたら、解放されると思いますよ。ま、精々、死なない程度に、夜のお世話、頑張って下さい。……お人形さん」
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