浅瀬の追体験

園村マリノ

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 少女は幸せだった。
 
 小規模ながらも会社を経営する父と、専業主婦である母の間に生まれた。二人はいつも明るく優しく、仲睦まじかった。
 庭付きの大きな一軒家に美味しい料理、お洒落な洋服、おもちゃ、家族旅行。幼少時から、何不自由ない裕福な生活を送っていた。
 中学卒業後は、私立女子校に入学。兼ねてから憧れていたセーラー服は、グレーの生地に赤いラインの入った白襟と赤いスカーフという組み合わせで、大のお気に入りになった。
 親元を離れた寮生活は不安だったが、気の置けない友人たちが何人も出来た。成績は悪くなく、英語を覚え海外で働きたいという、漠然としてはいるが将来の夢も出来た。
 
 そんな少女にも、ちょっとした悩みがあった。

「知ってる? アキちゃん彼氏出来たんだって!」

「この間、別の学校の友達たちと会った時に、男の子も四人いてさ。で、一人の子に付き合ってほしいって言われて」

「中一から卒業まで同じクラスの男子と付き合ってたけど、今は連絡取ってなくてさー……」

 私立高校でそれなりに校則が厳しいとはいえ、今現在恋人がいたり、過去に一度は交際歴があるという生徒は少なくなかった。それらの経験がまだ一度もない少女にはとても羨ましく、そして同時に少々の焦りも感じていた。

 それでもやはり少女は幸せで、前途洋々だった。

 雲行きが怪しくなってきたのは──実際にはその前からだったのだろうが──一年の夏休みだった。

 久し振りに帰宅した少女だったが、滞在数日目には、両親の間に漂う不穏な空気を察していた。どうしたのかと尋ねると「何でもないよ」と笑顔で返ってきたが、かえって不安になった。

 同じ年の秋。

「お父さんとお母さんは、離婚する事になった」父が見た事もないような沈痛な面持ちで、衝撃的な事実を告げた。「お父さんが家を出て行くが、学費だとか、お金の事は心配しなくていいからな」

「お父さんてばねえ、余所よそで若い女の人と子供を作ってたのよ」対照的に冷静で、穏やかな笑みさえ浮かべている母は、もっと衝撃的な事実を告げた。「いずれ一緒になろうって約束もしていたんですって」

 離婚後、母は暗く短気で卑屈っぽくなった。
 学校の友人たちは、少女の苗字が変わった事で大まかな事情を察したらしく、敢えて聞かないようにと気を遣ってくれたが、かえって弱音を吐いたり愚痴を溢しにくくなった。
 少女は元気をなくしてゆき、成績も落ち続けた。友人たちとの交流も避けるようになり、徐々に孤立していった。
 
 少女は生まれて初めて、自分は不幸だと感じていた。


 救いの手が差し伸べられたのは、翌年の春だった。

 一人で過ごす時間が多くなっていた少女は、放課後や休日には門限ギリギリまで外で遊ぶようになっていた。

 ある休日、フラリと立ち寄ったゲームセンターで、不良にしつこく言い寄られて困っていると、一人の男性が保護者のフリをして助けに入ってくれた。男性は名前も名乗らず去って行ったが、その翌日、女子校近くの大きな公園でばったり出くわした。
 男性は二一歳で、東京の大学に通っているそうだった。背が高く精悍な顔立ちで、一見取っ付きにくそうだが、喋ってみると気さくな人だった。帰り際に後日また公園で会う約束をし、それ以降も、不定期的に会ってはたわいない会話をする間柄になっていた。
 気付くと少女は、暇があってもなくても男性の事ばかり考えるようになっていた。胸が高鳴り、会う度に心地好い緊張感を覚えていた。

 少女は恋をしていた。

「君、いつも一人だけど、学校のお友達とは遊ばないの?」

 初めて公園近くの喫茶店に誘われたある日、そう聞かれた少女は口ごもってしまった。どんな言い訳をしようか考えていると、余計な事を聞いてしまったと謝罪された。
 この人なら信用出来るかもしれない。そう判断した少女は、自分の身に起こった出来事や現状を、勇気を出して正直に打ち明けた。

「そうか……それは辛いね。でも君は、よく頑張っているね」男性は神妙な面持ちで言うと、少女を見据えて続けた。「僕は、君の力になりたい。君を癒したい。君さえ良ければ、これからも隣にいさせてほしい」
 
 少女は目に涙を浮かべて頷いた。


 恋人と過ごす日々は、本当に楽しく、幸せだった。

 恋人は様々な場所に連れて行ってくれたし、常に少女の精神状態を気にかけてくれ、落ち込みがちな時は笑わせようとしたり、じっくり話を聞いたうえで励ましてくれた。

 夏休みが終わる頃、少女と恋人はC県内をドライブし、昼過ぎに海岸まで来た。
 多くの海水浴客に混じって泳ぎ、日が沈む頃になると、灯台の近くの浅瀬まで移動し、波打ち際で二人だけでじゃれ合ったり、砂浜に腰を下ろしてたわいない会話をした。
 そして、その日は帰らなかった。
 母は新しい恋人に夢中で、娘が友人宅に泊まりに行くと嘘を吐いても、疑いも心配もせず、あっさりと送り出していた。

 少女は幸せだった。最愛の人さえいれば幸せだった。

 
 その幸せは、二学期が始まって間もなく、呆気なく崩れ去った。

 恋人の大きな嘘と裏切りが発覚した。
 彼は二一歳の大学生ではなく、二七歳の社会人だった。しかも既婚者で、三歳になる子供までいた。
 その事実を教えてくれたのは彼の妻だった──ご丁寧に学校までやって来て、教師や大勢の生徒たちが見ている前で、鬼の形相で。

 少女は学校を退学せざるを得なくなった。
 母には連日罵倒され、やがて無視されるようになった。

 九月が終わる頃の早朝、少女はお気に入りの制服姿で家を出て、電車に乗った。
 向かった先は、最後に恋人とデートした、C県の海岸だった。海水浴シーズンは終了していたが、砂浜にはちらほらと人の姿が見受けられた。

 少女は歩道を奥の方へと進み続け、灯台のある岬へ向かった。そちらにも何人かいたが、すぐに去ってゆき、誰もいなくなった。
 歩道から砂浜に下りると、ペタリと座り込み、そのまま数時間、ボーッと海を見続けた。やがて時が経ち、日が沈む頃になると立ち上がり、波打ち際まで来ると、ためらわず浅瀬に入った。海水は、冷た過ぎずぬるくもない、絶妙な加減で心地好かった。
 膝より少々下まで浸かったところで止まると、岬の白い灯台をぼんやり眺めた。そう遠くないうちに取り壊されるらしいという噂を耳にしたと、あの日、愛していた男が言っていた。
 ふと気付くと、海面に制服のスカーフが落ちてしまっていた。腰を屈めて指先を伸ばしたが、波のせいか、目が涙で滲んでいるせいか、掴めそうで掴めない。もうどうでも良くなり、諦めた。

 少女は砂浜に背を向けると、深淵へとゆっくり歩き出そうとした。
 そして同時に、こちらに近付いてくる足音に気付き、反射的に振り向いた。

「危ないよ」穏やかで、温かさが感じられる声だった。「そっちじゃなくて、こっちにおいでよ。一緒にお話ししよう」

 砂浜に、少女とほとんど変わらないくらいの年齢に見える少年が立っていた。
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